第104話 なんてことない前夜と祈り
時刻は夜9時。
入浴と、明日のための準備をすませ、アリスはいつもより早めにベッドにもぐりこんでいた。
右隣には、寄り添うように抱き合っているブルーとモモ。
左隣には、ひと足先にぐっすりと眠りについている、人型のミルフィーヌ。
グリンとレッドは体が大きすぎるため、もちろんウォッチの中で眠っている。もっとも、サイズの問題を抜きにしても、レッドがいっしょに寝たがる姿は、どうにも想像できないけれど。
「……はあ、それにしても……今日は激動の一日だったなあ……」
アリスは、薄闇に包まれた天井を見上げながら、ぽつりとつぶやいた。
となりでブルーも『そうだね』と小さくあいづちを打つ。
今日いっしょに行動していたみんなが、きっと同じことを感じているだろう。それぞれの寝床で、同じようにこの一日を思い返しているにちがいない。
(緋羽莉ちゃん……)
そんな中でも、アリスの心に真っ先に浮かぶのは、やはり緋羽莉のことだった。
というより――今日は一日中、彼女に心をかき乱されっぱなしだった。
朝起きてから、ずっと冷静でいられなかったブロッサムスクエアでの出来事。
裏山での冒険では、二度もさらわれ、そのたびに振り回されて――
もし自分がこの物語の主人公だとしたら、ヒロインは緋羽莉なんじゃないか。そんなふうに思ってしまうほどだった。
アリスは、ちらりと枕元のスマートウォッチに目をやる。見送りのときに言っていたとおり、今夜は緋羽莉からのコールはない。
今日は話したいことがありすぎて、もし通話をしてしまえば、きっと夜ふかしすることになってしまっただろう。
だから、これでいい――はずなのに。それでもやっぱり、どこかさびしい。
……けれど。そんな思いも、頭の中でゆっくりとかき混ぜられるうちに、少しずつ輪郭を失っていった。
なにしろ――今日は、あまりにも疲れすぎていた。まぶたが重く、意識がゆらゆらと揺れる。
こんなふうに眠気に襲われるのは、サッカークラブの試合のあと以来かもしれない。
――今日は、ゆっくり休んでね。
見送りのときにかけられた、緋羽莉の言葉がよみがえる。
その言葉に背中を押されるように、アリスはそれ以上考えることをやめた。
モモはすでに、ブルーの腕の中でぐっすりと眠っている。その寝顔は、すっかり安心しきったものだ。
自分たちといっしょにいることを、心からしあわせに感じてくれている――そんなことが、見ているだけで伝わってくる。
ブルーは、そんなモモの頭を、いとおしそうにそっとなでた。
モモは、ブルーにとって妹のような存在になりつつあるのかもしれない。
……もっとも、モモ本人は、それ以上の関係を望んでいそうではあるけれど。
「ブルー……明日は、がんばろうね」
『……うん』
小さく言葉を交わし、気持ちを確かめ合う。
そしてふたりは、ゆっくりと夢の世界へと沈んでいった。
明日は、校内大会の敗者復活戦――そして、本戦。剣城玲那に勝ち、優勝する。それが、アリスの目標だった。
しかし正直に言えば、今日の冒険の最中、アリスはその目標を少しずつ忘れかけていた。
それは、ただ楽しくて夢中になっていたからだけではない。
その目標すら、どこかささいなことのように思えてしまうほど、心の中に余裕が生まれていたのだ。
こうして、ぐっすりと眠ろうとしているのも――明日が、いつもと変わらない一日だと、どこかで思っているから。
それは、自分でも気づかないうちに積み重なっていた、心と体の成長の証。
明日は、その力がきっと、存分に発揮されることだろう。
――けれど。大きな目標――ブルーをドラゴピアに帰すことだけは、決して忘れない。校内大会は、そのための通過点にすぎないのだ。
だからこそ、明日元気に戦うために。今夜は――おやすみなさい。
☆ ☆ ☆
夜中。しんと静まり返った空気の中で、彼女の息づかいだけが、かすかに闇に溶けている。
青い月の光に照らされた広い庭で、緋羽莉はポニーテールを結ぶリボンを揺らしながら、静かに踊っていた。その身を包むものはほとんどなく、月光そのものをまとっているかのように、輪郭がやわらかく浮かび上がっている。
それはバレエのようで、舞のようでもある、彼女自身がその場で紡ぎ出した祈りの踊り。アリスの明日の勝利と、元気と健康を願う、心からの祈りの舞だった。
決まった型に縛られない自由な動きは、感情のままにあふれ出す想いをそのまま形にしたものだった。
