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第5話:在日中国人と揺れる境界線

 金曜の夜、十時過ぎ。


 表通りは、派手な看板とネオンが夜空を彩り、狂騒を極めていた。

 さまざまな国からやってきた観光客が集うその場所で、多国籍な言葉が入り混じり、人々は笑いながら「日本の文化」を楽しんでいる。


 祝祭のような賑わいの外側、曲がった路地の影にひっそりと佇む酒場。

 bar DESCEND(ディセンド)では、今夜も数人の客がそれぞれの時間を味わっていた。


 カウンターの左端では、黒縁メガネの青年が一人で静かにグラスを見つめている。

 右端には、会社帰りと思しきサラリーマンが二人。

 一人はタバコを吸い、もう一人はグラスの氷を揺らしながら雑談を交わしている。

 清水はいつもの位置でグラスを拭きながら、二人の会話を黙って聞き流していた。


「取引先の工場で、またベトナムの留学生が逃げたってよ。受け入れる方も大変だよな」

「ベトナム人が事件を起こしたってニュースも、最近よく見るし」

「埼玉の方じゃ、クルド人が中学生を襲ったって事件もやってたね」

「あちこちで好き勝手やられちゃ、たまったもんじゃないよな」

「日本語も通じないなら、そりゃ衝突も起きるよ」


 二人の会話に踏み込まず、背を向け、グラスの水滴を拭き取り続ける清水。

 左端に座るもう一人の客に視線を向けることはしないが、わずかに意識だけは向けていた。


「結局さ、日本で働きたいなら、日本のルールには従えって話だろ」

「来る前に日本語覚えてこいって感じだよ」


「出張で京都へ行った時も、そこら辺は中国人だらけでさ。路上にゴミは捨てるわ、所構わずしゃがみ込んでるわ、マナーが悪すぎて驚いたよ」

「オーバーツーリズムってやつだね。最近はどこへ行ってもそんな感じらしいよ」


 左端に座る青年は、グラスを手にしたまま微動だにせず、静かに佇んでいた。

 視線を落とし、気配を悟られぬよう、どこか遠い場所を見つめている。

 頬の線は止まったままだが、ただ、指先だけがわずかに震えていた。

 その震えを覆い隠すかのように、サックスの音色が小気味よくカウンターの上で踊っていた。


 扉の外側では、なにやら騒々しく人影が列をなして通り過ぎていく。

 一瞬の静寂のあと、店の扉がけたたましく開かれた。

 鋭く鳴った鈴の音が、ただ事ではない予感を孕んで、沈んでいた空気を跳ね上げた。

 唐突に姿を現したのは、──制服姿の警察官だった。


「お客さんのところ、すみません。ちょっと確認だけさせてください」


 清水が顔を上げると、警官は小脇に抱えていた黒いバインダーから一枚の資料を抜き取り、カウンター越しに差し出した。

 それは、防犯カメラの映像をプリントアウトした手配書だった。

 粗い画素の向こうで、無機質なレンズを掠めた男の横顔が、冷たくこちらを見据えている。


「この男、見覚えありませんか? 近隣で強盗事件が発生しまして。韓国籍の男性です」


 一瞬で店内の空気は凍りつき、客たちの背筋に不穏な感覚が走った。

 サラリーマンの二人は顔を見合わせ、ヒソヒソと話し始める。

 左端の青年は、目線を揺らしながら背筋を強張らせ、グラスを持ち上げようとした手を静かに下ろす。

 息を沈め、自らの気配を削ぎ落とすように、極限まで肩を丸めた。

 視線を警官には向けず、むしろ、この瞬間、「誰かに見られる」ことに怯えているようだった。


 清水は手配書に目を凝らし、拙い記憶を巡らせたが、やがて静かに首を横に振った。


「すみません、見覚えはありません」

「ご協力ありがとうございます。最近、この近辺でも外国人のトラブルが増えていまして。何かあればご連絡ください」


 警官は店内を見渡すと、それ以上立ち入らず、軽く頭を下げて店を出ていった。

 鈴の音がふたたび鳴り、扉が静かに閉まる。

 警察官が去り、静寂が戻ったのを見計らって目配せを交わすと、二人組が口を開いた。


「やっぱりさ、こうやって外国人が事件を起こすと治安は悪くなるよな」

「言葉も通じないんじゃ真面目なのか分からないし。顔で判断できない分、余計に怖いよ」

「突然巻き込まれるとか、本当に勘弁だよな」


 男の一人が、他人事のように笑いながら清水に顔を向けた。


「マスターも気を付けてくださいよ。仕事柄、どんな奴が来るかわからないんだから」

「いっそ、『外国人お断り』って張り紙でもした方がいいんじゃないですか」


 清水は軽く相槌を打ち、男たちの言葉を受け流す。

 ふたたび、何事もなかったように濡れたグラスを拭きはじめた。

 その場の空気を乱さぬよう、不安を煽らず、安堵を遮らぬように。

 コルトレーンの息遣いだけが、何にも惑わされず鳴り続けていた。


 青年はその会話をじっと聞いていた。聞いているというより、逃げ場もなく聞かされている、と言う方が正しい。

