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第12話:百日後に死ぬ女と消せぬ灯

 ──金曜午後五時


 一人で歩く道すがら、清水は不意に立ち止まり、ビルを仰いだ。

 最上階を超えて広がる澄んだ空に、色の落ちた陽がゆっくりと街の際へ降りていく。

 久しぶりに見た落日は何故だか物悲しく、薄い影が心を覆っていく。

 歩道に連なる街灯が灯り始めたのを合図に、茜色に染まった喧騒の中で、再び靴底を鳴らす。


 見慣れた路地の入り口。冷たいレンガの壁にもたれかかるように、一人の女性がうずくまり、息を乱していた。


「どうかなさいましたか?」


 清水が歩み寄り、小さく声をかけると、女は束ねた髪を肩から滑らせ、ゆっくりと顔を上げた。

 目に留まるその頬は苦痛に震え、青白く、声は吐息に埋もれるほどに脆い。


「……すみ、ません……すこし、体調が……」

「救急車を呼びましょうか」

「……いいえ……。少し休めば……おさまると、思うので……」

「歩けますか。すぐそこが、私の店です」

「は……い」


 清水は彼女の呼吸に合わせ、様子を窺いながら歩幅を狭めて進む。

 白いパンプスを石畳へ擦るように、清水の影を踏んで歩く女。


 店に辿り着くと、清水は手早く鍵を開け、明かりを灯して暗闇を払う。

 bar DESCEND(ディセンド)は、まだ人の熱を帯びる前の静かな冷気が澱む中、彼女を迎え入れた。


「……ありがとうございます。開店前に、すみません」

「気になさらず。気分はどうですか」

「少し、落ち着きました……」

「よかったです」


 彼女の表情から緊張が解けたのを確認し、清水はグラスに常温の水を注ぎ、差し出す。


「ありがとうございます」


 女は軽く顎を引き、手にした水を一気に飲み干して、細い息を吐き出した。

 グラスが空になると同時に、蒼く染まった頬へ赤みが戻る。

 その様子を見届けた清水は、タオルで額の汗を拭い、安堵の色を滲ませた。


「本当に、助かりました……」


 頭を下げるたび、胸まで流れた艶のある髪が跳ねる。

 それまでの苦悶の面持ちから、ありふれた日常を過ごす大人の女性の顔へと戻っていく。

 清水は、彼女の瞳が記憶の底に眠っていた笑顔と、一瞬重なった気がした。

 女は、少し気の抜けた清水の顔を真っ直ぐに見つめ、驚いたように問いを向ける。


「間違っていたらごめんなさい。ひょっとして……清水君? 〇〇高校の」

「え……」


 タオルを畳もうとしていた清水の手が一瞬で止まった。

 どんな時も冷静さを失わなかった男が、その瞬間ばかりは呆然と目を見開き、呼吸をすることさえ忘れて固まっている。


「ひょっとして、……鮎川さん? 隣の席に座っていた」

「あ、覚えててくれたんだ……ちょっと嬉しいかも」


 無邪気に微笑みを向ける彼女の眼差しが、少し照れ臭く思えると同時に、淡い記憶が彼方から全身を駆け抜けていく。


「清水君は、あの頃と変わらないね。雰囲気もそのまま」

「鮎川さんも……変わらないです」

「それって幼いって意味? 失礼ね」

「いいえ……そういう意味じゃなくて……」

「ふふ、嘘よ。ところでその他人行儀な喋り方、なんとかしてほしいな」

「すっかり、癖になってしまって……」

「そういうところも変わってないね、清水君は。あの頃も物静かだったけど、絶えず何かに気を配ってる感じ。頼れる人って印象だったもんね」

「そんなことないですよ」


「この前、久しぶりに卒業文集を見たの。だから清水君の顔、すぐに分かった。十五年ぶりくらいかしら」

「そうですね……ホント、懐かしいです」


 彼女が語るたびに香水の高貴な香りが立ち、昨日までの酒の余情をかき消すかのように、花の香気が満ちていった。

 清水は彼女の笑みに目線を合わせると、隣の席で無邪気におどけた顔を見せていた日常が蘇る。

 穏やかに流れる時の中、過去をなぞる互いの言葉が積み重なっていく。

 その瞬間、不思議なほどの居心地を肌で感じていた。


