3.契約①
姫様はあれから、寝る間も惜しんで勉学に励んでいる。
夜になってもお部屋に戻らず、懸命に大国へ向かう準備をしている。
側仕えであれば、今ごろ姫様の側に控えて、お茶会の支度や稽古の手伝いなどしているだろう。
だが、私が姫様に直接できることは、何もない。
部屋付きとして、せいぜいお部屋を整えるぐらいだろう。
溜息をつきながら、ベッドの古いシーツを剥がし、新しいものをかける。気持ちとは裏腹に、新しいシーツはシワなくのびた。
先日の姫様のお言葉は、何だったんだろう。
まるで何かを諦めるような、そんな言い方……。
姫様に何も聞けないまま、忙しい日々に身を委ねている。
無意識のうちに握りしめていたのだろう、伸ばしたシーツにまたシワが寄った。
雑念を振り払うように、また端をぴんと伸ばす。今度は綺麗に整った。
あの後も、姫様は慰めるまでもなく、変わらない笑顔を向けてくれる。主人が大変なのに、私がへこたれてどうするんだ。息を吸い込み、くるくると使用済みのシーツを丸めた。
***
古いシーツを抱え、部屋を出る。
今日は天気がいい。湖畔から湿気を帯びた風が吹き、頬を撫でる。なんと気持ちがいいのだろう。
城の屋上へ向かおうと、外階段へ通じる道を行くと、船着場にレイモン様がいた。
「レイモン様……?」
姫様の授業が終わった頃合いなのだろうか。ちらと顔を覗くと、彼は魂が抜け落ちてしまったような顔をしていた。
思わずぎょっとして、よろめいた。その時、大きな風が吹いた。手に持っていたシーツが、空高く舞い上がる。
「ちょっと、待って」
つかもうと手を伸ばす。だが、シーツは風に揉まれ、階段下、そして湖へと、どんどん遠く離れていく。もう届かない――そう思った時。
「なんだ、これ」
すっと長い手が伸びた。レイモン様がシーツを掴んでくれたようだ。
「レイモン様!」
「エル殿か……。これは、君のものか?」
「そうです。今取りに行くので、少しそちらでお待ちいただけますか?」
そういうと、レイモン様は静かに頷いて下さった。
「わかった」
「すぐ向かいますね」
慌てて階段をおり、レイモン様の側へ向かう。
「ありがとうございます」
彼から、シーツを受け取る。
「レイモン様のおかげで、地面に落ちずにすみました」
「それは良かった」
そう言って、彼はその場から立ち去ろうとする。いつもよりも素っ気ない。
そんな荒んだ態度に思わず、声をかけていた。
「レイモン様……。どうなさったんですか?」
「何でもない」
そして、彼は私の顔を見ないまま、再び歩き出してしまう。
勇気を振り絞って出した一声も、無力に等しかった。
「何でもないように見えません。とても、お辛そうです」
仕事中しか言葉を交わさないとしても、彼は必ず笑顔を返してくれた。どんな階級の者であっても、優しく対応してくれる。それが、レイモン様だ。
「……君からはそんな風に見えるんだな」
レイモン様は自嘲するように笑った。
そして、彼はしばらく考え込んでいたが、やがてゆるりと口を開いた。
「姫様の護衛騎士を辞めるようにと、王が仰った」
「……え?」
思いがけない話だった。
「……私の態度が良くなかったのだろうな」
「そんな、どうして。レイモン様は、素晴らしい騎士なのに!」
「……結婚前に、無体があっては困るそうだ」
「無体なんて……」
そんなはずはないと、言おうとした。だけれども、彼の顔を見たら何も言えなくなってしまった。
いつもは、暖かな日差しのように微笑まれるお方なのに――今は悲痛の底へ沈みこんでいるようだった。
そんな彼の顔なんて、初めて見た。
……とても見ていられない。
かつて、胸の奥底にしまったはずの思いが、抉られたように痛んだ。
「……レイモン様は、それでよろしいのですか」
絞り出すように、言葉を出した。
「姫様にとっても、きっとこれでよかったんだろう」
まるで自分に言い聞かせるような、言葉だった。そんな風に無理に納得しようとしてるようにも聞こえた。
私はそうは思わない。
また突き動かされるように、言葉を発していた。
「そんな風に引き離されるなんて――姫様のことも、レイモン様のことも軽んじているのではありませんか」
