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第3話:結婚しない女と過去の過ち

 土曜日の夜九時過ぎ。


 小雨は上がっていたが、石畳には水気が残り街灯の光が滲んでいた。

 階段の手すりは湿った夜風で濡れ、冷たい雨粒が浮いていた。


 店内は、ほの暗い灯りの下、酒の甘い匂いが漂っている。

 談笑を交わす客、煙をくゆらせる客、静かに孤独を愉しむ客。

 それぞれの時間に寄り添う、この場だけの夜があった。


 カウンターの端、清水と常連の男が取りとめのない話を交わしていた。


「村上陽子に会いに行くんだが、手ぶらじゃまずいか?」

「例の件ですか……」

「……花束ぐらい用意するか」

「それよりも、失礼のないようにお願いします」


 常連の男は鼻で笑い、《ワイルドターキー》のロックで舌を湿らせる。

 半分まで燃え尽きた煙草をくわえ、酒気を帯びた煙を一気に吐き出す。


 実力派舞台女優と若手人気俳優、突然の不倫報道が世間をざわつかせていた。

 村上陽子の名前を耳にした中年の男性客二人が、口惜しそうに語る。


「村上陽子、好きだったのになぁ」

「まさか不倫相手が城崎俊介って……二重の衝撃だよな」


 目の前に立っていた清水が、さりげなく口を挟む。


「……実は私も、村上陽子……けっこう、好きでした」

「え、マスターも?」

「……はい。サイン欲しいです」

「マスターって意外とミーハーだったんですね」



 店内に響き渡る笑い声。平和で下世話な時間がそこにあった。

 やがて常連の男がグラスを置いて立ち上がり、「また来るよ」と軽く合図をして扉に向かった――その瞬間。


 ドアの向こうに、一人の女性が立っていた。

 常連の男はすれ違いざまに軽く会釈をして済ませ、その場を去っていく。


 店に入ってきた彼女は、ベージュのコートを纏い、髪は結ばれ、綺麗にまとめられている。

 表情は穏やかだが、ファンデーションの裏にかすかな疲れを潜ませていた。


「……一人でも、大丈夫ですか?」


 清水は立ち姿の彼女に目を向け、静かに答える。


「こちらへどうぞ」


 促された席に向かいながら、女性は右手に持っていた花束をカウンターに置く。

 コートを脱ぎ、軽く背筋を伸ばして椅子を引く。

 ドレープの美しい紺色のドレスが彼女の清楚な雰囲気を引き立てていた。

 手渡されたメニューの文字を、長いまつげに隠れた瞳でゆっくりなぞる。


「ギムレット、お願いできます?」

「かしこまりました」


 清水は棚からカクテルグラスを取り出し、シェイカーにジンとライムジュースを注ぐ。

 手元の動きに集中しながらも、視線の端で彼女の様子を確認する。

 彼女が見つめる先にあったのは、数枚花びらを落とした浜菊だった。


 右端の席では、相変わらず男二人組が、村上陽子と城崎俊介の不倫話をつまみに酒を飲んでいる。


「俺も結婚するなら、村上陽子がいいな」

「お前があんな美人と結婚できるわけないだろ」


 品の無い雑談が耳に届いていたが、彼女は表情を変えず、目線だけで反応し、すぐに正面へ向ける。

 カクテルを注ぎ終えた清水が、ライムスライスを添えてグラスを差し出そうとすると、彼女は先に口を開いた。


「あの、よかったら、飾ってください」


 差し出されたのは、手にしていた小さな花のブーケだった。

 祝福の残り香のようなその花束。望まぬものにとって少し重い残り香。

 一瞬、躊躇ったが、手に取ったブーケを浜菊のグラスの横にそっと置いた。


「ありがとうございます」


 清水は、女性だけの特別なコースターを置き、緑が透き通るギムレットを静かに乗せる。

 コーラルベージュの口紅が引かれた唇に、ゆっくりとグラスを寄せる。

 舌に広がるライムの酸味が、張り詰めた糸をほぐしていく。

 彼女は、音のないため息を吐いた後、落ち着いた頃を見計らって小さな声で呟いた。


「……どうして世の中は、不倫だの結婚だのって楽しそうに話すのかしら」


 そう言いながら、無表情で再びギムレットを口にする。

 清水は、彼女の問いに目線を合わせるが、シェイカーは振り続けた。

 響く氷の音が彼女の感情を鎮める。

 そして清水の手が止まると同時に、静かに語り始めた。


「明日早いからって二次会抜け出してきたんです」

「久しぶりに会った地元の友達に、『次は?』『いい人いるんでしょ?』って言葉が重くて。悪気がないのはわかっているんですけど」


 彼女は苦笑しながら、ネイルアートで彩られた指でグラスの縁をなぞる。

 指先に残った雫に光が飛び込んで、一層眩しく輝いた。


「両親にも言われるんです。子供は早い方がいいって。昭和ですかって思うけど、……なんか親不孝してるのかなって」


 彼女の口調はあくまで穏やかで、淡々としていたが、言葉と言葉の間に、諦めと問いが交互に揺らいでいた。

 清水は、次のレコードに針を乗せ、曲のテンポをひとつ鎮める。

 それから、彼女の前にそっと立ち、静かに次の言葉を待っていた。


「今は仕事が楽しくて、会社から期待されていて頑張ってるつもりでも、友達から『頑張っててすごいね』って言われるたびに、なんか『無理してる』って思われてる気がして。被害妄想かもしれないけど」


