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第2話:投票しない男と信じる意味

 日曜の夜、十時過ぎ。


 表通りの明かりは、週末の熱を漂わせながら、ゆっくりと色を落としはじめていた。

 まばらに行き交う人々。

 冷えたアスファルトの上に、明日への憂鬱がこぼれ落ちていく。


 照明をひとつ落としたbar DESCEND(ディセンド)

 今日も、求められるまま、ジャズが静かに流れている。


 バックバーの片隅、それはいつもの場所。

 シャンパングラスに浮かぶ一輪の浜菊が、淡い照明に包まれ、微かに色づいていた。


 清水はそのグラスを手に取り、優しく流しへ運ぶ。

 昨日の水を捨て、冷たい水を半分ほど注ぎ直す。

 茎の先を指先でほんの少し整え、ふたたび花を挿した。


 隣に置かれた、その幼い色のバレッタは、今日も埃ひとつない。

 清水は一瞬だけ髪留めの在り処を確かめ、すぐに背を向けて氷を砕き始める。

 その音が夜の空気に馴染む頃、扉を開ける最初の気配を感じた。


 午後十一時。


 最後にいた常連の男が去った後、片づけを終えた清水は、椅子に腰かけて体を休めていた。

 視線の先には、その男が置いていった、明日発売の週刊誌。

 表紙には、男がスクープした記事の扇情的な見出しが躍っている。


 週刊公知 独占スクープ!

 完璧な政治家「柚木崇弘ゆずき たかひろ」の正体──

「ハラスメント・ハザード」三本の音声と、関係者が語る笑顔の中の暴力


 今、最も期待されていた若き政治家の、衝撃的なスキャンダル。

 明日は、紙面も電波もこの話題で埋め尽くされることだろう。


 雑誌をすり寄せ、手早くページをめくる。

 清水は、活字から滲み出る狂気を感じ取り、微かに苦笑した。

 予想通りだ。あの男は、欲望を満たすためなら手段を選ばない。


 雑誌を無造作にカウンターの隅に置き、立ち上がりかけた、そのとき。

 鈴が小さく鳴り、扉が静かに開いたことを告げる。

 やや背を丸めた青年が、肩から鞄を滑り落とすようにして入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 清水は動きを止め、軽く掌でカウンターを示した。

 男は少しだけ躊躇いながら、左から三番目の椅子を引く。


「ビールを使ったカクテル、おすすめでお願いします」


 清水は「承知しました」とだけ返し、背を向けた。


 細長いグラスに、角の立った氷を二つ落とし、カンパリをグラスの底へ。

 揺れる赤が、氷の輪郭を曇らせる。


 冷えたラガーの瓶肌には、細かな水滴。

 瓶を傾け、泡が立ち上がりかけたところで止める。

 落ち着く隙を伺い、もう一度ほんの少しだけ注ぐ。

 赤と金が、混ざりきらない境目を残したまま、ゆっくり馴染んでいく。


 オレンジの皮をひと筋。それは香りだけの存在。

 そして隠れるように、氷の影へ落ちた。

 青年の前に置かれたコースターへ、音をなくして置く。


「カンパリビアです」


 青年はグラスを持ち上げ、赤みを帯びた琥珀色を口に含んだ。

 冷たさとハーブの苦味が広がり、炭酸が弾け、舌の上には乾いたほろ苦さを残す。

 最後に、鼻からオレンジの香りが小さく抜けていく。


 青年は静かにグラスを元の位置へ、そして、ひとつ息を落とした。


「……とても苦いです。でもスッキリしてて、不思議と美味しいです」


 清水は返事の代わりに、右手を胸に当てる仕草。

 そして氷の入った器を元の位置へ戻した。

 店の中に静寂が満たされていく中、炭酸の弾ける音が宙に浮かんだ。


 レコードラックに立てかけられた、前衛的なジョン・コルトレーンのジャケット。

 それをぼんやりと見つめていた青年は視線をカウンターに戻し、何気なく置かれていた雑誌に目を留める。

 飛び込んできた見出しに、一瞬で顔が歪む。

 酒の苦味とは違う、もっと嫌なものを飲み込んだ顔だった。


「えっ……すみません、この雑誌……見させてもらっていいですか?」

「はい」


 青年は雑誌を乱暴に取ると、記事が書かれているページを食い入るように読み始めた。

 時が経つにつれて、険しい顔から力が抜け、諦めへと沈んでいく。

 左手の薬指を、苛立ちを逃がすように小刻みに揺すっていた。


 苦みを引きずる沈黙の中に、サックスの音色だけが響く。

 清水は背を向けたまま、次の客のために氷を砕いている。

 青年はその背中から目を離さないまま、問いを投げてきた。


「マスターは政治に興味ありますか?」

「……ニュースを見る程度ですが」

「そうですか……」


 青年は、言葉の端を濁し、何かを言おうか迷っている様子だった。

 そして、カンパリビアを勢いよく流しこむ。

 酔いが早まれば、口をつく弱音も許されると勘違いしているかのように。


「……選挙……投票に、行ってないんです。」


 青年は小声で語りだしたが、清水は返事をしない。

 ただ、アイスペールに氷を移す手をほんの一瞬止め、またトングを動かす。


「以前は、ちゃんと行ってたんですよ。誰に入れるか、政策もちゃんとチェックして」


「この人だと思って投票しに行って。でも、裏金で捕まっただとか、不倫だとか、パワハラだとか。しまいには学歴詐称で辞めるとか……なんのために投票してるのか、わからなくなって」


