第4話:陰謀論と望まなかった命日
平日の夕方五時。
まばらに行き交う人の流れに逆らいながら、清水は商店街の通りを歩いていた。
昭和の匂いを色濃く残したアーケード内。鼻をつく雑多な匂いがどこか懐かしい。
五時を過ぎる頃には、早々とシャッターを下ろした店舗が目立つ。
それでも、寿司屋の店先ではのれんが揺れ、惣菜屋では売れ残りのコロッケが値引きされていた。
時間が止まったアスファルトの上を、夕食の支度を急ぐ子連れの親子が早足で過ぎていく。
そんな中、色とりどりな花が並ぶ小さな花屋の前で、佇む一人の女性がいた。
髪を後ろで結い、黒いカーディガンに、色褪せたデニム。
その地味な装いが、日常を遠ざけるように彼女の輪郭を曖昧にしていた。
肩越しに覗く、彼女の視線の先には――
赤や黄色、白のカーネーションが、かすかな蜜の匂いを漂わせていた。
手に取るでもなく、立ち去る素振りもなく、ただじっとピンクの花を見つめている。
何故かその佇まいから、彼女と花屋の間に近くて遠い距離を感じた。
──母の日。
清水は歩を緩めながら、ふと視線を逸らす。
花屋の前に漂う香りが、彼方の小さな記憶を呼び起こす。
小学生のころの妹の美穂が、千円札を握りしめて、近所の店で一輪だけカーネーションを買った日のこと。
真っ赤なカーネーション。花言葉は「母への愛」
「お兄ちゃんも、言わなきゃだめだよ」
そんなふうに言いながら、うれしそうに母に手渡していた。
あの時の自分は、照れ隠しで小さく「ありがとう」と言った気もするし、結局言わずにごまかしたような気もする。
どちらにせよ、母に抱き着いて、笑っていた美穂の顔だけは、はっきりと覚えている
父親を亡くした後も、兄妹を女手一人で育ててくれた母親には、今も感謝している。
あの時の母も、妹も、今はいない。
bar DESCENDの鍵を開け、明かりを一つ灯し、音と空気を整える。
いつものように、一輪の浜菊を手にとり新しい水で満たす。
シャンパングラスを濯ぐと、花屋の前で佇む彼女の影が、不意に浮かんだ。
──見つめる先に、色濃く咲くカーネーション。
自分に罰を課すように、ただ視線を落とすだけの姿。
そんなことを思い浮かべながら、揺れる浜菊をあるべき場所と戻す。
そして、開店を知らせる扉の札を裏返した時だった。
目の前を先ほどの女性が、華奢な肩を丸め、静かに通り過ぎようとしていた。
気配を感じ、ふさいだ顔を上げ、虚ろな瞳で清水に視線を合わせる。
通り過ぎかけた足を、迷うように半歩だけ戻し、店の入り口を見上げた。
「バーなんですね……お店、もう、開いていますか?」
「はい」
ドアの向こうで一瞬だけためらってから、ゆっくりと踏み入れる。
その手にカーネーションは握られていなかった。
清水はカウンターに戻り、彼女の呼吸が整うのを待ち、そっとメニューを差し出しだす。
文字を追う瞳は虚ろで、心の一部を、あの花屋の前に置き忘れてきたようだった。
彼女は視線だけを彷徨わせた後、少しためらいながらも口を開く。
「……母の日らしいカクテルって、ありますか?」
清水は、並ぶリキュールに目線を滑らせ、記憶からひとつのレシピを選び取る。
「らしいかどうかはわかりませんが、ピンク・レディでしたら、雰囲気に近いかもしれません……」
「それを……お願いします」
「はい」
全てを委ねるように、彼女は静かに頷いた。
冷えたカクテルグラスを手元に置き、ジン、グレナデンシロップ、レモンジュース、卵白を無駄のない手さばきでシェーカーに入れる。
ドライ・シェイクで空気を含ませ、氷を入れ再度振る。いつもより長めの振り。
彼女は黙ってその動きを眺めていたが、その虚ろな視線は、幾度となく浜菊へと流れていた。
淡い桃色のカクテルを、波紋ひとつ立てずに、彼女の前へと置く。
彼女は差し出されたカクテルを、まばたきを忘れたように見つめていた。
その、わずかな沈黙の後、彼女はゆっくりとグラスを唇に寄せる。
「甘酸っぱくておいしいです」
「よかったです」
甘い香りに身を委ねるように、震える指を鎮め、ようやく笑みをこぼした。
清水は、その笑顔を確認した後、静かに洗い立ての灰皿をカウンターの端に積み重ねていく。
「素敵なお店ですね」
「……ありがとうございます」
再び訪れた静寂の中で、彼女は透けるピンク越しに、何かを見ていた。
カウンターをそっと撫でる鍵盤の音色が、静けさの隙間を埋めていく。
清水が気付いた頃には、彼女の頬に、一筋の雫が伝った跡があった。
「すみません……今日、母の日なんですよね」
短く息を整え、抑え込んできた感情を露にして、彼女は語り始めた。
「三年前の母の日に、私の母が亡くなりました」
唐突だったが、清水はアイスピックを握る手を止めなかった。
彼女は、心の底に沈めた記憶をすくい上げて、言葉として形にしていく。