そういうと、レイモン様はこちらを伺うようにじっと私を見た。今日初めて、視線が合わさる。
「何故そう思ったんだ?」
「普段のお二人からは、縁遠いものだと思いましたから」
「本当に、そうだと言えるのか?」
レイモン様は、静かに呟かれた。
――脳裏に、お二人のかつての日々が思い出される。
お転婆な姫様を、一歩後ろから穏やかに見守っていらしたレイモン様。言葉を交わさずとも、互いを気遣っているのが目に見えるようだった。
名画のような、理想のお二人。
レイモン様は、いつも騎士として、姫様に誠実だった。
だから、信じたかった。
「はい。レイモン様は、姫様をお守りする護衛騎士様ですから。だから、姫様を傷つけるなぞ、決してなさらないでしょう?」
「だが、任を解くには十分な理由じゃないか?」
レイモン様は、諦めたように仰った。
それなら、怪しまれない口実を作ってしまえばいい。
――例えば、姫様に近づいても、怪しまれないような。
「レイモン様。私の仮の恋人になって頂けませんか?」
「それは……どういうことなんだ」
突然の交際の申し込みに、彼は困惑しているようだった。
当たり前だ。今までお二人の話をしていたのに、私という第三者が出てきたのだから。
「私なら、お二人のお力になれるかもしれません」
「……というと」
「たまたま、私とレイモン様がいたところに、姫様が居合わせればいいんです」
もしも、逢瀬を疑われることがあっても、恋人の私に会いに来た――そういう事にしておけばいい。
「だが、それでは君が……」
私の提案に、レイモン様は考え込むように口を噤んだ。
自分で提案しておいて何だが、なんと馬鹿馬鹿しい計画だろう。
過ちがあってはならない、と引き離されたのに、再び合わせようとするなんて。――レイモン様の決意まで、こけにしたような申し出だ。
このとき、私は気持ちを拗らせすぎて、おかしくなっていたのかもしれない。
「それに、私は姫様の部屋付きにして、姫様のお気に入りです」
――エル、いつも本当にありがとう。姫様の安心しきったお顔を思い出す。
ちくりと胸が痛んだ。
私はなんて浅ましいんだろう。
痛む気持ちに蓋をして、彼の言葉を待つ。
「それは、君が損するだけじゃないか?」
「一般的にはそうでしょう。だけど、私は結婚相手を探しに城へ来た訳では無いのです。私はこの城で働き続けたいんです。」
働き続けたいという思いは、嘘ではない。
「結婚して家に入るよりも、自分の力で生活したいんです。それに、兄が家督を継いでいて、私は急いで嫁ぐ立場でもありません。」
しかし、それでもレイモン様は揺らがなかった。
「それなら――なおさら、思いあった人と付き合った方がいい」
これ以上の揺さぶりは、無意味かもしれない。
だけど――走り出した気持ちは、もう止めようがなかった。
私はさらに畳み掛ける。
「……実をいうと、最近両親の目線が痛いんです。そろそろ言い訳が欲しくて……。姫様をお見送りした後、お別れしたとて、好都合なのです」
「……君の評判に関わるだろう」
「もし噂になっても……失恋といえば、しばらく婚姻の話も避けられるでしょうし。――私にとってもいい話なんです」
あまりにも見苦しい言い訳だ。
でも、このまま引き下がるわけにもいかない。
「レイモン様は、姫様に会いたくないんですか」
人のいい彼を騙すなんて、良心が痛んだ。
だけど――このままでは、もう彼との繋がりがなくなってしまうかもしれない。
それは、嫌だ。
いつもの落ち着いた彼なら、一蹴されただろう。
だが、先程のショックで憔悴しているのか、彼も迷っているようだった。
こちらへ傾いてくれるよう祈って、さらに畳み掛けた。
「私は、本当に……お二人のお力になりたいだけなんです。きっと姫様がバイエルンに嫁がれては――、一生お会いすることは叶わないやもしれません」
彼ははっとして顔を上げた。
あと、もうひと押し。
「あのままお別れで、本当にいいんですか?」
「……俺は……」
「どうか、レイモン様、私の願いに付き合って下さいませんか」
私はもう1度、交際を申し込んだ。
再び、私たちの間に沈黙が落ちる。
彼はしばらく逡巡したのち、ゆっくり私に手を差し出した。
「よろしく頼む」
私は、その手を握り返した。




