第103話 冒険の終わり
大親友の緋羽莉と仲よく手をつなぎ、アリスはふしぎ町の住宅街を歩いていた。並んで歩くその距離はいつもより近く、肩がふれそうになるたびに、ふわりとしたぬくもりが伝わってくる。
歩調を合わせて並ぶその姿は、長身の彼女のしなやかな体つきがよくわかり、夕陽の中でくっきりとしたシルエットを描いていた。
足もとにはブルーと、ウォッチから出してあげたモモが、ちょこちょことしっかりついてきている。
指をからませ、やさしく包みこんでくる緋羽莉の大きな手は、ほんのりとあたたかい。指先はしっとりとしていて、やわらかな弾力があり、にぎられるたびに安心感がじんわりとひろがっていく。
手首から指先にかけての線は意外なほどすらりとしていて、力強さの中になめらかさが感じられる。
少し汗ばんでいても、不快に感じることはまったくなく、それどころか、どこか心地よさすらあった。むしろ、そのぬくもりが生き生きとした彼女らしさを感じさせて、そっと胸をくすぐる。
彼女自身が放つ、花のようにやさしい香り。そこに、頭に乗せた花冠の香りが重なり、ふわりとアリスの鼻をくすぐる。歩くたびに揺れるポニーテールからも、ほのかに甘い香りがただよい、思わず深く息を吸い込みたくなる。
どんな高級なフレグランスだって、この香りにはかなわない――そんなふうに思えるほどだった。
肩をわずかに動かすたび、オフショルダーからのぞくラインがやわらかく揺れ、その動きが自然と目を引いた。
ただ並んで歩いているだけで、胸がしあわせでいっぱいになる。ときおり視線を向けると、夕陽に照らされた横顔がやわらかく輝き、そのたびにどきりと胸が高鳴った。
一歩踏み出すごとに伸びる脚はすらりと長く、安定した足取りがその鍛えられた体を物語っている。
この時間が、できることなら、ずっと続いてほしい――アリスは心からそう願っていた。
きっと、緋羽莉も同じ気持ちでいてくれているにちがいない、とも。
けれど、時間は流れていくもの。
どんなに大切なひとときにも、終わりはやってくる。
気がつけば、ふたりはアリスの家の門の前に立っていた。つないだ手のぬくもりだけが、まだその時間の続きのように残っている。
時刻は、夕方六時少し前。
保護者の沙織には、ワールドへ冒険に行くことは伝えてあったが、あまり遅くなりすぎれば、さすがに怒られてしまう。
門限までに戻ってこられたことに、アリスはほっと胸をなでおろした。
学校の裏山を、午後からの冒険場所に選んだのも、その時間内に帰れると踏んでのことだった。
……もっとも、想定以上の大冒険になってしまったのだけれど。
アリスと緋羽莉は、その場で足を止めた。わずかに触れ合う腕が離れず、互いの体温がじんわりと伝わり合う。
立ち止まったことで、これまでの動きが静まり、緋羽莉の整った体のラインがいっそう際立つ。
手をぎゅっとにぎったまま、言葉もなく立ちつくす。指をほどくきっかけを探すように、絡んだままの手が小さく揺れた。
ブルーとモモは、「どうしたの?」と言いたげに見上げてくる。
けれど、声をかけることはしなかった。
この空気は、邪魔しちゃいけない――そんなふうに、なんとなく感じ取ったのだ。
しばらくして、アリスが先に口を開いた。
こういうとき、決断が早いのは、いつもアリスのほうだった。
「じゃ……送ってくれて、ありがとう」
目を合わせないままそう言って、そっと手を離し、門に手をかける。
けれど――緋羽莉の右手は、アリスの左手を、しっかりとつかんだままだった。
まるで、「まだ離れたくない」「もう少しだけ、いっしょにいたい」と願うように。
それは、アリスも同じ気持ちだった。
けれど、おたがいに帰る家がある以上、いつまでもこうしているわけにはいかない。