その動きはしなやかで、かつ大胆で躍動的。ひとつひとつの所作に、やわらかな曲線と確かな力が同時に宿り、見る者の視線を自然と引き寄せる。
鍛え上げられた全身が、あふれる生命力そのものを表現しているかのようだった。伸びやかにひろがる腕、踏みしめる足、ひねるように回る胴――すべてが連なり、ひとつの流れる線となって夜を彩る。
直前に清めの水を浴びたことで、もともとつややかな肌は、月の光を受けてやわらかく輝いている。水滴はすべるように肌を伝い、そのたびに、なめらかな起伏が淡く強調されていく。
動くたびに、水滴がきらりと弾け、夜の静寂にきらめきを添えていた。跳ねたしずくが空中で散り、まるで小さな星が舞っているかのようにきらめく。
緋羽莉は、頭の中も胸の中もアリスのことでいっぱいにしながら、舞い、回り、跳ねる。そのたびに、想いがあふれるように動きが大きくなり、胸の奥にある「大好き」が全身からこぼれ出ていく。
どれだけ動いても、その表情に疲れは見えない。むしろ、アリスを思うほどに頬はやわらかくゆるみ、幸福に満ちた色を深めていった。
それは、うっとりするほど穏やかで、どこまでも晴れやかだった。
夜風が頬をなで、髪を揺らす。風に乗って、ほのかな甘い香りがひろがり、場の空気さえやさしく変えていく。
その心地よさが、彼女の想いをさらに高めていく。胸の奥で灯るあたたかな感情が、動きとなって外へ外へとあふれていく。
――この気持ちが、アリスに届きますように。――わたしのすべては、ぜんぶ、ぜんぶ、アリスのために。
そう願うように、月へと手を伸ばし、大きく跳ねた。宙に浮いた一瞬、全身がすっと伸び、無垢な美しさとほのかな艶やかさが重なり合う。
花のような笑顔。ダイヤモンドのようにきらめく肌。
軽やかに揺れる緋色のポニーテール。
羽のようにやさしい動きと、茉莉花のような甘い香り。
それらすべてを夜空へと解き放つように、緋羽莉は舞い続ける。愛しさをそのまま夜へ差し出すように、ひとつひとつの動きに祈りを乗せながら。
縁側では、不死鳥のヒナ【スカーレットチック】のアカネをはじめとしたパートナーたちが、その姿に見とれていた。
女性型コンビのシンディとヨシノも、緋羽莉に念入りに施されたケアのおかげで、月明かりを受けてやわらかく輝いている。
誰ひとりとして目を離せない。ただそこにあるだけで、心を奪われるような美しさだった。それは飾られた美ではなく、内側からあふれ出る命の輝きそのものだった。
その光景は、どこか神聖な儀式のようでもあった。
そして――ひとしきり踊り終えたあと。最後の動きが静かにほどけ、余韻だけが庭に残る。
緋羽莉は両腕を大きくひろげ、ゆっくりと体を反らしながら、月を見上げた。胸を開くその姿は無防備で、それでいてどこか神聖さを帯びている。
まるで、降りそそぐ光をその身で受け止めるかのように。
整った体が、静かに息づき、ひときわ強く光を帯びたように見える。呼吸に合わせてわずかに揺れるその姿が、やさしいリズムを刻んでいた。
やがて、目を閉じる。長いまつげがふっと影を落とし、穏やかな表情がいっそう際立つ。
ゆっくりと両腕を胸の前に引き寄せ、指を組む。
そして、祈る。――大好きな親友、アリスのために。胸の奥にある想いを、そっと両手で包みこむように。
頬をほんのりと染め、やわらかな笑みを浮かべながら。そのほほえみには、隠しきれないほどの愛しさがにじんでいた。
その姿は、ただまっすぐで、迷いのない想いそのものだった。
アリスのためなら、どんなことだってできる。どんなに遠くても、どんなに届かなくても――それでも想い続けると、心の底から信じている。
そんな強い意志を宿したまま――緋羽莉は、静かに祈り続けた。
夜が明け、朝日が庭を照らしはじめる、その瞬間まで。冷えた空気の中でも、その体から失われることのないぬくもりが、静かに燃え続けていた。
やがて昇る朝陽が、その姿をやさしく包みこむ。光の中に溶けていくその輪郭は、まるで祈りそのものが形を持ったかのようだった。
長い祈りの時間を経て、なお揺るがぬ想いが、そこにあった。
そのあまりにも一途で、まっすぐな祈りが届いたのか――
夢の中にいるアリスは、疲れがすっかり消え去るほど、深く穏やかな眠りに包まれていた。
目覚めたときには校内大会本戦を、万全の状態で迎えられることだろう。




