第92話 悪役貴族、アルヴェリス踏破! ①
「いいよ」
マルスはあっさりと言った。
「リサに使おう」
ブリジットが顔を上げる。
何を言われたのか、理解できていないような顔だった。
「……いい、のか?」
「いいもなにも。使わなきゃ死ぬだろ」
「だが、スージーは……」
「いいから。悩んでる暇ないって」
ブリジットの喉が詰まる。
(本当によいのか……? マルスとて、わたしが「スージーを見捨ててリサを助けてくれ」と言ったことを分かっているだろうに)
分かった上で、そんな二者択一など最初から存在していないみたいに、彼は黄金の小瓶を差し出している。
リサのかすれた声が、ほんのわずかに漏れた。
「……お、ね……さ」
薄く開いた瞳が、かろうじて虚空を捉えている。
焦点は定まらない。意識も朦朧としてる。それでも、彼女は聞いていた。
マルスはリサのそばへ寄り、膝をつく。
「まだ喋んな。すぐ治してやる」
小瓶の金糸を外す。封印の紋様が乾いた音を立ててほどけた。
栓を抜いた瞬間、ふわりと甘く澄んだ香りが広がる。花の蜜にも、朝露にも似ているが、どちらとも違う。嗅いだだけで胸の奥が軽くなるような不思議な芳香。
《マジで使うんですか》
《スージーはどうすんのよ》
《リサちゃん死なないでー》
マルスはリサの頭を少し持ち上げる。
ブリジットが慌てて支えに入った。
「少しずつ飲ませる」
「あ、ああ……」
リサの唇に瓶口を当てる。
傾けると、黄金の液体が一滴、二滴と流れた。
最初は喉が反応しなかった。
だが三滴目で、ごくり、と小さく飲み込む音がした。
その瞬間。
リサの全身が淡い光に包まれた。
金色の粒子が傷口へ吸い込まれ、裂けた肉が再構築されていく。黒い靄が傷口からぶわりと噴き出し、悲鳴みたいな音を立てて霧散。血の流れが止まり、蒼白だった頬に少しずつ色が戻っていく。
「……っ」
ブリジットが息を呑む。
包帯の下で、はっきりと傷が塞がっていく感触があった。裂けた皮膚が閉じ、抉れた肉が埋まり、呼吸が深くなる。
あれほど死に近かった少女が、まるで巻き戻しのように生命力を取り戻していく。
細い指が、ぴくりと動いた。肩が震え、長い睫毛が揺れる。
「……けほっ」
小さな咳とともに、リサは空気を大きく吸い込んだ。
肺いっぱいに、初めて呼吸するみたいに。
「リサ……!」
ブリジットが声を上げる。
その声には、もう抑えようもない喜びが滲んでいた。
琥珀色の瞳が、うっすらと開かれる。まだ意識は朦朧としているが、さっきまでとは明らかに違う。生者の目だった。
「あれ……ここって……」
リサはぼんやりと言って、弾かれたように上体を起こした。
周囲をきょろきょろと見回し、それから脇腹に触れる。地獄のような苦痛はすでになく、すっかり忘れてしまっている。
「いき、てる?」
「ギリな。危なかったぞ」
リサは唇をぱくぱくさせる。言葉が出てこない。ただ、自分が本当に死にかけていたことと、本当に助けられたことはわかった。
ブリジットはその場にへたり込み、片手で口元を押さえる。
泣くまいとしているのが丸わかりだった。だが目元はもう完全に潤んでいる。
「よかった……本当に……」
コメント欄が一気に弾ける。
《うおおおおおお! まじで治った!》
《リサ・ヴァーミリオン復活! リサ・ヴァーリオン復活!》
《だんちょーも泣いてるやん》
《マルス、まじでなんなんだよお前》
《黄金病の子はどうすんの? 後先考えてる?》
この時、過去最大級のエールフレアが灯されていた。
旋回するフォローカムが四方八方に発射する色とりどりの花火は、雨上がりの空に浮かぶ虹のように巨大なアーチを作り上げていく。
瞬間同時接続数は、百万をゆうに超え、アカスト史上最高記録を更新していた。