アリスがふり向き、なにか言葉をかけようとした、その瞬間――
緋羽莉の指がほんの少しだけ強くからみ、名残を惜しむようにきゅっと力がこもる。そして、指の力をふっとゆるめ、ゆっくり、ゆっくりと手を離した。
離れていく指先が、最後までそっと触れ合い、ぬくもりを惜しむようにすべっていく。
そして、後ろ手を組み、いつもどおりのやわらかな笑顔を見せる。その笑みは少しだけ名残惜しさをにじませながらも、やさしく包みこむようにあたたかかった。背中側で組んだ腕に引かれ、上半身のラインがすっと整い、姿勢のよさがいっそう引き立つ。
「うん……どういたしまして。今日は、ゆっくり休んでね。通話も、今夜はひかえておくから」
やわらかく響く声は、どこか甘く、耳に残る余韻が心をくすぐる。
「そこまで気をつかってくれなくてもいいのに」
毎晩、寝る前に通話するのは、ふたりの日課だ。
それがなくなるのは、アリスにとって少しさびしい。
眠る前には、緋羽莉の心地よい声を聞く――それが、いつものルーティーンになっているのだから。
「つかうよ。明日は、アリスの大事な大舞台なんだから」
「大舞台って、さすがにおおげさよ。ただの校内大会じゃない」
「ただの校内大会に勝つために、今日はあんなに必死だったのに?」
「うっ……」
純真無垢な緋羽莉にしてはめずらしく、からかうような口調に、アリスは思わずたじろいだ。
そのようすを見て、緋羽莉は口元に手を当て、くすくすと笑う。肩を小さく揺らすたびに、胸もとのフリルがふわりと揺れて、愛らしい動きを見せた。
「ごめんごめん。でも、それはブルーをおうちに帰してあげるためだもんね」
そう言って、長い脚を折ってしゃがみこみ、ブルーと視線を合わせた。しなやかなその動きは軽やかで、引き締まった足のラインが一瞬だけ際立つ。その姿勢でも崩れない体幹が、引き締まった筋肉の強さをさりげなく示している。
「ブルーも、モモも、明日はがんばってね」
やさしく、いとおしむように目を細める緋羽莉。かけられた言葉には、包みこむようなぬくもりが宿っていた。
そのまなざしに、ブルーはどきりとして、思わずモモを抱きしめる腕に力をこめた。
今日一日いっしょに過ごして、緋羽莉のあふれる生命力と包容力が、種族を超えて人を惹きつけるものだということを、ブルーはしっかりと感じ取っていた。
『う……うん。今日はほんとうにありがとう、緋羽莉ちゃん』
モモもいっしょになって、『キュー!』と元気よくお礼を言う。
もし彼女がいなければ、モモはハンターに捕まっていたかもしれない。
ブルーにとっても、モモにとっても――緋羽莉は、大切な恩人だった。
緋羽莉はにっこりとほほえみ返し、すっと立ち上がる。同時に、ゆるやかな髪がふわりと跳ね、花冠がきらりと光を受ける。
立ち上がる動作はぶれがなく、脚から腰へと連なる動きがなめらかにつながっていた。
「じゃあ、バイバイ、アリス! またあしたね!」
そして、満開の笑顔で大きく手を振ると、くるりと背を向け、ダッと駆け出した。振り向きざまに見せた笑顔が夕焼けに染まり、そのまま軽やかな足取りで遠ざかっていく。
別れを惜しむ気持ちを、振り払うかのように。
「あ……」
アリスが一歩前に出て、手を伸ばそうとしたときには、すでに緋羽莉の姿は夕陽の中へと溶けるように消えていた。残された空気には、ほんのりと彼女の香りだけが名残のように漂っている。
言いたいことも、話したいことも、まだたくさんあったはずなのに。どうしても、言葉が出てこなかった。
今日一日の冒険で、アリスはウィザードとして大きく成長した。
けれど――いちばん変わったのは、緋羽莉との心の距離なのかもしれない。そんなことを、ふと思う。
ついさっきまでそこにあったぬくもりを探すように、指先がかすかに動く。その手には、ついさきほどまで触れていた確かな重みと存在感が、まだ残っている気がした。
