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第14話:失踪の時針と不揃いの沈黙(後編)

 ──三年前、ある日の夜。


 それは、今日と同じ雨上がりの夜だった。

 湿気を帯びた風が雲の隙間から覗く満月を霞ませ、微かに漏れた月光だけが無数の不揃いな水たまりに浮いていた。


 その日の夕方、不意に妹の美穂と連絡が途絶えた。

 約束の時が過ぎても、電話口からは、不通を知らせる無機質な声だけが流れてくる。

 胸騒ぎに急き立てられ、自宅に戻ってみたが、妹が帰った形跡はない。

 テーブルの上には、朝の慌ただしさを記憶するように、マグカップが同じ位置に冷たく取り残されていた。


 ふと覗いたポストには、送り主の記載がない、真ん中から故意に破られた海辺の絵はがきが投げ込まれていた。

 強張る腕の震えを押さえつけるように、テーブルに両肘を突き、頭を抱え込む。

 冷たい指先から伝わるのは、不快な焦燥ばかりで、非力な自分に、唇を噛むことしかできず、縋るように連絡した先は木嶋だった。


『安心しろ。必ず見つけ出す。お前は何もするな』


 その言葉を残して、木嶋の声は受話口の向こうで途切れた。

 囚われたような時間だけが刻々と過ぎていく中で、焦りと苛立ちだけが募っていく。

 暗闇の中で鈍く光るスマホの画面には、仲間から手に入れた“安堂涼介”という男の電話番号が浮き上がる。

 何度も画面に指をかけようとしたが、木嶋の制止の言葉が、腕を握りしめて離さない。

 渇いた胸騒ぎを振り払うように、喉に水を流し込んだが、胃の底に重く沈むだけだった。


 ──深夜一時過ぎ。


 震える掌に握られたスマホが、無慈悲な電子音を吐き出し、張り詰めた夜気を裂いた。

 電話越しの木嶋の声は、風の残響のせいか、深淵から届く空電のようにざらついている。


 知らされた場所へ車を走らせる最中、脂汗が噴き出る掌で、ハンドルが何度も滑る。

 駆けつけたその場所は、名もない海岸だった。

 白い砂浜が続く岸辺──月の明かりに照らされた背丈の高い草の中で、美穂は静かに眠っていた。


 その傍らで、重く肩を落とし、清水を真っすぐに見つめた木嶋が立ち尽くす。


 潮風が強く吹き抜け、どこからか風に煽られた花びらが一枚、宙を舞い、ゆっくりと砂にまみれた美穂の掌に落ちる。

 その小さな白い花びらは、“浜菊”という名の花だった。


「……すまん」


 押し殺した木嶋の声は、波音の狭間に飲み込まれていく。

 清水は、横たわる美穂の亡骸に、色を失ったまなざしを向けながら、ただ首を小さく横に振った。

 奴らが殺した。だが、その“奴ら”を引き寄せたのは、他でもない自分だ。

Re:Link(リ・リンク)』の内部情報を清水が裏で流していることに気づき、連中は報復の矛先を清水本人ではなく、妹の美穂を“代償”として選んだ。


「……俺が、木嶋さんの忠告を……」

「お前は、もう関わるな。妹のためにも。……これ以上、誰も巻き込みたくない」


 木嶋は、冷たい風に晒され続ける清水にそう告げると、やがて静かに背を向けた。

 そして、潮の匂いが狂おしく舞う中、浜菊の咲き誇る砂利道を、音もなく歩き去っていった。

 その日を境に、木嶋は消息を絶った。


 *


 ──月曜日、九時。


 木嶋の娘が去っていったあと、店内には一人の常連、三上がいつもの席でバーボンを前に煙草の煙をくゆらせていた。

 会話はなかった。時計の針だけが進むその時間は、どこか重く、懺悔に似た沈黙を帯びて延々と続いていた。


 清水の手元には、小さな落とし物が一つ置かれている。

 花を象ったプラスチック製のネームプレート。

 ひまわり保育園のロゴの下、名前の欄には「木嶋結花」と、丁寧な文字が刻まれていた。


 鞄から何かの拍子にこぼれ落ちたのだろう。彼女が座っていた椅子の真下に、それはひっそりと転がっていた。

 驚いたのは、その名札が、美穂がかつて保育園でつけていたものと、保育園の名前こそ違えど、まったく同じ形、同じ色だった。


「それ、妹のか?」


 不意に、三上が手元のグラスから名札に視線を変え、ゆっくりと語りかけてきた。


「いいえ。……木嶋さんの娘さんのです」

「来たのか……」

「……はい」

「木嶋が姿を消して、もう三年か……」

「京一さん……木嶋さんがまだ生きていると思いますか」

「……正直、難しいかもな」


 三上はそれ以上言葉を重ねず、グラスに残った一口分のバーボンを流し込んだ。

 清水は否定も肯定もできずに、棚の片隅へと視線を逃がす。

 そこには、薄っすらと埃を被ったピンクの髪留めが、いつもの場所で静かに佇んでいた。

 埃を払おうと手を伸ばした瞬間、指先が微かに強張り、不意に髪留めを落とした。

 衝撃で硬い音を立てるのと同時に、金色の金具が外れ、無残に弾け飛ぶ。

 歪んだ留め具を拾い上げると、細く清水の顔が映り込んでいた。その顔は、あの夜のままだった。

 ピンクの髪留めは諫めることも、哀しむこともせず、清水の傍で粛々と沈黙し続けてきた。

 金具の隙間に挟まる数本の細い髪の毛が、琥珀色の光を艶やかに弾いている。

 それは間違いなく妹が生きていた証の、残酷なまでに生々しい記憶の一片だった。


 名札を引き出しにしまおうとした瞬間、ドアベルが鳴ると同時に、夜風が一陣吹き込む。

 袖を捲った腕に冷たい空気を感じ、振り向くと、結花が息を切らして立っていた。


