第138話 いざ、決勝戦へ
「アリス! 決勝進出、おめでとうっ!」
体育館の外、トレーニング現場をのぞいた瞬間、緋羽莉の大きな体が、がばっとアリスを包み込んだ。
花のように甘い香りと、やわらかな感触。そして陽だまりみたいな体温が、アリスの顔いっぱいにひろがっていく。
緋羽莉の黄色いひとみは、太陽みたいにきらきら輝いていた。
抱きしめる力は強いのに、アリスをこわさないようにやさしく包み込んでくる。そのたくましい腕も、むにゅっと押しつけられるやわらかな胸も、全部が「大好き」を伝えているみたいだった。
「いいなあ、アリスちゃん。あたしもそんなふうに、緋羽莉ちゃんに抱きしめられたいよ」
そのうしろでは、地魚がうらやましそうな目で見つめていた。緋羽莉は年上を敬う性格のため、地魚には「恐れ多い」と言って、なかなか気軽にハグをしてくれないのだ。自分の引き締まった腰にそっと手を添えながら、むうっとくちびるをとがらせる。
「えっへへ、いいでしょー」
アリスは、すぽっと緋羽莉の胸元から顔を出し、自慢げに笑った。
「ねえ、それより……トレーニングのほうはどうだったの?」
そんな甘々な空気はいったん置いておいて、観戦担当だったりんごが、トレーニング担当の閃芽へたずねる。
「完了したよ。……無事ではないけど」
「えっ?」
どういうことだろう、とりんごは不安げに声をもらした。
おそるおそる、閃芽のうしろをのぞきこんでみると――
「! きゃあっ! アリスちゃん、あ、あれ!」
りんごは悲鳴をあげながら、その方向を指さした。
うながされたアリスが、そちらへ目を向けると――
「えっ……ブルー! ミルフィーヌ!」
なんと、ブルーとミルフィーヌが、全身ボロボロの状態で倒れていたのだ。
キズの具合から見ても、何度も強烈な打撃を受けたことがわかる。ミルフィーヌは服もところどころ破れ、地面には激しい訓練の跡が残っていた。
『……ごめんなさいね。ちょっと荒っぽくなってしまったわ』
そこへ、緋羽莉のパートナーである赤髪筋骨隆々長身褐色女性、【灰焔姫シンデレラ】のシンディが、もうしわけなさそうな表情で歩み寄ってきた。肩を落とし、しゅんと眉を下げている。
だが、その姿ですら圧倒的だった。汗でぬらりと光る褐色の筋肉、はちきれそうな胸元、鍛え抜かれた太い腕と脚。
勇ましい女戦士のような肉体美と、母親みたいなやさしい表情が同居していて、思わず見とれてしまうほど妖艶だった。
「ちょっとってレベルじゃないよお……」
りんごは思わず目をおおいながらツッコむ。たしかにこれは、小さな子どもには簡単に見せられないほど凄惨な光景だった。
「これがもしかして、緋羽莉ちゃんの家に伝わるっていう……」
アリスは、ごくりと息をのむ。
「うん。花菱流・鍛造再生法だよ」
緋羽莉は静かに目を伏せていた。いつもの無邪気な笑顔は消え、長いまつげの影が、その幼い顔立ちにどこか大人びた陰を落としている。
「たんぞう……さいせいほう……」
りんごも同じように息をのんだ。
『わかりやすく言えば、一方的にボコボコにして、回復による肉体強化を目的とした鍛錬法ね。鍛造……鉄を叩けば叩くほど強くなるのと同じ理屈よ』
つまり、シンディこそが、その圧倒的なパワーでふたりを叩きのめした張本人だったのだ。だからこそ、もうしわけなく思っていたのである。
シンディの全身からは、湯気が立ちそうなほどの熱気が漂っていた。
汗まみれの筋肉は黒曜石みたいにつやつやと光り、握りこまれた巨大なこぶしは、岩すら砕けそうな迫力を放っている。
もしあんなので本気で殴られたら――そう想像した瞬間、アリスもりんごも、思わずぞくりと背筋を震わせた。
それなのにシンディ本人は困り眉をしているものだから、そのギャップが余計に恐ろしかった。
「理屈はわかるけど……いくらなんでも、これは……」
りんごは青ざめた顔で、ぶるぶると肩を震わせていた。
もともと争いごとが苦手な彼女には、ボロボロになったブルーたちの姿は刺激が強すぎたのだ。
ちらりとシンディの丸太みたいな腕を見ただけで、「ひえっ……」と小さく悲鳴をもらしてしまう。
