第6話:老いた夫婦と遥かな落し物
午後四時すぎ。
清水は買い出しを終え、膨らんだ紙袋を両手に提げて本通りを歩いていた。
酒瓶の重さには慣れているのに、冷えた風のせいか、指先が微かに痛む。
人の流れが途切れない通りの端で、着物姿の小柄な老女が立ち止まっていた。
淡いイエローグリーンの米沢紬。
その気品ある佇まいは、喧騒の激しいこの街では少し浮いて見えた。
左手に小さなカードを握り、行き交う誰かを呼び止めては、丁寧に頭を下げている。
「すみません、……このお店、ご存じないかしら」
声をかけられた若い男は、彼女の手元をちらりと見ただけで、無愛想に首を横に振って去っていく。
幾度なく繰り返されたでろう同じやりとりに、老女の目元には疲弊の影が差していた。
清水は紙袋を持ち替え、一歩引いた場所で声をかけた。
職業柄、驚かせない距離だけは、身体が勝手に覚えている。
「……お困りですか」
老女は、突然の呼びかけに少し不審な視線を向けながらも、清水の静かな佇まいにゆっくりと唇を開く。
「このお店……ご存じかしら? 私には読めなくて」
差し出されたカードに顎を引き、視線だけを落とす。
黒地に、白抜きのアルファベットが躍っていた。
――bar DESCEND。
無意識に彼女の顔に視線を向けたが、すぐに目線を伏せて答えた。
「分かります。ご案内します」
彼女はほっとしたように息を吐き、安堵の表情を浮かべて深々と頭を下げた。
清水は、彼女の心許ない歩幅に合わせ、ゆっくりと歩を進める。
本通りを折れ、横道へと入ると街の喧噪が薄れ、小さな足音でも路地に響く。
老女は静けさに息を呑み、不安を押し殺すように清水の影を追う。
「……ここになります」
路地の奥、褪せた古い木扉と、雨で錆びついた真鍮のプレート。
老女は手元のカードとプレートを幾度も照らし合わせ、息を整えるように胸に手を当てた。
清水が扉の鍵を開けると、彼女は呆気に取られたようにつぶやいた。
「あら、あなたのお店でしたのね」
「はい……」
老女はカードを襟の内側へ忍ばせると、手すりを伝って足を踏み入れる。
明かりの灯った空間で、何かを探すようにゆっくり見回し、椅子に腰を下ろした。
清水はいつもの位置に立ち、メニューは出さずに声をかける。
「お飲み物は、何になさいますか」
「私、こういう場所は初めてで。何をどう頼めばいいのか……」
「お酒は、嗜まれますか」
「あまり強くはないのだけれど」
「ソフトドリンクもお作りできますが」
その提案に、老女は一度口を噤んだが、やがて意を決心したように静かに告げた。
「……できれば、少しだけ、お酒の味が欲しいのです」
「かしこまりました。抹茶はお好きですか」
「ええ、とても」
清水はシェーカーを組み上げ、無駄のない手際で腕を振る。
氷が砕け、弾ける音が、二人きりの店内に節奏となって響く。
老女はその見慣れない所作を、無垢な眼差しで追い続けていた。
「抹茶ミルク・フィズになります」
「あら……まあ、綺麗ですね」
彼女は、火照る両手でグラスを包み込み、淡い口紅を引いた口元に寄せる。
乾いた喉が潤うと同時に、強張っていた肩の力が抜けていく。
もう一度店内を隅々まで見渡すと、襟元からカードを取り出し、カウンターへ静かに置いた。
「実は、私の主人が先日亡くなりました。七十九歳でした」
「遺品を整理しておりましたら、背広のポケットからこれが出てきたんですのよ」
カードを見つめる彼女の語りは、零れ落ちた記憶から何かを探しているようだった。
「主人はお酒が好きで、よく外で飲んでいたのは知っておりましたけれど……この歳になると、互いへの興味も薄れてしまって。どこで誰と飲んでいるかなんて、聞きもしませんでしたわ」
「家では息子が、唯一のお酒相手でしたのだけれど。息子が家を出てからは、あの方、家で飲むこともなくなりましたの。……きっと、一人で飲むには、あの家は広すぎたのでしょうね」
はにかむような笑み。──しかし、その口元には、後悔とも悲しみともつかない複雑な情念が滲んでいた。
彼女は胸元から写真を一枚取り出し、清水の方へ向けてそっと差し出す。
「これが主人です。見覚え、ございませんか」
写真の中の老人は、気難しそうに眉間に皺を寄せていたが、目は温もりを含んだ眼差しを向けていた。
清水は、色褪せてセピア色に染まり始めた光影に記憶を重ねる。
「この方なら……。木曜日の夜八時頃、いつもお一人で」
「そう……。主人はいつも、何を飲んでいたのかしら」
「ウィスキーの水割りです」
「……そうなのですね」
清水はバックバーから一本のボトルを手に取り、カウンターへ静置した。
“オールドモルトカスク 1999”琥珀色の液体を湛えたそのボトルには、一つの時代が封じ込められている。
老女は、瓶の肌に揺らめく明かりを見つめ、抹茶の沈むグラスを再び口にした。
清水は彼女の声が店内の静寂に消えぬよう、スピーカーの音量をひとつ落とす。
「主人と添い遂げて五十年。子が育ち、孫が生まれ、また二人きりに戻って……。いつの間にか、交わす言葉も失くしておりました」
「一度、主人が大切にしていた酒瓶を、掃除の邪魔だと捨ててしまったことがありましたの」