 彼女から吐き出された言葉は、煙のように立ち昇り揺らめいている。

 他の客が去り、静寂だけが残された店内。

 時を超えた歌声だけが、彼女の孤独に寄り添っていた。


「……じゃ結婚して仕事と両立できるの?って聞かれても自信なくて。男の人は「身を固めた」の一言で済むのに。「仕事したいから一人でいる」ことって、そんなに悪いことなのかなって」


 清水は黙って相槌も打たず、ただ彼女が語る言葉ひとつひとつに耳を向ける。

 彼女は何かを確かめるように、人差し指のゴールドリングを天井の明かりへ翳した。


「自分で決めたはずなのに、でも……勘違いだったのかなって思う時もあって……」


 そう言うと、ギムレットに浮かぶライムの破片を爪先で軽く沈めた。

 清水は彼女のカクテルグラスを確認し、カクテルメジャーにホワイト・ラムを注ぐ。

 リズムを奏でるような動き。それだけで言葉よりも届くことがある気がした。


「なんかすみません。完全に愚痴みたいになって……」

「いいえ」


 短く返しながら、清水は過去から届く声に耳を澄ましていた。

 ──以前、一度だけ聞いたことがある。


 台所でエプロン姿の妹が、背を向けたまま言った。


「兄ちゃん。私……結婚、するかもしれない」

「そうか……」


 新聞を読みながら、清水は妹に視線を合わせようとせず、一言だけ返した。


「それだけ?」と、美穂は呆れ顔で笑った。


 あの時、どんな些細な言葉でも言えばよかったと今でも後悔している。

 反対でも、祝福でもなく、ただ訊くだけでよかった。

 彼女の隣にいた誰かを、どんなふうに思っていたのか。


 妹が描いていた未来。なぜ、あのとき聞けなかったのか。

 ──見守ることと、踏み込まないことは、似て非なるものだった。


 視線が戻ると、女性はグラスを傾けながら言った。


「猫になりたいです。自由に昼寝して、ごはん食べて……気まぐれで甘えても怒られない。マイペースに過ごしても“猫だから”って許されるみたいな」


 清水は棚の端から紙ナプキンを取り、カウンターの下で何かを描く。

 不器用な手つきで描かれた猫の輪郭に、寝転がる線を添える。

 小さなイラストを、何も言わず、それをコースターの陰に差す。

 女性は、強張った顔が一瞬にして崩れ、そして笑った。


「……これ、ひょっとして猫ですか? 下手ですね」


 清水は少し苦笑いしながら黙ってグラスを下げる。

 それだけで、この場はもう十分だった。


 焼酎を飲む清水の前で、美穂は照れたように口を開く。


「ちゃんと幸せになるから、安心して」


 そのときも、清水は頷いただけだった。

 それは「兄」としてだったのか、「家族」としてだったのか。

 いまも自分にはわからなかった。

 ただ一つ確かだったのは、「知らずに終わった」ことだった。

 ──それは、永遠の悔いとなって、冷たい記憶の中を彷徨っていた。


「色々と吐き出したら気分が少し晴れました」

「猫?にも会えたし……これ、捨てないでくださいね」


 そう言う彼女の横顔は、いつしか穏やかさを取り戻していた。

 清水はただ「はい」とだけ返す。


 棚に戻したグラスの中で、丸まった猫が小さく眠っている。

 清水は、シェイカーからカクテルグラスに〈ダイキリ〉を注ぎながら、静かに言葉を贈る。


「……迷うために、明日があるんだと思います」


 彼女の唇は「はい」と動いたが声はない。

 ──そして瞼を一度閉じて微笑むだけだった。


 ドアノブが引かれた扉。

「また来ます」の声と同時に揺れるコートの裾。

 背後で閉じたその扉が、帰路につく彼女の背中をそっと後押しする。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: Ella Fitzgerald / Isn't It Romantic?

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。


筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

感想やスキ(♡)をいただけると、店の照明が少し明るくなります。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

https://open.spotify.com/playlist/4R4RSwzqq6m5ug2jCVcj6u?si=l8Gz_nYFT2qIyi-Tlq2Rpg


■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者えびなが おわりに帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.

©蛯永終

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