「そういえば、美穂ちゃんは元気? いつも忘れたお弁当、届けてくれてたよね。清水君、美穂ちゃんの前では子供みたいに扱われてて、よく怒られてたもんね」


 答えに窮する清水の後ろで、楚々として咲く浜菊が、彼女の声に反応するかのように一枚の花弁を落とす。


「……妹は、三年前に事故で亡くなって」

「……ごめんなさい……」

「いいえ……あいつが口うるさかったのは、母親譲りですよ」


 会話が途切れ、沈黙が訪れた瞬間に、片隅に抑え込まれた妹の顔が、落ちた花弁の白さと重なる。

 清水は、妹のことで落ち込む彼女に対し、気遣うように穏やかな声色で話しかけた。


「体調はどうですか?」

「もうすっかり平気。そうだ、せっかくだし清水君が作るカクテル、飲みたいな」

「え、今、お酒を飲んで大丈夫ですか?」

「んー、たぶん大丈夫。それに……大丈夫よ。あ、気持ちお酒少なめで」


 そう言うと、彼女は目を輝かせながら、「早く」とせがむように手首を振る。

 清水は苦笑を浮かべ、コリンズグラスを手元に置いた。

 砕いた氷を入れ、ラベンダーシロップ、レモンジュース、スパークリングワインを少なめに注ぎ、軽く炭酸水で満たす。

 清水が手首をしならせ軽妙にステアする動作を、興味津々に見つめる彼女。

 その視線が面映ゆく、身の置き場に困りながら、ハート型のコースターの上にグラスを置いた。


「ラベンダーレモネードスプリッツです」

「綺麗な色。清水君、すごいね。プロだ」

「はは、お代は倍いただきますよ」

「ぼったくりバーだ!」


 飾らない笑みのまま、コーラルオレンジの色が引かれた唇に、そっとカクテルを寄せる。

 口に含むと、ラベンダーの香りとレモネードの甘さが、炭酸と共にはじけた。


「うん……おいしい」

「よかったです」

「清水君がお店をやってること知ってたら、もっと早く来てたのに」

「気が向いたらいつでも。お待ちし……」

「……最後に来られて、よかった」


 清水はカウンターを拭きながら言いかけた言葉を止め、彼女が言った最後の言葉の意味を探した。

 目線を上げると、彼女はカウンター越しに、屈託のない笑みをこちらに向けている。


「……鮎川さん、……最後って?」


 清水の問いかけに、彼女は少し口を噤み、もう一度カクテルを含む。

 そして肘をついた左手を頬に当て、淡々と語り出した。


「わたしね……、もう少しで死ぬんだ。膵臓すいぞうがんなの。余命三ヶ月とちょっと」

「え……」

「そんな分かりやすい驚いた顔しないでよ。ただの病気よ」


 そう告げると彼女はグラスを持ち上げ、明かりにかざして透き通る景色に目を凝らしていた。

 紫の中で生まれる気泡は数を減らし、先ほどまでの勢いを失って、たゆたう。

 言葉もなく、茫然と佇むしかない清水の顔を見て、彼女は声を立てて笑った。


「清水君のそんな顔、初めて見た。困らせてごめんね」

「実は……抗がん剤やめたの。ベッドの上で待つより……動けるうちに、好きなことしようかなって。だから、今は、気持ち的に楽」

「ま、……本当は死にたくないし、怖いってのが本音だけどね」


 吐露する彼女の表情に曇りはなく、果てない青空を見つめるような清々しさがあった。

 清水は、衝撃が激しく這いまわる感触の中で、かける言葉も見つけられず、震える肩を自ら押さえつけることしかできなかった。


「鮎川さん……なんて言っていいか」

「気にしないで。自分で決めたことだから」


 その華麗な顔立ちがグラスに映り込むたびに、孤独だけが色濃く照り返す。

 彼女を彩るルージュもファンデーションもチークも、今は誰かの見本や自分を飾るためのものではなく、不安や苦悩を覆い隠し、今日を生き抜くためのものだった。


「学校にいたあの時、この世から自分がいなくなるなんて思ってもいなかったあ」

「もし清水君なら……どっちを選ぶ? いつ死ぬかを知っているのと、いつの間にか死んでいるのと」


 突然の問いに考える暇も与えられず、美穂の顔、母親の顔、木嶋の顔が交互に浮かんでは沈んでいく。


