第13話:失踪の時針と不揃いの沈黙(前編)
──月曜日の夕方。
雨に洗われた路地裏。波打つ石畳は、露を纏った影と壁に跳ね返る西日で二つに割れていた。
片隅で転がる空き缶が、色褪せたまま風に押され、人知れず影の中へ消えていく。
「定休日」を告げる色鮮やかな札が下がる細い街並みは、寂寥感とともに週の始まりを迎えていた。
冷蔵庫の振動だけが床を震わせる──bar DESCENDに清水ひとり。
レコードが鳴らす旋律に身を委ねながら、時が経つのを待っていた。
弦を弾く生音は、湿潤な香りが残る黄昏時に寄り添う、哀愁を帯びた独奏だった。
あの日から──妹の息遣いが消えた部屋にいると、自分の影まで削られていく気がした。
緩んだ蛇口から零れ落ちる水滴の音さえ、雑音となって胸の奥までざわつかせる。
散らかったままのリビングは、眩しい朝日を迎え入れるには何も整っておらず、埃だけが絡みつくように舞っていた。
今は、閉じられたカウンターの内側に立つことで、かろうじて息を継ぐことを許される気がした。
入り口のドアに下げた「CLOSED」の札が、露を宿したまま息を潜めている。
そんな誰も立ち寄るはずのない店先に、嫋やかな影が一つ止まった。
中の気配に気がついたようだが、濡れたドアノブに触れることをためらい──曇りガラスに霞む自分を見ていた。
意を決し、息を殺したまま控えめにノックをすると、冷えて乾いた空気が僅かに震えた。
清水は磨いていたバースプーンを置き、戸惑いながら静かに扉を開く。
そこには、見覚えのない小柄な女性が、俯き、コートの裾を軽く払って立っていた。
清水の気配に顔を上げた彼女は、濡れた前髪の下に、困惑と緊張がもつれ合う笑みを浮かべている。
肩まで伸びた黒髪は薄く雨露を纏っていたが、髪を照らす斜光は濃い朱へと移り変わりつつあった。
「すみません、突然……ここは、“ディセンド”というお店で間違いないでしょうか?」
「……そうです」
そう答えると、安堵を示すように、彼女の顔を覆っていた不安の色が落ちていく。
訪れた理由を尋ねることもせず、清水は身構えたまま、彼女を店の中へと招き入れた。
彼女は「ありがとうございます」と言いながら小さく会釈し、何者かの気配を探すように店内を見回す。
そして、ギターの音が色濃く残るカウンターに着くと、静かに腰をおろした。
清水が、バースプーンを片付けようと手にした瞬間、指先から滑り落ち、足元で硬く澄んだ音を鳴らした。
一瞬だけの小さな音のはずが、何故か清水の中にいつまでも重い余韻を残す。
平静を装いながらバースプーンを拾い上げ、彼女に声をかける。
「……何かお飲みになりますか?」
「温かい飲み物があれば……」
「コーヒーでよろしいですか?」
「はい……お願いします」
清水は小さく頷くと、カウンターの陰からコーヒーミルを取り出した。
豆が挽かれる音が響くと同時に、淀んだ気持ちとは裏腹に、香ばしい匂いが漂い始める。
震えるドリップポットの注ぎ口からは、煮え立った湯気が行き場を失い吹き出ていた。
円を描きながら湯を注ぐと、膨らむ珈琲粉から濃い液体が玉となってひとつ、ふたつと、不規則なリズムで波紋を広げていく。
白いカップの底から黒が満ちていくわずかな時の中で、彼女は鞄から一枚の封筒を取り出し、カウンターに置いた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女はカップを両手で包み、縁に口をつける前に、ほんの少しだけ背筋を正した。
音を立てずに一口含み、カップを元の位置へ戻す。
清水は、そのわずかな仕草や佇まいを見届けたまま、彼女からの言葉を待っていた。
冷えた気配が重なる音像の中で、彼女は目だけを左右に泳がせると、清水に視線を止め、涼やかな口元を開いた。
「すみません、少し……お伺いしてよろしいでしょうか……」
女性は手元の封筒から、破れた跡が残るメモを取り出し、カップの横に開いた。
そこには“バー・ディセンド 清水”と書かれていたが、電話番号らしき数字は途中で破れている。
「“木嶋”という名前の男の人を知りませんか?」
「……木嶋」
「はい。木嶋俊一。刑事をしています。そして私の父なんです……」
そう言いながら、さらに封筒から一枚の写真を取り出し、清水の視線の先に差し出した。
そこには、木嶋と目の前の娘が仲睦まじく並び、微笑む姿が写っている。
娘の隣ではにかむ木嶋が目に留まった瞬間――喉を絞めつける息苦しさと痛みが走った。
鈍い感触が残る喉で言葉を詰まらせながらも、清水は答える。
「……存じ上げています……」
「最近、こちらに来たことは……ありませんでしたか?」
「……いいえ」
「そう……そうですか……」
何かを期待する眼差しを向けていた彼女だったが、瞬く間にその色を濁らせていく。
望まぬ沈黙が再び堕ち、清水は行き場のない視線を無意識にピンクの髪留めに向けた。
艶を失ったこがね色の金具に、くすんだ光が僅かに残っていた。
「……実は、三年ほど前から、行方が分からなくなっています。その日、仕事に行ったまま帰ってきていないのです」
「先日、父の部屋を掃除していたら、偶然このメモを見つけたんです。清水さんなら何か知っていると思い、お伺いしたのですが……」
時折、掠れる声で語る彼女の言葉が、耳の奥に絡みついて離れない。
清水は逃れるように、湯気の上がるコーヒーカップを握りしめると、焼けつくような熱さが、諫めるように手のひらを刺した。
「……お父様は、確かにお客様でした。ですが、数年前からお姿を拝見しておりません……」
「そうですか……」
「……お力になれず申し訳ないです」
清水の取り繕う言葉に唇を噛みしめる彼女は、潤んだ瞳をただ伏せることしかできなかった。
