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第8話:被害者遺族と果てぬ慈しみ

 昼過ぎの霊園。


 曇った空は低く、乾いた風に乗ってメジロの鳴き声だけが遠くから届いていた。

 清水は、黒いシャツの袖を肘までまくり、音のしない墓前で一人佇んでいる。

 手には、磨き上げられた細身のシャンパングラス。

 その中に、一輪の白い花──浜菊が挿してある。


 余寒のせいか花びらの端が、わずかに茶色くなり始めている。

 それでも茎はまっすぐで、グラスを満たす水の中で小さな気泡を生んでいた。


 供物台には、枯れ果てた供花と、色褪せ、破れかけた紙片がひとつ。

 雨に打たれて滲んだ文字が残るそれは、どれだけ月日が経ったかを示していた。

 清水はしゃがみ込み、束の線香を焚いて、墓石を見上げる。

 手を合わせる代わりに、小さく吐息を漏らすと、その震えに呼応するように蝋燭の火が揺らめいた。


 静寂のなか、線香の煙が立ち上り、散りながら鉛色の雲に溶け込んでいく。

 グラスの中の浜菊だけは、流れる春風にそよいでいた。

 ポケットから折り畳まれた封筒を取り出し、おもむろに供物台に置く。


「……また来るよ」


 一言だけ声をかけ、清水は立ち上がり、そのまま背を向けて歩き出す。

 足元の砂利が、伸びる影に合わせて乾いた音を立てていた。


 霊園の出口へ向かう途中、並ぶ石碑の間で一人の男とすれ違う。

 その中年の男は、背を丸め、肩を小さく震わせて立ち尽くしている。

 男のすすり泣く音は、羽ばたく鳥の声にかき消され、誰の耳に届くこともなかった。


「……父さんを許してくれ……」


 墓前に向かって、かすれた声を絞り出すかのように問いかけている。

 清水は──立ち止まらず、歩き続けた。

 男の背中を見ることはせず、黙ってその横を通り過ぎることが、唯一の弔いだった。


 気が付けば、空は黒い雲が薄れ、青から朱い色へと変わり始めていた。

 いつもの大通りを抜け、小さな路地に曲がり、Bar DESCEND(ディセンド)の前にたどり着く。

 足元を見ると、ドアの前にひっそりと花束が置かれていた。


 宛名も宛先もない──白いユリが一輪だけの花束。


 清水は見渡したが、静まる路地に人の気配は感じない。

 その花束を手に、ドアにかかった札を「CLOSED」から「OPEN」へ裏返す。

 その時、路地の曲がり角から一人の男が小走りに歩み寄ってきた。


「あの……すみません、あ、お店……入れますか」


 声をかけてきたのは、霊園で一人涙を流していた中年の男だった。

 表情はこわばっていたが、目線だけが何かを確かめるように、まっすぐこちらに向けている。

 清水は一瞬だけ目を細めたが、扉を開け、冷気が漂う店内に招き入れた。


「どうぞ……」


 男は頭を軽く下げ、手すりを頼りに一段ずつ確かめながら階段を下りていく。

 清水は男が入ったことを確かめてから、指先でドアをそっと引き寄せた。

 カウンター席の中央に座った男は、上着を脱がず、棚に並ぶ色とりどりの酒瓶を見つめている。

 清水は、手にしたユリの花束をカウンターの隅に置き、声をかけた。


「店先にこの花を置いたのは、貴方ですか?」

「え……ちがいます」

「そうですか……、何かお飲みになられますか?」


 硬い面持ちから少し気恥ずかしそうな表情に変わり、小声でどもりながら、男は答える。


「……あの、私、お酒飲めなくて……オレンジジュースって、ありますか?」

「はい」


 清水は手についた汚れを丹念に洗い流し、一番下の棚の奥からグラスを取る。

 冷蔵庫の扉を開け、冷たい空気と一緒に一本のオレンジ色の瓶を取り出す。

 グラスに角が取れた氷を三つ落とし、オレンジジュースをゆっくりと注ぐ。

 満たされた蜜柑色の液体が、ほんの少し優しく泡を立て、すぐに静まり返った。


 清水はコースターを敷き、紙に包まれたストローと一緒に男の前に置く。

 男は手を伸ばさず、グラスの中に浮く色を帯びた氷に眼差しを向けている。

 そして、暫くの沈黙のあと、ひとつひとつ確かめるように語りだした。


「……毎年この日、霊園に行くんです。もう、五年になります。ずっと気になっていたんです。……あなたも、毎年同じ日に来ているから」


「私は……、妹の命日なんです」


 命日という言葉が、こだまのように何度も跳ね返り、喉の奥に苦い後悔の味をせり上げさせた。

 落ち着きを取り戻すため、ターンテーブルの上で廻るレコードに針を乗せたが、微かに聞こえる針音さえ心をざわつかせた。


「いることに気づいていても、声をかけることはできませんでした。でも……今日だけは、なぜか……ついてきてしまったんです。すみません」

「いいえ」


 男は言葉の後、早まる動悸を鎮めるため、オレンジジュースを口にするが、寄せた唇は震えることを止めなかった。


「私の娘は……元交際相手の男に殺されました」


 清水は、言葉を交わさずに静かに黙祷の意味を込め、短く頭を下げた。

 男も頭を垂れながら言葉を続ける。


「夕方の下校時でした。……駅前の人通りが多くて明るい場所だったのに」

「家内から知らせを受けて、私は急いで駅に向かいました。娘は病院に運ばれた後でしたが、道端に広がった血の跡が……今でも夢に出ます」


 凄惨な記憶を反芻する男の顔は蒼白で、吐き出される声は両手で受け止めるにはあまりにも重かった。

 視界に映り込む赤いリキュールの照りが、やけに鈍く光って見え、生々しい傷跡に重なる気がした。


「ストーカーだったんです。……娘は何度も警察に相談してたんです。私も何度も足を運びました。けれど……被害が出なければ動けないの一点張りでした」