「私は考えたわ。毎日。でも、途中で疲れちゃった。そして、ただ自由に過ごしたいと思ったの。生まれてくることは選べないけどさ、最後くらいは自分で選んでもいいんじゃないかなって」


 彼女はカウンターに浮かぶ水滴を指先でゆっくりと伸ばし、丸い円を描く。

 伸びた水滴の中に、小さなひとつの気泡が生まれて止まったまま動かない。


「治療をやめた私を、周りは逃げたって思うかもしれないけど。でもいいじゃない、そういう人がいたって。逃げるが勝ちって言うじゃない。ふふ」


 冗談っぽく笑いながら言う彼女の顔は、張り裂けそうなほど、いじらしくて強く見えた。

 その笑顔に潜む悲壮感に押しつぶされそうになりながら、重なるように妹の姿が脳裏に浮かぶ。

 不条理に命を奪われ、選ぶ時間さえなかった。身構える暇も、誰かに別れを告げる暇も。

 その事実が、今になって迫った。


 清水は息が詰まりそうになりながらも、目の前の彼女から決して視線を逸らさずにいた。


「どうせ死ぬならさ、漫画みたく、ある日突然死ぬほうが幸せなのかもね」


 半分まで減ったカクテルの中で、揺れることを失った炭酸が一つ二つ浮き上がる。

 気泡が水面に立つと、誰の目にも留まらずに弾けて消えていった。


「死ぬってなんだろうね。ああ、生きた証、なんにも残せなかったなあ。それだけが心残りかも。……でも、清水君に会えたからいっかあ」

「鮎川さん……うまく言えないけど、……今ここにいる。それでいいです」

「ふふ、ありがとう。やっぱり清水君らしいね」


 そう言って彼女は、唇の跡が残るグラスに瞳を潤ませ、再び口に寄せた。

 すっかり炭酸が抜けたカクテルだったが、透き通る紫は色褪せず、かぐわしいラベンダーの匂いを漂わせる。

 そして、レモネードの甘さは、いつまでも口の中で広がり続けた。


 彼女を見送った後、暗い路地から見上げた夜空には星の光が灯っていた。

 何百年前の光だというのに、力強く輝いている。

 瞬く光の中に彼女の笑顔を想い浮かべながら、清水は扉を静かに閉めた。


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune: Elvis Costello & The Imposters / Smile

この物語はフィクションです。

登場する人物・団体・地名・事件・サービス名などは、

現実のものとは一切関係ありません。

実在の個人・企業・団体・宗教・NPO・メディア等を

批判・肯定・評価する目的で描かれたものではありません。



筆者:蛯永 終 (えびなが おわり)

音楽とお酒、そして「沈黙」を愛する物書きです。

貴方の誰にも言えない「沈めたい」思いをそっと教えてください。


noteでは、作中のジャズに関する情報や物語とリンクしたオリジナルカクテルのレピシなども公開中です。ぜひそちらもご覧ください。

https://note.com/owari_ebinaga


短編小説 bar ディセンド ~沈まる場所~ プレイリスト

■Spotify

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■Youtube

https://music.youtube.com/playlist?list=PLG61IYnktsjSGSkIzavao5ncwhen83mr9&si=kdO9a4mBjSJXfm_k


【著作権に関する注意事項】

本作品『bar DESCEND』の著作権は、著者えびなが おわりに帰属します。

本文・画像・あらすじ等を含め、無断での転載、複製、改変、朗読、再配布、および生成AIの学習データとしての利用を固く禁じます。

著作権法上の「引用」の範囲を超える無断使用が発覚した場合、法的措置を検討する場合がございます。


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©蛯永終 ©Owari Ebinaga

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