不完全
部屋に戻っても、落ち着かなかった。
ドアを閉める。
それだけで、少しだけ静かになる。
「……」
そのまま、立ったまま動けない。
さっきの感覚が、まだ残っている。
手首に触れる。
何もない。跡もない。
でも、ちゃんと、そこにある。
温度。距離。声。
そして、消えきらない、“気持ちよさ”。
「……はは」
小さく、笑う。
笑えていないのは、自分でも分かる。
「……気持ち悪い」
呟く。
でも、その言葉がどこに向いているのか、分かっている。
ベッドに座る。ゆっくりと息を吐く。
頭の中で、さっきの一瞬が何度も再生される。
触れられて。声をかけられて。距離を詰められて。
「……」
一瞬だけ。拒まなかった。
それどころか。
——受け入れかけた。
「……なんだよ、それ」
強く、息を吐く。
そんなはずない。
欲しかったのは、あれじゃない。
あんな“触れられ方”じゃない。
あんな“選ばれ方”じゃない。
「……」
目を閉じる。
浮かぶのは、別の光景。
鏡の前。狭い部屋。散らかった服。
その中で。
“前の自分”が立っている。
「……これでいいかな」
小さく呟く声。
誰に聞かせるでもない。
ただ、自分に確認している。
服を整える。角度を変える。
少しだけ肩を落として。
首のラインを見せて。
「……いや、こっちか」
やり直す。何度も、納得できるまで。
完璧じゃない。
でも、その“調整している時間”が、やけにリアルだった。
「……よし」
小さく頷く。
スマホを手に取る。カメラを開く。
一瞬だけ、緊張する。
その緊張が、嫌じゃない。
むしろ、少しだけ気持ちいい。
「……」
画面の中の自分を見る。
“なろうとしている自分”。
それが、そこにいる。
「……いいじゃん」
シャッターを切る。
一枚。もう一枚。
光を調整して。角度を変えて。
どう見えるか、考えて。
全部、自分で決めていた。
「……」
投稿する。
少し待つと、通知が来る。
『かわいい』
その一言。
それだけで、胸の奥が一気に熱くなる。
「……はは」
思わず、笑う。
ちゃんと届いている。
“自分が作った自分”が。
ちゃんと“可愛い”として見られている。
それが、たまらなく、嬉しかった。
「……そうだ」
ぽつりと、今の自分が呟く。
目を開ける。
部屋。鏡。
今の身体。完璧な顔。
何もかもが、最初から完成している。
「……」
ゆっくり、立ち上がる。
鏡の前に立つ。
今の自分を見る。
「……これ」
小さく呟く。
可愛い。
間違いなく、可愛い。
でも。
「……違うな」
はっきりと言う。
前の自分と、今の自分。
何が違うのか。
もう、分かっている。
「……あのときは」
ゆっくりと、言葉を置く。
「俺が、選んでた」
服も。角度も。見せ方も。
どこまで見せるかも。
全部、自分で決めていた。
今は、違う。
何もしなくても見られる。
何もしなくても触れられる。
何もしなくても、“そういう対象”になる。
「……」
さっきの男の声が、頭に残る。
“すぐ終わるから”
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「……勝手に決めんな」
ぽつりと呟く。
でも、同時に。気づいている。
さっき、ほんの一瞬だけ、
それを、受け入れかけた自分がいたこと。
手を握る。少しだけ、震えている。
「……違う」
小さく、でもはっきり言う。
欲しかったのは。
あんな“選ばれ方”じゃない。
「……なりたかったのは」
少しだけ、笑う。
皮肉みたいに。
「……選んでる側だろ」
その言葉だけが、静かに落ちる。
部屋の中に、残る。