「……コロナに感染してしまったんです」
「私、ワクチンを打たせなかったんです。……母に」
ため息をひとつ漏らし、強張らせていた肩を下げると同時にうなだれる。
言葉は続かなかったが、滲み出る後悔の音だけは感じ取れた。
清水はただ、氷を砕く手を止めて、そっと彼女の前に立つ。
「怖かったんですよ。ワクチンが」
「副反応だとか、後遺症だとか、政府は何かを隠してる、テレビは信用できないって、ネットの情報ばかり見て……」
「ただの風邪と変わらない、マスクなんて意味がないんだって、本気でそう思ってた」
うなだれながら彼女は乾いた笑いを吐く。
その笑いは後悔への当てつけなのか、あの日の愚かな自分に対してなのかはわからなかった。
「そして、……私が感染したんです」
「でも、微熱が続いた程度で、何でもなくて、やっぱり大したことないって。私は騙されてないって、インターネットの情報は全部正しかったんだって」
「……でも、母は違った」
「母は若いころ、一人で私を育てるために、寝る暇も惜しんで働いていました。そんな無理がたたって体が弱っていたのに」
「私が、母にコロナをうつしたんです」
「熱が出たときも、母は大丈夫だって。でも、ほんの数日で容体が急変しました」
「病院に運ばれたときには、肺が真っ白になっていました……苦しかったと思います。運ばれた後は、もう会うことができず、翌朝、電話で知らされました」
彼女の声の震えは、もう止まっていた。
震えることさえ、許されないと自分に言い聞かせるように、両手は強く握られている。
「殺したんですよ、《《私が》》。守ったつもりでいて、本当は……守れてなかったんです」
その独白を、夜の喧騒が遮らぬよう、清水は店先の明かりを落とした。
声をかけることはせず、視線を逸らした先には、花びらを辛うじてつなぎとめる浜菊があった。
それは、過去へと手向けた花。力なく咲いてなお、捨てられずに置かれている。
「今でも、考えます。もし、あのとき私の言うことを聞かずにワクチンを打っていれば、すぐに病院に行かせてれば、母は生きてたのかなって」
後悔の念が重く沈む中、揺れるピアノの調べが、辛うじて絶望の淵で彼女を支えていた。
「正しかったかどうかなんて、もうわからないです。でも、自分の正しさを押し付け、母をひとりにした。……それだけは、わかります」
そう言いながら、彼女はカーディガンのポケットから、くしゃくしゃになった1枚の便箋を取り出した。
その手紙は、何度も畳み直したのか、無数の皺が深い迷いを物語っていた。
「今日、母の墓におくつもりで書いたのに……置く勇気が出ませんでした」
幾度も書き直された跡が残る便箋を、彼女はカウンターに広げてみせた。
清水が視線を落とすと、母へ宛てた言葉が擦れ、滲んでいる。
お母さん、私は今でも後悔しています。
あのときの私は、あなたを守りたかっただけなのに。
なのに、あなたを一人にしてしまった。
いつまでも悔やむことしかできない私を……
……どうか、許してくれますように。
――愛する母へ
清水は、小さく息を整え、文字に目を落とす。やがて、静かに口を開いた。
「……正しさよりも、愛があったことは、伝わるはずです」
彼女は、肩を震わせながら涙を流したが、泣き崩れもしなければ、声も上げない。
ただ、深く、静かに、過去への償いのように息を沈める。
「ありがとうございました」とつぶやき、静かに席を立つと同時に、グラスに残された白い泡が、音もなく弾けて消えていく。
カウンターに残された涙の跡をゆっくりと拭い、扉を開けるその背中を静かに見送った。
清水が振り返ると、浜菊の最後のひとひらが、音もなく零れ落ちていた。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune: Keith Jarrett / I Loves You, Porgy。
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。
実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。
筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)
音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。
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短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト
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