第10話:祝福なき相愛と純真の包紙
その日は、美穂の誕生日だった。
けれど、ケーキが並ぶことも、「おめでとう」と誰かが声をかけることもなかった。
妹が自分の誕生日であることを口にすることもなかった。
疲れ果てて帰宅する母親に、負担をかけたくないという幼すぎる配慮。
明かりが時々途切れる電球を前に一人、淡々と教科書を開き、宿題をこなしていた。
そんな美穂の横顔から覗く、押し殺したような表情が痛々しくて胸に刺さる。
息を切らして近所の商店へ向かった清水。なけなしの小銭で手にしたのは、一枚の板チョコだった。
清水は、美穂が席を立った隙に、彼女の机の上にチョコを黙って置いた。
戻ってきた美穂が机の上のチョコに気づき、照れ隠しで漫画を読んでいるふりをする清水を振り返る。
「……これ、お兄ちゃんが?」
清水は目を合わせず、ただ短く「ああ」とだけ答えた。
美穂が銀紙を丁寧に剥がして一片を割ると、小さく硬い音が響いた。それをそっと口に含む。
安っぽくても、甘さを含んだ小さな幸福が冷えた美穂の心に広がっていく。
鼻をすする彼女の大きな瞳からは、銀紙の反射光を帯びてきらめく涙が、小さくこぼれ落ちていた。
「おいしいね、お兄ちゃん」
*
──夜十時。
清水の声が、低く静まり返った店内に響く。
「いらっしゃいませ」
一組の男女がbar DESCENDの扉を、店内の人影を慎重に窺うようにして、ゆっくりと開けた。
男はドアノブを掴んだまま身を引き、女が店内に入ったことを見計らってから扉を閉める。
羽織っていたベージュのコートを脱いだ男は、絶えず何かを気にしているような影を潜ませ、くすんだ表情を浮かべていた。
連れの女は、光が零れるほどの艶のある長い髪を肩まで揺らし、ひときわ透明感を放っていた。
彼女の指先は、陰に隠すように、男の右肘のあたりでシャツのたるみを軽くつまんでいる。
二人が席に着くのを見計らって、清水は用意したメニューをそれぞれに手渡した。
受け取った女の方は、メニューを開くこともせず、清水に問いかけてきた。
「……何か、チョコレートを使ったカクテルできますか?」
「あ、じゃあ僕もチョコレート……あまり甘くないカクテルをお願いします」
二人の注文に、清水は女にはゴディバのリキュールを、男にはカカオリキュールを活かした苦味のあるカクテルを選んだ。
いつもの手際でシェーカーを振る清水を、言葉なく見つめる二人。
グラスをカウンターに置き、出来上がったカクテルを光に翳しながら一本の線のように注ぎ入れていく。
「バレンタインだけど、チョコもらえた?」
「ん? いいや……」
男が素っ気なく答えると、隣に座る女はどこか嬉しそうな表情でその言葉に反応し、口を開く。
「え、こんなにイケメンなのにね。世の中の女性は見る目がないのね」
「……お前が、それ言うか」
男は微かに呆れたように笑いながらも、固く握りしめた手の甲には汗が滲んでいた。
「私は見る目があるはずよ、だって……」
女の甘い眼差しに射抜かれた男は、照れ隠しのように、注がれたカクテルを慌てて掴む。
そして二人は、互いの顔を見つめた後、手にしたグラスを軽く当てて乾杯の音を小さく響かせる。
「……ささやかですが」
清水は短く告げ、銀紙に包まれたチョコの小皿を二人の前に置いた。
女は小さなチョコを包み紙から取り出して口に入れる。
「……高校生の時、手作りの大きなハート型のチョコをあげたら困った顔してたよね」
女は小悪魔のような表情で、グラスの中で揺れる水面を見つめていたが、男に顔を向けた瞬間、優しい眼差しで微笑んでいた。
男は思い出したのか、頬を少し引きつらせながら、カクテルのカカオと苦味を感じていた。
「ああ。高校生の頃だったか。手作りなんて柄じゃないのに」
「あれ、本当はすごくビクビクしてた。もし渡して断られたらって。でも、『ありがとう』って食べてくれた。うれしかったなぁ」
女は頬を染め、カウンターに小指で円を描きながら、ふと視線を上げて宙を見つめた。
清水は二人の会話を遮らない距離を保ちながら、洗い立てのグラスをいつもの所作で磨く。
少し照れ臭くなるほどの甘い匂いが漂う中で、時間だけは淡々と進み続けている。
二人の他愛もない会話は、いつしか距離を置いた沈黙へと変わっていた。
終わらない静寂に耐え切れず、女が小さく俯いた瞬間、こぼれ落ちる一滴の涙。
女の震える手に、男は熱く火照った己の掌をそっと重ねて優しく握りしめる。
しかし、その表情からそれまでの笑みは消え、複雑な面持ちで目の前のグラスを見つめていた。
「……今日、お父さんに言われた。私たち……気づかれていたみたい」
「私がお兄ちゃんにすがるのは、一時の気の迷いで愛なんかじゃないって。私が勝手に家族の愛情を勘違いしているだけだって……」
父親の言葉を反芻する彼女は、重い胸の内をなんとか言葉にしようと、上ずり、途切れながらも声を絞り出した。
「お兄ちゃんは、私を騙して都合のいいように利用しているだけだって。……そんなの、ただの病気だって……」
男は、“騙して”、“利用している”、“病気”という言葉に反応して小さく肩を震わせ、その唇は一瞬にして血の気が引いたように青ざめていく。
「ひどいと思わない? 本当に愛しているのに。……でも、お父さんに言われながらも考えたの。もし他人だったとしても……お兄ちゃんを選んでいたんじゃないかって……絶対にそうだって……」
そう言い終えると、彼女の目からは堰を切ったように涙が溢れ出し、そのまま隣に座る男の肩に顔を伏せた。
男は動じず、彼女を突き放すことも、抱き寄せることもせず、ただ肩から伝わる彼女の耐え難い苦痛を受け止めるように俯く。