 グラスにそっと目を落とし、両手で包み込むように握り直す。

 氷から反射する光が、血の通う手のひらを赤く透かしていた。


 やがて二人組の客が立ち上がり、清水に「また来ます」と挨拶して、心許ない足取りで店を出ていった。

 青年は、その背中が見えなくなるのを待っていたかのように、ふっと肩の力を抜く。

 清水は何も言わず、彼のグラスにそっと氷をひとつ足した。

 カラン、と氷が沈む音が、言葉の代わりだった。


「すみません、なんか、挙動不審な客だと思わせて……」

「いいえ」


 清水はゆっくりと首を横に振り、カウンターに残されたグラスを片付け始める。

 青年は鼓動を鎮めるように、ハイボールを飲み干した。


「すみません、ハイボールを濃いめでお願いします……」


 清水は新しいグラスにウィスキーを注ぎ、炭酸で満たしていく。

 差し出されたそれを一口啜り、青年は安堵を含んだ息を、ゆっくりと大きく吐き出した。

 そして、澱んでいた胸の内を静かに語り始めた。


「誰かが『外国人ってさ』と口にするたびに、身体が勝手に反応するんです。でも僕は、自分とは関係ないふりをする。黙って笑って、聞き流す。そうしないといけないって、いつの間にか思い込んでいました」


 グラスの肌を流れる水滴を目で追いながら、声を少しだけ曇らせる。


「でも、最近それがつらいんです。本当は言っていいはずなんですよね、『僕は違う』って。でも、それを言った瞬間、今度は『お前も同類だろ』という目で見られる」


「中国に帰っても居場所はないし、日本にいても、外国人の事件が起きるたびに自分の居場所が削られていく気がするんです」


「最近は、特に移民問題のせいで……外国人というだけで『お前も何か企んでいるのか』と勘繰られる。犯罪を犯した誰かと同じ国籍だっていう、ただそれだけの理由で」


 清水は、距離を保ちながら青年の方に体を向け、手元のバースプーンを柔らかなネル生地でゆっくりと拭く。

 そして、彼の言葉が迷子にならないよう、静かに聞き届けていた。


「……こんなこと、友達や職場でも言えません。吐き出せば『勝手に住んでるくせに』と言われ、黙るしかなくなる。自分の存在を主張できなくなるんです」


 青年の言葉が止まり、沈黙がウイスキーの甘い匂いに溶けていく。

 グラスの氷に反射したあめ色の光が、静かに底へ沈んでいった。


 清水は、棚の端で花びらを落とした浜菊をシャンパングラスから抜き取った。

 散り際の花びらを丁寧に拾い集めてメニュー表のあいだに挟んでいくが、最後の一枚だけは挟まずに、指先に残した。


「……僕は、何人なんでしょうか。日本が好きで、この国で働いて、友人も日本人ばかり。でも、生まれた場所が違うというだけで、僕は日本人にはなれない」


 青年はこれまで、何度もこみ上げる言葉を飲み込み、自分を「曖昧」な中に封じてきた。

 怒りでも反論でもない。ただ、自分という存在を静かに折り畳むような沈黙で。

 清水は、泡のついたグラスをゆっくりと水で濯ぎながら、静かに返す。


「……どこに立っていても、人は、人のままだと思いますよ」


 その言葉に、青年は胸の奥で湧き上がるものを必死に抑えていた。

 握った手がわずかに震え、涙が一粒だけ、音もなく落ちた。


「……また来てもいいですか?」


 清水は、指先に残していた花びら一枚を、そっと青年の前に置き、ゆっくりと頷いた。

 店内に流れるジャズの音色に身を委ね、青年は今この時間を、静かに噛み締めていた。


 大通りでは、相変わらず日本を謳歌する観光客の群れが、途絶えることなく行き交う。

 それぞれの時間が、ひとつの街の中で交わることなく流れていた。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: Miles Davis / Blue In Green

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。


筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

感想やスキ(♡)をいただけると、店の照明が少し明るくなります。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

https://open.spotify.com/playlist/4R4RSwzqq6m5ug2jCVcj6u?si=l8Gz_nYFT2qIyi-Tlq2Rpg


■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者えびなが おわりに帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.

©蛯永終

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