「ヒーリングマッサージは施術済みだよ。あと20分くらい休めば、ちゃんと回復すると思う」
緋羽莉は、いつになく真剣な面持ちで告げた。普段のやわらかな雰囲気は、今だけはどこか影をひそめている。
けれどアリスにも、りんごにもわかっていた。こんな方法を選んだことに、緋羽莉自身も心を痛めているのだと。
そこへ、腕を組んでいた閃芽が口をはさんだ。
「……いちおう、緋羽莉の名誉のために言っとくけど、この鍛錬法を望んだのは、ブルーとミルフィーヌ自身だからね。緋羽莉は提案したあとも、ほんとうにやるの? って何度も確認してたし。それでも、ふたりが絶対にやるって譲らなかったんだよ」
「でも、だからって、ここまでするなんて……」
りんごが苦言を呈すると、アリスがその言葉に割って入るように、笑顔で言った。
「わかってるよ。でも、わたしは緋羽莉ちゃんのこと、全面的に信じてる。緋羽莉ちゃんが、いつもわたしを信じてくれてるみたいにね。だから、なにがあったって、緋羽莉ちゃんを責めたりしないよ」
その言葉を聞いた瞬間、緋羽莉の胸はきゅうんと高鳴った。
言いたいことは山ほどある。アリスへの想いだって、あふれそうなくらい胸いっぱいに詰まっている。
なのに、うれしさが大きすぎて、言葉がまったく出てこなかった。
地魚はそんな緋羽莉をちらりと見て、やっぱりかわいいなあと思う。
同時に――やっぱり、アリスちゃんにはかなわないなあと、少しだけ苦笑した。
いつものさわやかな笑顔はなく、どこか泣きそうにも見える緋羽莉のときめく横顔が、胸を締めつけてくる。
長い脚に視線を落としながら、彼女はそっと自分の腕を抱いた。
引き締まった体にまとわりつくタンクトップ越しに、鼓動がかすかに早くなっているのを感じる。
かなわない。そう思うのに、ますます目が離せなくなるのだった。
そして――アリスは、表情を引き締めて確認する。
「特訓は成功したんだよね? ふたりとも、ちゃんと回復するんだよね?」
「うん。ふたりとも、本当にすごくがんばってくれたよ。これならきっと、優勝まちがいなし!」
緋羽莉は、ぱあっと満開の笑顔を咲かせながら答えた。その笑顔は、さっきまでの陰を吹き飛ばすみたいにあかるかった。花のような表情が輝き、黄色いひとみまで太陽みたいにきらめいている。
ふんわりとやわらかな胸元を揺らしながら笑う姿は、元気いっぱいでかわいらしいのに、どきりとする色っぽさまであった。
そして、アリスを手招きするように、両手を大きくひろげた。
「だから、ほら! アリスも決勝戦まで、ゆっくり休んで!」
それは、「いっぱい甘えていいんだよ」と言わんばかりのおさそいだった。
太陽みたいな緋羽莉の笑顔。大きくて、たくましくて、それでいてやわらかな体。全身からふんわり漂う花の香りが、アリスの本能をやさしく誘惑する。
アリスはふと、昨日感じたことを思い出す。そのときの緋羽莉はまるで、桜の大妖精みたいだった。
満開の花びらを思わせる甘い香り。春の日差しみたいなぬくもり。
大きくてやわらかな体に抱きしめられていると、心までぽかぽかになって、ずっとこのままでいたくなってしまう。
しかも、引き締まった筋肉の感触が服越しに伝わるたび、頼もしさと安心感まで胸にひろがっていくのだった。
試合の疲れが重なっていたアリスは、誘われるまま、すとんと緋羽莉の大きな胸へ顔をうずめた。
そして、その長い両腕にやさしく包み込まれると、安心したように短い眠りへ落ちていった。
「おやすみ、アリス……」
緋羽莉は、いとおしそうに目を細めながら、そっとつぶやく。
地魚も、りんごも、閃芽も、しあわせそうなアリスの寝顔を見て苦笑いした。
みんなも思うところはいろいろあったはずだけれど、もうこれ以上、なにも言う気にはなれなかった。
☆ ☆ ☆
緋羽莉の胸の中で、アリスは夢を見ていた。
それは4歳のころ。幼稚園で緋羽莉と仲よくなって、一か月ほど経ったころのことだった。
アリスと緋羽莉は、稲葉家の近くにある空き地で、保護者たちに隠れてこっそり、はじめてのワンダーバトルに興じていた。