そして、清水の方に感情を押し殺した声を向けた。
「……すみません」
「いいえ」
清水は一言だけ返し、再びグラスを拭き始める。
男はカウンターの隅に並ぶシェーカーの表面に映り込む自分たちの姿をじっと見つめ、やがて、喉の奥にこびりついた感情を吐き出すように口を開いた。
「僕が、妹を苦しめているんです。他人から見れば、それはただの支配だとか虐待と責められても否定できない。でも……僕は妹を愛している」
清水は、男の言葉が孕む「愛」が何を意味するのか、うまく整理して答えられるほど器用ではなかった。
あの日から妹という存在を、真正面から考えることを避けていた。
言葉にしてしまえば、全てを失う気がしていた。
古びたスピーカーから流れてきたナット・キング・コールの歌声。
優しい言葉で、「永遠の愛」を歌っていた。
不釣り合いな旋律が、曲線を描きながら佇む二人の間をすり抜けていく。
「両親にもずっと申し訳ないと思いながらも……自分の理性を抑えられずに……。わかってるんです、世の中から遠ざかる生活をすれば、いつか絶対にどちらかが壊れるって……」
「……お兄ちゃんは、なにも悪くないよ……」
清水は二人の姿に、いつかの自分たちを思い出していた。
貧しく孤独な暮らしの中で、美穂は守るべき対象であると同時に、痛みを共有する己の分身そのものだった。
それは決して恋愛感情ではない。理不尽な世界から彼女を庇護することが、自身の存在意義そのものになっていたような、切実すぎる結びつきだった。
凛と咲き誇る浜菊は、吹く風もないのに花弁を震わせた気がした。
目の前にいる二人は、押し寄せる罪悪感と受け入れがたい世間の圧に潰されそうになっている。
「お兄ちゃん……誰もいない場所で暮らしたいよ」
女はそう言うと顔を上げ、涙で濡れた頬のまま兄の肩に顔を埋めた。
男は、「ああ」と一言だけ声を落とす。
絞り出すようなその短い響きの中に、もう引き返すことのできない道を共に歩むという決意が込められている気がした。
女は男の腕にしがみつき、罰を受ける子供のように声を殺して震え続けている。
男はその腕を振り払うこともせず、ただ己の内側に湧き上がる行き場のない感情と、消えない渇望を息継ぎせずに受け止めていた。
「僕は、どこで進む道を間違ったのか……」
家族が次々と目の前から消え去るのを見送ってきた清水は、いつしか人を愛することを遠ざけて生きてきた。
大切な者を喪う絶望を知りすぎたゆえの、これ以上傷つきたくないという防衛本能だったのだろう。
清水は、男の最後の言葉に答えるように、一言、声を発した。
「……道に立つ標識を、見間違えることもあります」
泣き腫らした目元をそっと拭う妹の肩を抱き、去っていく二人。
清水は、あえて見送ることはせず、背を向けたまま店先の明かりを落とした。
暗がりの路地を壁伝いに歩く二人は、やがて日の当たらない坂道を登っていく。
寄り添うふたつの人影は、正しさの線を越えた共犯者ではなく、いつか訪れる破滅に怯えながらも、決して互いの手を離せない者たちの影だった。
人は幸福や希望以外にも、ただ己の致命的な欠落を塞ぐためだけに愛を求めてしまうこともあるのかもしれない。
血縁という繋がりが出口のない箱で熱を帯びた時、外界の健やかな風すら息苦しくなるほど互いに依存して暗がりへ墜ちていく。
世間は確実にそれを「病理」や「禁忌」と呼ぶ。だが、社会の理から外れ、己の身を滅ぼしてでも互いの手を離せないこの狂おしいほどの真摯さを、なんと呼べばいいのかわからなかった。
「おいしいね、お兄ちゃん」
清水は、あの時、美穂から差し出されたチョコの破片が、温かい手の中で溶けていく感触を思い出していた。
いつもの街は、どこか浮ついて甘ったるく、扇情的な風が喧騒の中に舞っていた。
行き交う恋人たちが帯びているはずの温もりは、ただ切ない残り香となって体をすり抜けていく。
店の片付けを終えた清水は、スーパーの袋から一枚の板チョコを取り出す。
それは金色の縁取りがある、どこにでもある安価なミルクチョコレート。
それを、あの日の記憶と共にバレッタのすぐ横にそっと置いた。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune: Nat King Cole / When I Fall In Love
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。
実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。
筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)
音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。
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noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。
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短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト
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