「……あの、ネームプレート、落ちていませんでしたか?」

「ここにあります……」

「よかった……。ありがとうございます」


 安堵の息を漏らす彼女を見つめながら、清水は無意識に声をかけた。


「あの、もしお酒が飲めるのでしたら……一杯だけ、お付き合いいただけますか」

「……はい」


 結花は少し戸惑った面持ちで、だが促されるままに、先ほどと同じ席に腰を下ろす。

 清水はカウンターに置かれたバーボンを引き寄せ、背丈の違う二つのグラスを並べた。


 清水のロックグラスにアイスボール、結花のコリンズグラスに砂糖とミントの葉を多めに落とし、砕いた氷を加えた。

 並ぶグラスに琥珀色の液体を注ぎ、コリンズグラスをステアすると、緑の葉が冷気の中で舞った。

 ミントが清涼に踊るグラスを結花の前に差し出し、その横に、落とし物の名札を置く。

 結花は、芳醇な香りと透き通る緑に目を凝らしながら一口だけ含み、小さく息を吐いた。


「甘くて、爽やか……おいしいです」

「よかったです」


 端の席の三上は、視界に人影を映すことなく、ただ真っすぐに次の煙草を咥えた。

 指先から立つ紫煙が真っすぐと上り、天井の明かりを霞ませ、冷蔵庫の重いモーター音が、あの日の波の音のように迫ってくる。


 清水は、引き出しの奥からもう一つの名札を取り出し、結花のグラスの隣へ、そっと置いた。

 そこには、色褪せた文字で『清水美穂』と書かれている。

 結花は、自分のものとまったく同じ色、同じ形をしたその名札に目を見開いた。


「これは……」

「私の、……妹のものです」


 主を失った名札は、時の経過を示すように色がくすみ、縁が所々破れていた。

 透明感を失ったプラスチックが、名前を霞ませている。


「私の妹は、三年前に亡くなりました。お父さんが失踪した、同じ──その日に」


 彼女が顔を上げるのと同時に、険しい表情の中で眉がわずかに跳ねた。

 清水は目の前のロックグラスに視線を落としたまま、重い扉を開けるように口を開いた。


「私はかつて、お金で“情報”を売り買いする仕事をしていました。お父さんはそれを辞めるようにと何度も忠告してくれた。でも、私は聞かなかった。そのせいで、妹は……死に、貴方のお父さんを巻き込んだ」


 自らを切り刻むように淡々と話し続ける清水を、結花は瞳を大きく見開いたまま、交錯した胸中で受け止めていた。


「私が受けるはずだった報復を──妹が受け、お父さんは、その責任を背負い、自らを犠牲にして沈黙を選んだのです」

「……あなたが苦しんできた“失踪”は──そういう失踪です」


 鋭利な無音が満ちた店内で、結花は言葉を探すように、激しく揺れる瞳でグラスの中の緑の葉を見つめている。やがて、ひび割れた声を清水に向けた。


「……どうして、今まで黙っていたんですか……父は……どこに居るんですか! 父を、……父を返して!」


 カウンターの上で強く握りしめられた結花の手のひらと、語気を強めた声を前に、清水はあの夜と同じく、ただ打ちひしがれるしかなかった。

 結花は深く俯き、溢れ出そうな涙を押し留めるように目を伏せたまま、並んだ二つの名札にそっと手を添えていた。

 二つのグラスの肌から流れ落ちた水滴は、時をかけて小さな水たまりとなり、気づく頃には互いの境目を失うように繋がっていた。

 張り詰めていた空白を、先に破ったのは、結花の千切れた溜息だった。


「腹が立っています。貴方にも、父にも。……でも、父は真っすぐな人だから……」


 彼女はゆっくりと目を開き、静かに、遠い記憶をたぐる。


「母に一度、言われたことがあるんです。『お父さんは正義感の強い人だから、今日は生きて帰って来ないかもしれないって覚悟で、毎日見送っているんだよ』って……」


 清水が顔を上げて視線を向けると、結花の頬には一筋の涙が伝っていたが、怒ったような表情も、哀しむような表情も浮かべていなかった。


「あなたを許す気持ちにはなれないけど……父が自ら選んだことなら……」


 結花は立ち上がり、清水に向けて深く頭を下げた。ドアに手をかけると同時に、振り向かずに言った。


「私は、父が帰ってくることを信じます」


 清水はその言葉を、胸の一番奥底で、重い錨のようにゆっくりと受け止めた。

 扉が閉まり、静寂が戻った店内を、三上が吐き出す甘い煙が、不器用な優しさのように漂っていた。

 清水はロックグラスを手に取り、残っていたバーボンを一気に飲み干すと、焼けつくような熱さが喉を焦がしていく。


 木嶋と美穂。

 代償の沈黙と、理不尽な沈黙が進まぬ時計の針のように、清水の胸の奥で同じ数字を指し続けている。


 木嶋が消息を絶ってから三日後、彼の番号から一度だけ、留守電が入っていた。

 清水は最悪の結末を恐れるあまり、この三年間、その音声に触れることができずにいた。


 清水は引き出しの奥から古いスマートフォンを取り出し、血の気が引く指で再生ボタンを押し、耳に当てる。

 くぐもった砂嵐のようなノイズの奥から、懐かしい男の声が聞こえてくる。


『木嶋だ。……もし、娘が訪ねてくるようなことがあったら、伝えてやってほしい。必ず帰る、と』


 bar DESCEND(ディセンド)の夜は、今日もひとつ、言葉にならなかった想いを沈めていく。


 ──Tonight’s Tune:Pat Metheny / Always and Forever

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