プロローグ ~くまだって、泣いていい~
その白いくまは、非常階段で泣いていた。
正確に言えば、くまの顔は笑っていた。
丸い黒目。少し垂れた眉。いつでも微笑んでいるように上がった口元。水色の大きなリボンを首に巻いた、二頭身の白いくまだった。
けれど、その大きな身体の内側からは、押し殺したような泣き声が聞こえていた。
当時、小学六年生だった俺は、病院の夏祭りを抜け出したところだった。
右足に巻かれた包帯が蒸れて、リハビリの先生から渡された松葉杖も腕に食い込んで痛かった。大人たちは俺を励ますつもりで、「すぐに走れるようになる」と繰り返していた。
けれど、本当に以前のように走れるかどうかは、誰にも分からなかった。
明るい言葉を聞くほど、不安になった。
だから俺は、一人になれる場所を探していた。
非常階段の踊り場で、先客を見つけた。
病院の夏祭りで子どもたちに風船を配っていたマスコットが、壁際に座り込んでいた。
大きなくまの頭を抱えるようにして俯いている。
肩が小刻みに揺れていた。
俺が松葉杖を動かすと、先端が床に当たり、乾いた音を立てた。
白いくまが顔を上げる。
笑顔のまま、動きを止めた。
俺は立ち去るべきか迷った。けれど、見なかったふりをするには、その背中があまりにも小さく見えた。
「中にいる人、泣いてる?」
白いくまは何も答えなかった。
代わりに、右手を左右へ振った。
泣いていない、と言いたいらしい。
「でも、泣いてる音がする」
今度は両手で顔を覆った。
くまの手は大きすぎて、もともと顔の半分ほどしか隠れていなかった。何より、くまの顔そのものが笑っているので、まったく説得力がない。
俺は少しだけ笑った。
すると、白いくまは不服そうに身体を背けた。
「ごめん」
謝りながら、その隣へ腰を下ろした。
怪我をしている足を投げ出す。わずかに痛んだが、声には出さなかった。
踊り場の小窓から、夕方の光が差し込んでいた。祭り会場から流れてくる音楽が、分厚い防火扉を通して遠く聞こえる。
俺は鞄に手を入れた。
取り出したのは、青い鈴のついたキーホルダーだった。
母親が土産物屋で買ってくれた、特別高価でもないくま型の飾りだ。二つの鈴が対になっていて、片方は俺の鞄に、もう片方は家の鍵についていた。
くまの飾りから青い鈴を一つ外し、白いくまへ差し出した。
「これ、やる」
くまは首を傾げた。
「今のこと、誰にも言わない代わり」
差し出した手のひらから、白いくまが鈴を摘まみ上げる。
小さな鈴が、ちりんと鳴った。
「くまだって、泣いていいだろ」
白いくまの動きが止まった。
「ずっと笑ってたら、疲れるし」
俺がそう続けると、白いくまは両手で青い鈴を包み込んだ。
しばらくして、その大きな身体が俺のほうへ近づいてきた。
何をするつもりなのか分からずにいると、白い腕が俺の頭と背中に回された。
柔らかな身体に包まれる。
夏なのに、着ぐるみは温かかった。
内側から、小さな声がした。
「……ありがとう」
女の子の声だった。
俺が何か返すよりも先に、防火扉の向こうから誰かがマスコットを探す声が聞こえた。
白いくまは慌てて立ち上がった。
踊り場を離れる直前、こちらを振り返る。
右手を上げると、小指だけを不器用に突き出した。
秘密にしてほしい、という意味らしい。
俺も小指を立ててみせた。
白いくまは満足したように何度か頷き、階段を駆け上がっていった。
その後、俺は彼女の顔を見ることはなかった。
名前も知らなかった。
やがて足は治り、中学生になり、高校生になった。
青い鈴を渡したことさえ、少しずつ思い出さなくなった。
ただ、ときどき夢に見た。
笑顔のまま泣いている、白いくまの夢を。