「普段、何も言わない人なのに、あの時ばかりは酷く怒りまして。たかが瓶一つ、と思っておりましたけれど……今ならわかります。大切な記憶の品だったのかもと」
淡々と月日を振り返るその声は、慈しむようでもあり、悔やむようでもあった。
清水は相槌を打たず、──ただ、彼女が吐き出す歳月の重みを受け止める。
「歳を重ねると、感謝も、謝罪も、喉の奥でつかえてしまって」
“後悔”とは、過ぎ去った時間を取り戻せないことなのだと、彼女は誰よりも深く理解していた。
カウンターのボトルに刻まれた“1999”という数字を見つめ、彼女は独り言のように漏らした。
「一九九九年……息子が結婚した年かしら……」
「夫婦とは不思議なものですね。出会った頃は恋焦がれ、子が生まれれば共に歓喜し、子の門出を見送れば肩を寄せ合って安堵する。……それなのに、いつしか傍にいることが厭わしくなり、失えば、寂しくなったり……」
彼女は写真を見つめ、そっと指先でなぞった。澄ました主人の頬を、愛おしむように。
清水はその指先を視界の端に捉えながら、老人のことを思い出していた。
淡いチェック柄のジャケットに、深い青の石が揺れるループタイ。
洗練された装いを崩さず、静かにグラスを傾けていたあの老紳士。
言葉数は少なかったが、その穏やかな微笑みの裏側で、彼はいつも何かを確かめるようにウィスキーを味わっていた。
彼はその日、珍しく清水に問いかけた。
「失礼ですがマスター、あなたはご結婚を?」
「お恥ずかしながら、まだです」
「そうでしたか。今の時代、珍しいことでもないでしょう」
老紳士はグラスの中の氷をゆっくりと回し、浜菊に目線を合わせた。
花を愛でる横顔に、一瞬だけ深い影が差したのを、清水は覚えている。
「今日、家内を誘ったのですよ。ここに」
「そっけなく断られましたよ。結婚記念日だったんです。あいつはもう、忘れてしまったのでしょう」
自嘲気味に笑いながら、彼は追憶を飲み干すように最後の一口を流し込む。
グラスからオールドモルトの角が取れた香りが立ち昇る。
彼は皺の刻まれた頬に手を当て、過ぎていく時間を惜しむように、静かに目を閉じていた。
「時と共に、人は何かを忘れ、すれ違っていく。それもまた、老いていくということの証なのかもしれませんな」
そう語り、グラスを傾けていた老紳士を見たのは、その日が最後だった。
気が付くと、老女が棚の隅でひっそりと花開く浜菊に視線を留めていた。
「綺麗ですこと。……懐かしい」
「主人と初めて訪れた海辺に、たくさん咲いていたのを覚えていますわ。潮風の匂いと小道の脇に沢山の浜菊。いまでも鮮明に覚えております」
浜菊を見つめる彼女の瞳が、──微かに潤んでいる。
その不意な語りは、清水に“あの日”の記憶を蘇らせた。
雲の隙間から覗く月、冷たい潮風に舞う花弁。
背を向けて去っていく男と、ただ立ち尽くすしかなかった――自分。
清水は、動揺を隠すかのようにグラスを一つ手元に引き寄せ、氷を丁寧に砕き始めた。
「一度、主人から飲みに誘われたことがありましたの。お酒は嗜まないからと、断ってしまいました。今となっては、一度くらいお付き合いしてあげればよかったかしらと……」
巻き戻せぬ時計の針を、震える指先で手繰り寄せるように、彼女は写真の中の夫を見つめ続けている。
清水は砕いた氷をグラスに満たし、老紳士が愛したウィスキーをダブルで注いだ。
ミネラルウォーターを加え、静かにステアする。
写真の傍ら、新しいコースターの上に、その琥珀色のグラスをそっと供えた。
「……知りたいと願う、それが誠意なんだと思います」
老女は虚を突かれたように顔を上げたが、やがて、陽だまりのような微笑を浮かべた。
「ありがとう」という小さな声が、店内の静寂に溶けていく。
ピアノの旋律が優しく背中を押し、時を越え遥か彼方へと連れ立っていく。
写真の横に置かれたグラスから、カラン、と氷が回る小さな音が優しく響いた。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune : Hank Jones / My One and Only Love
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。
実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。
筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)
音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。
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noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。
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短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト
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