接触
帰り道だった。
人通りは、いつも通り。
でも、どこかさっきと同じ空気がある。
「……」
歩きながら、小さく息を吐く。
そのとき。
「すみません」
後ろから、声がかかる。
振り返る。
——同じだ。
さっきの、あの距離。あの視線。
そして、口元だけで笑う、あの感じ。
「……」
一瞬だけ、思考が止まる。
確信はない。
でも。
身体が覚えている。
さっきの“止まった距離”。
「この辺、詳しいですか?」
同じような声。柔らかい。
でも。
どこか、踏み込んでくる感じ。
「……いや、あんまり」
答えながら、一歩引く。
でも、相手も同じ分だけ近づく。
あのときと同じ。
逃げきれない距離。
「……」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
——気持ちいい。
分かってしまう。
この距離。この視線。
自分を“対象”として見ている。
その感覚が、そのまま身体に入ってくる。
「よかったらさ」
さらに一歩、近づく。
声が近い。距離も近い。全部が、近い。
そして、あのときと同じ笑い方。
「……」
思い出す。さっき、すれ違ったとき。
目が合って。一瞬、止まった。あの感じ。
「このあと、少し時間ある?」
言葉が重なる。
さっきの“予感”が、そのまま形になる。
「……ないです」
即答する。
でも。
その距離は、まだ残っている。
「ちょっとだけでいいんだけど」
その距離のまま、男が少しだけ首を傾ける。
「そんな警戒しなくてもさ」
軽く笑う。責めているわけじゃない。
でも。
距離を引く気も、ない。
「……」
視線が、外れない。
逃がさない、みたいに。
「別に変なことしないって」
続ける。
その言い方が、やけに自然で。
何度も言ってきたみたいに、軽い。
「……」
胸の奥が、また熱くなる。
——気持ちいい。
“選ばれる側”として扱われている。
それが、分かる。
「一人でしょ?」
さらっと言う。
確認じゃない。決めつけに近い。
「……」
言い返さない自分に、気づく。
その一瞬。
「ほら」
男の指が、わずかに動く。
そのまま。手首に、触れる。
軽く。本当に、軽く。
「緊張してる?」
少しだけ、声が近づく。
距離が、さらに詰まる。
「……」
温度が、入ってくる。
指の形。力の入れ方。
全部が、そのまま伝わる。
「大丈夫だって」
低く、落ち着いた声。
安心させるようでいて。逃がさない。
「すぐ終わるから」
その一言で。
意味が、はっきりする。
「……っ」
一瞬だけ、息が詰まる。
——気持ちいい。
分かってしまう。
触れられている。選ばれている。
“その先”を前提にされている。
全部。そのまま入ってくる。
「……離して」
声が、遅れて出る。震えている。
でも。
完全な拒絶じゃない。
それも、分かってしまう。
「ん、そっか」
あっさりと、手が離れる。
「残念」
軽く笑う。
本気じゃないみたいに。
でも。
少しだけ、名残惜しそうに。
「じゃあね」
それだけ言って、男は離れる。
一度だけ。振り返る。
目が合う。
あのときと同じ。
口元だけで、少し笑う。
「……」
去っていく。
「……」
その場に残る。
さっきまでの距離。温度。声。全部。
まだ、消えない。
「……は?」
思わず、笑う。意味が分からない。
嫌だったはずだ。なのに。今。
ほんの一瞬だけ。
“戻ってほしい”と思った。
「……違うだろ」
強く呟く。手首を押さえる。
そこに残っている感覚。
温度。距離。意味。
そして。
消えきらない、“気持ちよさ”。
「……気持ち悪い」
吐き捨てる。
でも。
その言葉が向いているのは、相手じゃない。
自分だ。
「……俺」
言葉が、少しだけ詰まる。
そのまま、続ける。
「……これ、嫌がりきれてない」
静かに、理解する。
拒絶できていない。完全には。
「……これ」
小さく呟く。
視線と。距離と。接触。
全部、繋がっている。
さっきのすれ違いから。
ここまで、一直線に。
「……最初から」
息を吐く。
「……こうなる距離だったのかよ」
誰に言うでもなく、呟く。
歩き出す。
足が、少しだけ重い。
でも、身体の奥に残っている“熱”だけは、消えない。
それが、一番気持ち悪かった。




