あれから三年と四日目(6)
一目見て分かった。
これは私の手に負える相手じゃない。
「グギギ……ニンゲン、ウマイ……タベル……」
狼型の迷宮生物の鋭い爪と牙。
牛型の迷宮生物の堅牢な角と強靭な二足歩行の肉体に握られた棍棒。
虫型の迷宮生物の夥しい数の複眼と羽。
あげく、人のように言葉を介する知能。
……こんなの、迷宮生物ですらない。
「……っ。逃げ――」
「……ニガサナイ。ギヒヒ!」
「……なっ……ぁ」
逃げないと。何としてでもあのうるさい奴を連れて逃げないと。
我に返って振り向いて、何かが宙を舞うのが見えた。
クルクルと宙を舞って、地面に叩きつけられたそれは私の腕だった。
「あっ……あ……」
頭が真っ白になった。声が漏れた。
痛かったからじゃない。怖かったからじゃない。ううん。もちろん痛いし怖い。
けど、それ以上に、無くなったのが右腕だったから。指輪を嵌めている人指し指の付いた腕だったから。
鏡面のように磨かれた壁に映る私には角があって目は白黒反対で。
だから、私の頭は真っ白になった。
◇◆◇◆◇
何が起きたのかまるで見えなかった。
気づいたときには彼女の右腕が地面に「べちゃっ」と音をたてて落ちたところだった。
でも、一番驚いたのはそのあと。
腕を失った彼女の頭には小さな黒い角が二本。それから目の色が白黒反転していた。
それは、魔族の特徴を示すものだった。
「え……あ……」
なんで、どうして、どういうこと、何が、何を、なぜ。
聞きたいことも聞かないといけないことも山ほどあるはずなのに、口を開けて出るのはそんなうわ言のような言葉とも呼べない何かばかり。
「見るな……見ないで……っ」
対して彼女は、後輩だと思っていた魔族は、あれほどまでに強くて自信に溢れていた様子はすっかり鳴りを潜め、ただの女の子のように潤んだ瞳で僕を睨んで残った左腕で懸命に角を隠そうと手を伸ばしていた。
分からない。
何も分からない。
本当に、何一つ、何が起きているのかも、何をすべきかも、何が正しいのかも。
でも、この状況。
きっと彼女は間違っていた。
「ゴチソウ……イタダキ……!!」
だって、ここは迷宮だ。敵はすぐ近くにいる。それも明らかに僕や彼女より強い怪物が。
なのに背を向けて手を挙げてあげく半泣きで、そんなの正しいわけがない。
「……っ!? ……ぁ」
「……怪我は……ない……?」
それから僕も間違えた。
魔族は人間の敵なのに。
相手は化け物なのに。
僕なんかが居たって何にもなるわけないのに。
なのに、体が勝手に動いてしまった。
「……へへ……よかった」
雪みたいに真っ白な彼女の肌が僕の血で染まるのを見ながら、それでも彼女に傷がないのを見ながら、深く、深く、僕の意識は暗いところへと沈んでいった。
◇◆◇◆◇
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ドクドクドクドク、穴の空いた胸から流れる血が思い知らせる。
謝ったってもう遅い。
全て手遅れ。全て私のせい。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に謝ってるの?
分からないけど言葉は止まらない。
涙も止まらない。
何に泣いてるのかも分からない。
でも、やっぱり止まらない。
「ギヒヒ……オイチイ! モット!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
怖い。怖い怖い怖い。
痛いのも、死ぬのも、食べられるのも、全部怖い。
でも、何よりも……マスターに軽蔑されたまま死ぬのが怖い。
マスターの大事なものを殺して恨まれてそのまま謝ることもできないまま死ぬのが怖い。
嫌だ。そんなの嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
いい子にします。もう悪いことはしません。ちゃんと言うことを聞きます。
だから……嫌いにならないで。
「ごめんなさい……マスター」
「分かってくれたならいいよ。次からはこういうことしたらダメだよ?」




