第9話:纏った正義と吐き出た暴力
その暴力は、いつから、なぜ始まったのか──
自身に何度も問いかけようとも、答えが返ってくることは無かった。
それは「正義」という義務に押し潰され、行き場を失った感情が暴走した末のものだったのか。
己の弱さから生まれた「支配」を覆い隠すための、愚行の果てだったのか。
ただ、その激昂は塵となって舞い上がり、男の中に何も残さず、都合よく消えていく。
──あるマンションの一室。
「お父さん! やめて!」
「黙れ……黙れって言ってるだろ!」
「お母さん! お母さん!」
「こっちに来ちゃダメ……! 早く、自分の部屋に入りなさい!」
「俺を……俺をそんな目で見るなッ!」
女の頬には青い痣が浮かび、痛々しく紫に変色しながら腫れ上がっていく。
女は、その日常の痛みを、耐え続けなければならない「傷み」だと自分に言い聞かせていた。
血走った眼差しの下で、男の拳は激しく痙攣していた。
手のひらに食い込んだ爪が皮膚を突き、滲み出した赤みが、その手自身の震えと共に不気味に波打っている。
明りの堕ちた部屋の奥から、素足が床を叩く音とともに、息を詰まらせた子どもが駆け寄ってくる。
女の腕にしがみつき、声を上げて泣きじゃくる我が子を前にしても、男は湧き上がる苛立ちを抑えきれなかった。
ただ、自分でも得体の知れぬ痛みだけを抱えたまま、男は泥沼の中で苦しげにもがいていた。
やがて我に返った男は、茫然と辺りを見渡し、そこにある受け入れがたい現実に息を呑んだ。
ガラスの破片が飛び散ったリビングをあとに、男は逃げるように立ち去り、小雨に濡れる街へと消えていった。
夜のアスファルトから湧き上がる蒸気が、足元を覆い隠し、道筋を見失わせる。
曇り空をすり抜ける月明かりは、誰の感情にも干渉せず、ただ湿った街の空気を照らすだけだった。
*
──夜十一時過ぎ。
空の濁りは消え、雨も上がっていたが、それでも男のコートの襟はまだ湿り気を含んでいた。
冷たい風にさらされ続けながら、黒く塗りつぶされた路地を彷徨ってきたのだろう。
重い靴音を引きずるようにして、男は久しぶりにそのドアを押し開けた。
店内へ差し込む壁灯の光が、皺の刻まれた顔と落ち窪んだ目元を一瞬だけ浮かび上がらせる。
「いらっしゃいませ」
男は返す言葉もなく、隅の椅子に腰を下ろすと、清水は何かを察したのか、それ以上声をかけずにその時を待った。
カウンターに置かれた右の拳には、怪我の跡らしき箇所に赤い塊が残っている。
息が整うのを見計らい、男は清水の顔に焦点を合わせ、噤んだ口をゆっくりと開いた。
「元気だったか、清水……」
「お久しぶりです、八神さん」
八神は掌を組み、胸に閊える息苦しさを無理やり底へ沈めると、頭を下げたまま言葉をつづけた。
「……手帳、もう置くことにしたよ」
「そうですか。お疲れさまでした……」
清水は表情を緩めず、男に向かって軽く頭を下げた後、磨き終えたロックグラスを手元へ引き寄せた。
「いつものでいいですか?」
「ああ、頼む……」
汚れの一つもないロックグラスに、眩しいほど透き通ったアイスボールを一つ落とす。
濃い琥珀色の液体が小気味よい音を立てて注がれると、光を帯びた飴色で満たされていく。
置かれたグラスから、バーボンの甘く尖った香りが湧き上がってくる。
八神は、目の前のグラスを確かめもせず掴み、間髪入れずに喉へと流し込んだ。
漏れた吐息に混じる酒の匂いは、甘さを失い、苦い毒をまとっていた。
「俺は……被害者を救うこと、事件を解決すること、そればかり考えていた人生だった。なのに、一番近くの家族は……守れてなかった……」
手筋に混じる太い傷跡を見下ろし、指先をゆっくり握ったり開いたりすると、刑事として生きた日々が自然と脳裏を駆け巡った。
しかし、その記憶を塗りつぶすように、一番大切な家族を自分の手で壊したという真実が、後悔と矛盾にまみれた汚れとなって浮かび上がる。
空になったグラスは照明を浴びて屈折した光を放ち、カウンターの上に綺麗な格子模様を落としていた。
「守ったつもりだったのに、なんで殴ったのか……俺は、頭が真っ白で……気がついたら妻が床に蹲って、子供が泣き叫んでるんだよ……」
震えた記憶を巡らせても、悲痛に叫ぶ妻と子供の顔だけがいくつも浮かんでくる。
その声に怯えながらも、何故かこみ上げてくる怒りを、息を大きく吸って必死に抑える。
そして、自分の行いに許しを請うように乾き続ける唇で、再び言葉をつないだ。
「妻が骨折して病院に運ばれた……診断書もある。……俺がやったってことだけは……覚えている。それでも俺は……家族を守ってやってるつもりだったんだ……」
清水は、千切れた言葉を遮らぬように、男の両手で包まれたグラスへ、新しい氷を一つそっと落とし、再びバーボンを注いだ。
視界をかすめた八神の左手薬指は、内出血で赤と青が交じり合い腫れあがっていた。
ただ、かつて嵌められていたはずの結婚指輪が消えていることに気づいたが、清水は黙って視線を外すだけだった。
「自分が怖くなるんだ……怒鳴って、どれだけ殴ったのか……気がついたら自分でも止められなくなってるんだよ……」
拳に残る赤いかさぶたをいくら剥がそうとしても、そこから流れ出る血と暴力の余波だけは消えず、残っていた。
その生々しい傷跡を見つめる清水の眼差しは、ただ、黙って痛みを湛えている。