名残惜しそうに、左手で空気をつかむばかりのアリスの足を、ブルーがぐいっと引いた。
『だいじょうぶだよ。緋羽莉ちゃんとは、明日も、あさっても、また会えるでしょ?』
まるで心を見透かしたような言葉。
そんなところまで成長しているなんて――と、アリスは少し驚く。
ブルーはまだ小さいけれど、れっきとしたドラゴンだ。
成長が早いのも、きっとそのせいなのだろう。
「……ありがとう、ブルー。それじゃ、今日は緋羽莉ちゃんの言うとおり、ゆっくり休みましょ」
アリスは苦笑しながら門を開け、ブルーとモモを連れて家の中へと入った。
こうして――アリスたちのはじめての大冒険は、今度こそ幕を閉じたのだった。
☆ ☆ ☆
夕食を済ませたあと。
月がやわらかく輝く、夜七時半ごろ。
アリスは自宅の庭で、保護者の沙織に、冒険の報告もかねてパートナーたちを紹介していた。
「おお……」『キュー……』
沙織と、パートナーの【ハネウサギ】ブラウンは、そろって感嘆の声をもらす。
キャバリアのような子犬のすがたから、人間の少女へと進化した【ワンダフルプリンセス・ミルフィーヌ】。
めずらしいハネウサギの中でも幻といわれる、ピンク色の【モモイロハネウサギ】のモモ。
草むらのような緑のアフロヘアーを持つ大型モグラ【モリモール】のグリン。
そして、真っ赤な体毛とオレンジのモヒカンを持つ、灼熱のクマ【バーニングリズリー】のレッド。
新たなパートナーが三体も増えているうえ、既知のミルフィーヌまで大きな変化を遂げている。
さすがの沙織も、驚きを隠せないようすだった。
「まさか、あなたまで仲間になるとは……お久しぶりですね、クマさん」
『ケッ……忘れてたぜ。親子ってことは、ついてくりゃあ、お前との対面も避けられねえってな』
沙織とブラウン、そしてレッド。
15年ぶりの再会。因縁のある相手だが、勝者の余裕と敗者の焦燥、その反応は対照的だった。
レッドは、これ以上食ってかかるようすを見せない。
いまの沙織には到底かなわない――そう野生の勘で瞬時に理解したのだろう。
さらに、養女であるアリスにヘタなことをすれば、ただでは済まない。
そのことも、沙織の細められた青いひとみから、しっかり感じ取っていた。
(……チッ、やっかいなとこに来ちまったな)
ほんの少しだけ、パートナー契約を結んだことを後悔するレッドだった。
いっぽうで、ブラウンの関心は別のところに向いていた。やっぱり同族であるモモの存在が気になるらしい。
彼の価値観から見ても、モモはとびきりかわいいようだ。
クールを装って、それっぽくアプローチを試みるブラウン。
だが――モモの心は、すでにブルーにしっかり向いている。
そっけなくあしらわれ、ブラウンは「ガーン」とショックを受けていた。
モグラのグリンは、というと、庭のにんじん畑に興味津々で、土の匂いをかぎながら、もぞもぞと動き回っている。
そのようすを見て、のちに家庭菜園の世話と警備を任されることになるのだった。
新たな仲間たちは三者三様。けれど、どこかあたたかく、この家族の一員としてうまくなじめそうだ。
アリスとブルーは、その光景にほっと胸をなでおろした。
「よくぞ、これだけのワンダーと絆を結べましたね。ブルーもミルフィーヌも、ずいぶん成長したようで」
「えへへ……」『えっへん!』
沙織にほめられて、アリスは照れくさそうに笑い、ブルーも誇らしげに胸を張る。
ミルフィーヌは、くるりと一回転して見せるほどの上機嫌だった。
――だが、しかし。
「……ところで。この子たちの食費は、どうするつもりなんですか?」
「……あ」
沙織の現実的なひとことが、アリスの夢見心地を、見事に打ち砕いたのだった。