「犯人が誰なのか、私も知っていた。それでも──娘を守れなかった」


 自責の念で言葉が途切れるたびに、男の周りには拭いきれない血の匂いが立ち昇る。

 カウンターに置かれたスマホの待ち受け画面には、可憐な女性が微笑んだままこちらを見つめていた。


「犯人の男が憎くてたまらない。……許すことなんて一生できない。なのに、あの男は今も鉄格子に守られて、生きている」


 行き場のない声の中、グラスのオレンジジュースは氷が溶け出し、昨日と今日という境目のように混ざり合わない色の層を作りだしていた。


「テレビで娘の顔が映るたびに……怒りが込み上げてくるんです。事件の時はあんなに騒いでいたのに、時が経てば……ただの“過去の出来事”みたいに扱われる。それが悔しいんです」


 静かに流れるピアノの音は、閉ざされた扉の向こう側の理不尽な世界には届かなかった。

 清水と男の影は、まるで時間が止まったかのように微動だにせず、染みの残った板張りの床に残り続けていた。


「今も……電話がかかってくるんです。『お前の娘がそそのかしたんだろ?』って。お前の娘が悪いんだって……」


 無責任な悪意に晒され続ける者の悲痛な声に耐えかねるように、スマホに映る娘の顔が、黒い幕に覆われて画面の中に沈んでいった。

 光の筋に漂っていた埃が、力尽きたようにスマホに降り積もっていく。


「わかってるんです。犯人が死刑になったって……何も変わらないってことぐらい……だから娘の墓の前で謝ることしかできない自分にも、腹が立つんです」


 報われることのない謝罪を繰り返し続けた男の背中は、痛ましいほどに孤独を背負っていた。

 清水はその重圧を肌で感じながら、自らもまた、赦しを乞うことすら許されない過去に縛られていることを痛感していた。


 浜菊の横にひっそりと置かれたピンクのバレッタに目を向けると、瞼の裏に浮かんだのは、あの日の自分だった。

 妹の亡骸を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった自分に、今も消えない怒りと後悔が突き刺さる。

 病院の廊下でうなだれる清水のポケットの中で、土にまみれた美穂の携帯が震え続けていた。

 誰からの連絡かも確認せずに、ただ気力なく電源を落とした。


 彼女は、最後に誰を想っていたのか。見つめる未来に何があったのか──それすら、知らない。

 ただひとつ、自分の選択が間違っていた。それだけが残された事実だった。


 掌の熱さで氷が全て溶け、混じり合い、元の色を失ったオレンジジュースが、行き先を見失った瞳のように濁っていた。

 反射する照明の光さえも吸い込み、グラスの中には永遠に続く虚無感だけが残っていた。


「……いつか、この悲しみや怒りから解放される日がくるんでしょうか……」


 男の掠れた声は、出口のない暗闇を手探りで歩き疲れた者の最後の声に聞こえた。

 清水はその問いに目を伏せ、長い時間をかけて自身の絶望を静かに見つめ直す。

 そして、棚の髪留めを見つめながら首を横にも縦にも振らず、ただ一言だけ返した。


「残された者は……忘れないことが唯一なんだと思います」


 その言葉に反応するように、男は握りしめていたグラスを置き、すべての悲しみを抱えて、声は出さずに肩を揺らしていた。

 目を伏せた男の横顔には、あの日から決して癒えることのない時間に耐え続ける者の苦悩が刻まれていた。

 そして、清水もまた、己の時計もあの日から止まったままであることを、改めて噛み締めていた。


「こんな話をしてしまって……すみません。貴方なら話せる気がして」

「……いいえ」


 冷たさを失い、色褪せたオレンジジュースを一気に飲み干し、目を閉じながら、男は静かに立ち上がる。

 レシートを受け取り、上着の裾を整え、深々と清水に一礼し、入口へと歩き出す。

 ドアに手をかけ、ふと立ち止まったが、言葉にすることなく鈴の音だけ響かせた。

 静けさを取り戻した店の中で、棚に置かれた浜菊は、何も語らず──ただそっと清水に寄り添ってる。

 天井から降り注ぐ照明は、太陽ほど眩しくもなく、月ほどに暗くもない明度で、残された空のグラスをいつまでも照らし続けていた。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: Chet Baker/ You Don't Know What Love Is

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。


筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

感想やスキ(♡)をいただけると、店の照明が少し明るくなります。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

https://open.spotify.com/playlist/4R4RSwzqq6m5ug2jCVcj6u?si=l8Gz_nYFT2qIyi-Tlq2Rpg


■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者えびなが おわりに帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


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©蛯永終

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