八神は、定まらぬ瞳が己の弱さの表れなのだと認めていたが、それでも語ることを止めなかった。
「現場じゃ……被害者遺族に『守れなくてすまない』と頭を下げていたのに。家に帰れば、加害者と同じことを……家族にやっていた。……こんな矛盾、おかしいよな。でも……繰り返しているんだ。……俺の中に別の化け物がいるみたいに……」
その声は、まるで不揃いなパズルのピースを無理やり繋ぎ合わせたかのように断片的で、ひずんでいた。
途切れる言葉の合間を、スピーカーから響く鍵盤音が一音一音埋めていく。
八神は、閉じていた瞼を開けると、グラスの縁に残った無色な雫を指で拭いながら呟いた。
「……昔、署でな、木嶋さんに怒鳴られたことがあった。妻が相談していたみたいでな」
「『警察手帳を持っているからといって、正義を守っているつもりになるな。お前の家族も、一人の市民と何も変わらないだろう』……そう言われて、無性に腹が立った。分かっていたんだ。あの人の言葉が……正しいってことは……」
清水の手が一瞬だけ震えたが、悟られまいと右手で左手首を強く掴み、自らに痛みを与えてその震えを封じ込めた。
木嶋がどんな男だったかを、清水も痛いほどに知っていた。
かつて彼が愛飲していた酒瓶へ視線を向けると、愚直なまでに正義を貫いて生きた、あの顔が浮かび上がってくる。
「家族には、もう会えないんだ……。惨めなもんだよ。それでも償わなきゃならない……いつかまた顔を合わせられる……日が来るまで」
そう言いながら、縋るように家族と過ごした時間を記憶の奥底から掘り起こしていた。
沈められた娘や妻の顔を、必死に手探りですくい上げようともがく。
なのに、何故か浮かぶ妻と子供の姿だけは、遠い彼方で霞んでぼやけたままだった。
影が重なるカウンターには、グラスが残した濡れた跡が、いびつな輪となって残っていた。
清水は、拭き取る手を途中で止め、その跡を見つめたまま口を開く。
「……後悔も、生きる理由になるんじゃないでしょうか」
言葉の余韻の中で、時計の針は小さな音を立てて真夜中を示す線を通り過ぎていく。
八神は、苦笑ともため息ともつかない音を漏らし、残りの酒を煽る。
鈍い沈黙が続くなか、天井から吊り下がった仄暗い照明の光が二人の男を照らす。
それは、まだ、現実の中で時間が流れ続けていることを、臆面もなく告げていた。
八神はスーツの内側から色褪せた古い手帳を取り出し、開いたページに滲んだ文字を見つめながら清水に問う。
「……木嶋さんは、あるNPO団体を追っていた。表向きは弱者の支援を掲げているが、裏では黒い噂が絶えない。木嶋さんが姿を消してから、この件に関して『深入りするな』と上から止められた」
「……なぁ、清水。お前も木嶋さんから何か聞いていたんだろ?
失踪前に、お前と木嶋さんが何度も連絡を取っていたことは、もう調べがついているんだ」
「俺はあの人には何度も救われた恩義がある。警察を辞めても……木嶋さんだけは見つけ出さなきゃならない……娘さんのためにも」
木嶋の名が耳に届くたび、胸の奥に封じ込めていた痛みが大きく膨れ上がり、内側から清水の呼吸を破裂させそうになる。
NPO団体「Re:Link」──
あの夜に吹いた潮風の匂いだけは、どれほど振り払おうとしても体に染みついている。
だからこそ木嶋と交わした約束を、今はまだ、──破ることは出来ない。
清水は避けるように暗い目線を落とし、わずかに首を横へ振るだけだった。
八神はそれ以上問い詰めることはせず、空になったグラスを両手で包み込む。
「……カウンセリングを受けることにしたよ。変われるかどうか……自信はないけどな。……また来る」
ピアノが奏で続ける深い旋律の中、八神はそう言い残して重い腰を上げた。
孤独を抱えた背中を丸めて、ゆっくりと入口へ向かい、扉を押し開ける。
隙間から入り込んだ冷たい夜気が、雨上がりの匂いを運び、酒の匂いが染みついたコートを軽くした。
いつもの街角は、深く澄んだ紺青の空の下で、夜明け前の柔らかな寂静に包まれている。
誰の声も響かない歩道には、肌を刺す空気が遠くまで続く街灯を一つひとつ目に滲ませていた。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune: Thelonious Monk / ‘Round Midnight
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。
実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。
筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)
音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。
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短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト
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