「選挙のときだけいい話して、結局、なにも変わらない。政治家って“ただの職業”なんですかね」


 青年はカウンターの端に置かれた灰皿を一つ手に取り、上着の内ポケットから煙草を取り出す。

 咥えた一本に火を灯し、深く煙を吸い込む。

 吐き出された煙は、カンパリの香りを漂わせながらカウンターの上で波打った。


「ある日、中学校で話している柚木さんの動画が目に止まったんです。生徒たちの前で『言葉には、人を救う力がある』って、熱く語ってて」


 青年は、過去を巡らせながら不自然にくぐもった笑いを漏らした。


「柚木さんの街頭演説があるたび、どこへでも足を運んで、家族や友達にも『絶対にこの人』だなんて言ってて……何か変わるって期待して。それなのに、また……」


 清水は、青年の熱くも冷めた独白に、ただ耳を傾けていた。

 青年の指先から落とされた燃え殻を、光を湛えたガラスの灰皿が受け止める。

 忘れられたままのグラス、溶ける氷が音で語りかけていた。


「そういえば……」


 青年がふと、灰皿に屈折する色を見つめながら話題を変える。


「知り合いに、NPOで働いてる奴が──いつもニコニコしてて、でも裏じゃ羽振りがいいって噂されてて。たしかに、身につけてるもの、やたら高そうなものばかりなんですよ」


「信じるものは、損をするか、バカにされるんですよね……」


 そのとき、清水の手が何かにつかまれたように止まった。

 NPOという単語に反応し、無意識に青年へ顔を向ける。

 青年は突然の視線に驚いて、肩をすくめた。


「え、ああ……いや、噂話なんです……」


 清水はすぐに視線を手元の氷へ戻した。

 ただ、数秒だけ、手から伝わった冷たい感触が胸へ押し付けられたことには気が付いていた。

 青年はその所作に何かを感じたのか、煙草の火をゆっくり灰皿に押しつけた。


 清水は、あの日を思い出しながら浜菊を見つめていた。


 ──自分も幾度となく裏切られてきた。騙され続け、深く悔いたこともある。

 それでも──信じることしか許されない時がある。信じることでしか生きていけない日々がある。清水はそれを知っていた。


 青年は何も言わず、手元のスマホの画面を見つめていた。

 SNSのタイムラインには噂が広がり、柚木崇弘の話題で持ちきりだった。

 誰かが『あんな奴に投票した奴らは、今頃どんな顔してるんだ?』と書き込んでいる。


 青年はスマホを伏せ置き、残されたカンパリビアを流しこんだ。

 心無い言葉の数々を苦みで消し去ろうとするように。


「……行かないって言うと、白い目で見られるんですよ。職場の後輩に『無関心が社会をダメにする』って煽られたり、ネットじゃ『選挙行かなかったやつに文句言う資格ない』って簡単に書かれたり。……まあ、正論なんですけど」


「『みんなの一票』って言われても、僕の一票は今まで紙屑と大差ないっていうか……」


 青年の手が行き場のない熱を帯び、じわりと赤く滲んでいた。

 ふたりの隙間を縫う空気がわずかに湿り気を含んでいる。

 降り注ぐランプのあかりが、やけに鈍く重く見えた。

 清水は微笑むことなく、氷を割る手を止めて言葉を重ねた。


「……信じるより、疑う方が楽な時もあります」


 清水の言葉の意味を一瞬理解できなかった青年。

 それでも、熱で汗が噴き出た手をおしぼりで冷ます。


「マスター、もう一杯いいですか?同じの」


 青年は、そう言いながら強張った表情を少し緩め、耳に届いた旋律に身を委ねていた。

 響いたウッドベースの音が、酒の匂いが染みついた床板をきしませる。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: John Coltrane / Equinox。

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。


筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

感想やスキ(♡)をいただけると、店の照明が少し明るくなります。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

https://open.spotify.com/playlist/4R4RSwzqq6m5ug2jCVcj6u?si=l8Gz_nYFT2qIyi-Tlq2Rpg


■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者えびなが おわりに帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


Unauthorized copying and replication of the contents of this site, text and images are strictly prohibited.

©蛯永終

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