7年後の今と比べれば、おたがいに技も力もまだまだ未熟だった。
それでも、ミルフィーヌもアカネも、同年代の子どもたちのパートナーの中では群を抜く強さを見せており、見る人が見れば、大きな将来性を感じられるほどのバトルだった。
技と技をぶつけ合うたび、アリスも緋羽莉も、おたがいの心がさらに深く通じ合っていくのを感じていた。
楽しくて、うれしくて、気持ちよくて。テンションもボルテージも、どんどん高まっていく。
そして、それが最高潮に達したそのとき――
あのできごとが起こった。
アリスがワンダーバトルを禁じられ、緋羽莉が全力を出せなくなってしまう――すべてのはじまりとなった、あの事件が……
☆ ☆ ☆
『……リス……アリス……!』
聞き覚えのある呼び声に、アリスはハッと目を覚ました。
『あ、起きた、アリス! はやく行かないと、決勝戦がはじまっちゃうよ!』
それはブルーの声だった。
緋羽莉に抱きしめられたまま眠っていたアリスのミニスカートのすそを、ぐいぐい引っ張っている。
「そういうブルーも、起きたんだ……」
アリスは、ねぼけまなこをこすりながら、ほほえましそうにつぶやいた。
眠る前にはボロ雑巾のようになっていたブルーの体も、まだ完全とは言えないものの、十分に元気を取り戻しているようだった。
『はいっ! もう全身、すっきり爽快です!』
ミルフィーヌも同じように回復しており、「むんっ!」と力こぶを作るポーズを見せる。
「アリスは、どう?」
アリスに体を貸していた緋羽莉が、その顔をのぞき込みながら、やさしくたずねた。
緋羽莉の顔は、真昼だけど朝の日差しを浴びたみたいにあかるく輝いていた。
汗で少ししっとりした褐色の肌も、やわらかく細められた黄色いひとみも、まぶしいくらい生き生きとしている。
大人びた体つきなのに、見下ろしてくる笑顔だけは無邪気そのもので、そのギャップにアリスは胸がくすぐったくなった。
「うん。わたしもすっかりいい調子。ただ……」
アリスは笑顔で答えたあと、少しだけ表情を曇らせ、うつむいた。
「ただ?」
「……7年前の、あのときの夢、見ちゃった」
そのひとことに、緋羽莉はハッと息をのんだ。表情には、はっきりと驚愕の色が浮かんでいる。
あの日のできごとが、緋羽莉にとってもどれほど大きな傷になっているのかが、痛いほど伝わってきた。
「……どうして今、あの日の夢を見たのかはわからない。けど……次の決勝戦、とんでもないことが起こる気がするの……」
アリスは声を震わせながら、緋羽莉のピンク色のオフショルダーの袖を、ぎゅっとつかんだ。
アリスの中にある、言葉にできない不安。それが、かつてないほど強く、緋羽莉にもひしひしと伝わってくる。
そして、こういうときに緋羽莉がすることは、いつだって決まっていた。
自分の不安なんて、後回しにしてでも――緋羽莉はアリスの体を、壊れものを扱うように、それでいて力強く、むぎゅうっと抱きしめた。
そして、アリスの白い耳元へ、そっとささやく。
「だいじょうぶ。なにがあっても、アリスのことはわたしが守るから。今度こそ……」
その声は、今にも泣き出してしまいそうなくらい震えていた。
緋羽莉はアリスにそっと頬ずりする。緋羽莉の健康的な褐色肌と、アリスの雪みたいに白い肌が、ぴたりと重なり合う。その対比はまるで、夜空と月あかりみたいに鮮やかだった。
やわらかな頬ずりの感触と、ふわりと漂う花の香りに包まれ、アリスのこわばった心は少しずつほどけていく。
不安をぬぐってあげたい――緋羽莉のそんな想いが、あふれんばかりに伝わってきた。
「……ありがとう、緋羽莉ちゃん」
そう言って、アリスは緋羽莉からそっと体を離した。
「そうだね。なにも怖いことなんてない。わたしには――みんながついてるから!」
アリスは、緋羽莉、ブルー、ミルフィーヌ、りんご、閃芽、シンディ、そして地魚の顔を順番に見回す。
そのひとみには、もう迷いはなかった。
「……行こう、決勝戦へ!」
そしてアリスは、ゆっくりと立ち上がる。
決意を胸に、勇ましく表情を引き締めるのだった。