花柄の絆創膏が巻かれたその華奢な指先でカップを包み込むと、黒い波が小さく立った。
清水は、静寂に沈む彼女を前に、何も返せない自分への苛立ちだけが、胸の奥で鋭く軋むのを感じていた。
「……居なくなった理由も、生きているのかもわからないまま、ただ時間だけが過ぎていくんです。でも父の部屋だけは、――あの日のままで。片づけたら、今度は私が父を捨てるみたいで……」
「どんな些細なことでも良いので……父について、何か知っていることはありませんか?」
清水は、絞り出すような彼女の問いに、目線を落として「すみません」と蚊の鳴くような声で答えるしかできなかった。
あの頃の自分は、“情報”を金に換えることに、なんの躊躇いもなかった。
若気の至りか、誰かの不幸や秘密が数字に変わる瞬間を、ただの仕事だと割り切っていた。
その一枚のデータが、誰かを犠牲にするとは思わなかった――いや、気づかないふりをした。
Re:LinkというNPO団体をめぐり、寄付金や補助金などの不自然な金の動きに疑念を抱いたジャーナリストが、清水に情報収集を依頼してきた。
清水は、情報屋としていつも通りそれを受けた。
そんなある日、木嶋は清水の前に現れ、忠告してくれた。
『これ以上深追いすると、お前やお前の家族が狙われるかもしれん。ここで手を引け』
だが、清水は笑って受け流した。結果、その報復は、清水ではなく、美穂へ向かった。
木嶋は、美穂を死なせてしまった責任と、自分の家族に手が及ぶのを恐れ、全てを背負うように姿を消した。
それから三年が経ち、今、あの男の娘が、目の前に現れた。
瞳に映り込む男が、父親を失踪に追いやった人間だということを知らずに。
「……勝手にいなくなった父を腹立たしく思って、激しく憎んでしまう時もあって。いっそ、最悪の知らせでも届いてくれたらって……そんな酷いことまで考えてしまう自分が、たまらなく嫌になる時もあって」
抱え続けた時間の痛みが言葉となって吐き出されていく。清水は、逃げ場のない叱責のようにそれを聞き続けていた。
うな垂れる彼女の姿に、顔の見えない妹の遺影が、色を失ったまま重なって見えた。
「……もう諦めて前を向くべきなのか、それとも一生待ち続けるべきなのか、自分でもどうしていいか分からないんです……」
止まった時間の中で、振り子のようにいつまでも揺れつづける彼女を前にしても、清水は自分を押し殺して、黙るしかなかった。
清水の戸惑った表情に、彼女は一瞬、目を細めたが、それ以上追及はしなかった。
再び二人に沈黙が落とされ、その色のない間が清水を追い詰める。
「もし……、父がここに現れることがあったら伝えてもらえますか? 待っているから、必ず帰ってきてと」
「はい……」
清水は、それ以上何も言わずに、棚の片隅に置かれた浜菊とピンクのバレッタを見つめていた。
時計の針が七時を過ぎるころ、まだ少しの温もりが残るカップを残して、彼女は立ち上がった。
「……清水さんは、父がまだ生きていると思いますか?」
「帰るべき場所を……、忘れずにいるはずです」
彼女はその言葉に小さく頷き、扉のベルが鳴ると同時に、夜気が迫る路地へ消えていった。
冷たい夜風の中、彼女が見えなくなるまで見届けた後、「CLOSED」のままだった札をしばらく見つめ、「OPEN」へと返した。
カウンターの上には、彼女の飲みかけのコーヒーが、苦みだけを残して湯気を失っていた。
白いコーヒーカップを挟んで、──待つ者と導いた者は向かい合った。けれど、最後に残ったのは、悲嘆の沈黙と、罪悪の沈黙だけだった。
“木嶋俊一”
あのとき、自分を止めようとした唯一の人間。
そして最後に残した言葉。
『これ以上、誰も巻き込みたくない』
全てを明かせば、娘は危険にさらされるかもしれない。沈黙を続けることが唯一の懺悔なのだと、自分に言い聞かせていた。
あの日以来、封じていた煙草に火をつける。煙を吸い込むと、舌の奥に刺すような痛みが残り続けた。
吐き出した煙は、清水を照らす灯りを一度だけ曇らせ、すぐに薄くほどけていった。
それでも、木嶋の名前だけは消えなかった。
bar DESCENDの夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。
──Tonight’s Tune:Kenny Burrell / Soul Lament
この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、
現実のものとは一切関係ありません。
実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を
批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。
筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)
音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。
貴方の誰にも言えない「沈めたい」思いをそっと教えてください。
noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。
https://note.com/owari_ebinaga
短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト
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©蛯永終 ©Owari Ebinaga




