第88話 悪役貴族、因縁を見る ②
緋々色の騎士は相変わらず動かない。
けれど闘気が消えたわけじゃない。マルスが気を抜けば、即座に斬りかかってくるだろう。奴もまた、こちらを警戒しているのかもしれない。
三本目のハイポーションが、リサの喉を滑り落ちた。
ブリジットの手は震えていた。瓶を持つ指先が力み、ガラスが軋む。奥歯を噛みしめ、必死に平静を保とうとしている。
「リサ……っ!」
顔色は白いまま。呼吸は浅い。胸当ての隙間から覗く裂傷は、依然として赤く濡れ続けている。
だが。
ぶつぶつと泡立つように、傷口の周りの血が粘り気を増し、流れが鈍った。
塞がったと言えるほどの回復ではない。けれど、死へ傾いた天秤は、ほんの僅かに持ち直していた。
「あ……見ろ、マルス! 傷がっ」
ブリジットの声が裏返る。
(見れねぇって)
マルスは内心で苦く笑いながらも、敵から注意を外さない。
リサの瞳がかすかに焦点を結ぶ。琥珀色の目が揺れ、まぶたが震え、薄い唇が乾いた息を吐いた。
「……お、ね――」
声になりきらない、ひどく小さな音。
それでも、それはまだ生きている証だった。
《うおおお生きてる!》
《ハイポーション効いた?》
《やべぇ手が震える》
《四本でいくらするんだ……》
フォローカムが、床に伏すリサの顔を至近で映す。コメント欄が歓声と悲鳴で埋まり、画面が眩しいほど流れていく。
ブリジットはすぐに次の瓶へ手を伸ばそうとして、そこで止まった。
瓶がもうない。腰袋の中身は空。ハイポーションは使い切った。
(これ以上は……)
ブリジットは歯を食いしばる。得られたのは僅かな時間だけ。しかも短い。リサが自力で立てるほどではないし、このまま放置すればいずれ息絶えるだろう。
その上、敵は目の前にいる。
緋々色の騎士はまだ動かない。大剣を肩の高さに構えて静止している。紅の鎧は揺らがず、面頬の闇だけがこちらを見つめているように思えた。
(おかしい)
マルスは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
通常の敵AIであれば、治療中の隙を突いてくる。今が最大の好機のはずだ。なのに動かない。
(警戒しているだけか? それとも、待つ理由があるのか?)
思考がまとまらない。
緋々色の騎士は、じっとこちらを見ている。
(いや、違う)
面頬の闇はマルスではなく、床に横たわるリサに向いている。その視線の偏りに気づいた瞬間、嫌な予感が骨の髄まで染み込む。
ブリジットはリサの装備を剥ぎ取り、傷口を押さえ、包帯を巻いている。
「おい! 上の連中、見てるか! リサ用のハイポーションありったけ持って下りて来い! いますぐ!」
マルスはフォローカムを見ずに声を張り上げた。
塔の入口で待機している騎士団に向けた指示である。
(とはいっても、間に合うのか……?)
緋々色の騎士の大剣。刃の周囲を漂う黒い靄が、さっきより濃くなっている。まるで、獲物が弱っていくのを待つかのように。
騎士の兜が、ほんの僅かに動く。
〈ヴァ――〉
言葉ではない。
喉を鳴らすような、甲冑の隙間から漏れる、空気の震え。
「……なんだ?」
ブリジットが息を呑む。
リサの瞳が薄く開き、虚ろな焦点のまま、騎士の赤を捉えた。
緋々色の騎士は、もう一度、同じ音を漏らす。
〈ヴァーミリ、オン――〉
聞き間違いじゃない。
その音は、確かにリサの家名だった。




