2.姫の婚約
四方を山に囲まれた、谷間のなかにひっそり佇む、小さな国。
国土こそ広くないが、美しい自然と穏やかな気候が自慢の国だ。
そんな風土に似たのか――慎ましく、心優しい国王陛下に治められている。
それが私の住む王国だ。暖かで幸せな場所だと、私は思っている。
私は、その国の姫の部屋付きだ。部屋付きといっても、することは食器を磨いたり、部屋の掃除だったり、姫の身の回りを整えたりする。
ようやく掃除が一段落ついたので、窓を開け放った。
湖の冷気を含んだ風が、ひやりとした心地良さを部屋にもたらす。
城のそばにある湖は、今日も水面に雄大な山々を映している。このおかげか、夏でも城内はひんやりと涼しかった。
「ふう……」
今日も姫様と、護衛騎士のレイモン様は仲睦まじくあらせられた。
窓から見た景色が、頭から離れない。絵画のように美しく、結ばれるのが定められたような二人だった。
「……仕事に戻ろう」
掃除かごの中から、布巾を取り出す。棚の上は拭き終わったので、次は食器類だ。
姫様のお気に入りのポットを手に取る。側面にある黄色い花々が好きなのだと、嬉しそうに語っていたっけ。
そんなことを懐かしみながら、茶器を磨いていると慌ただしい足音が聞こえた。
またいつものように、姫様が授業を抜け出してきたのだろうか。
私は一旦手を止め、戸棚から茶葉を取り出した。
「エルー!」
姫様の声がしたと思うと、既に扉は勢いよく開かれていた。
声の主は、王女ティナ様。彼女は、肩で息をしながら、ドアに体を預けていた。
私はポットを机に戻し、慌てる彼女を宥めた。
「ティナ様、廊下は走ってはいけませんよ。先日もお伝えしましたが――」
「エル、どうしよう」
いつもにこやかな姫様の顔が、陶器のように青ざめていた。
「……どうされたのですか?」
いつもなら「はしたなくてごめんなさいね」といいつつも、楽しそうに笑う彼女。だが、声は消え入りそうな程弱く、体は小刻みに震えていた。
「あのね、その……」
「姫様、どうか落ち着いてくださいませ。今、カモミールをお入れしますから」
いつもと様子が違う彼女に、不安を覚える。精一杯落ち着かせようとする。
そんな私を見て、姫様は一息深呼吸すると、またいつもの気品をまとい始めた。
「――エル、どうもありがとう。いつも受け止めてくれるのは、貴女だけよ。でも、もう大丈夫」
それから大きく息を吸い込むと、すっと私を見据えた。
「あのね――皇国バイエルンからね、婚姻の申し込みがあったの」
はっと息を飲む。
あまりの衝撃に、掴んでいたポットを床に落としそうになった。
それから間もなく、部屋の外から幾人もの足音が廊下にこだまする。
「姫様!お待ちくださいませ!」
大臣がノックもそこそこに、部屋に駆け込んできた。次に息を切らしながらも、背筋は真っ直ぐに、教育係のナターシャ様が現れる。
「ひっ、ひめさま、廊下を、走るなんて、はしたないですよ」
それに姫様は不貞腐れたように返す。
「だって、いても経ってもいられないもの」
姫様は、どうやらご立腹のようだ。
「わたくし、結婚なんてしたくないわ」
「おひいさま!」
大臣が、慌てている。
「久々にそう呼んでくれて嬉しい」
「姫様……。いや、今はそういう話をしているのではなく……。もし今の発言が、かの国の使者に伝わっていたらどうするんですか」
「どうだっていいわ、そんなこと。むしろ、破談になってしまえばいいのよ……」
姫様の声が震えていた。
「ひめさま!」
大臣の声が部屋に大きく響いた。
「じいやの声の方がうるさいわ」
「も、申し訳ありません」
大臣が途端に小さくなる。
「どうして、こんな田舎の国の姫なんか娶ろうと思ったのかしら」
「ティア、いきなりですまない。私も驚いているんだ」
のっそりと、しかし厳かに国王がやって来た。
「父様!……この縁談は断れないんですか」
「姫様!」
「だって、由緒ある国なんか他にもいくつかあるし……。それに私、まだ16歳なのよ?」
「……かの国では、とっくに成人している歳だ」
バイエルン帝国は、我が国を祖に持つ西の大国だ。ずっと内乱が続いていたが、最近ようやく落ち着いたらしい。
数年前新しい皇帝が即位してからは、成長が著しいらしい。民からの覚えの良い皇帝らしく、今は復興を中心に民から好かれているのだという。そういう話を、この前旅商人から聞かされた。
そんな国が、どうしてこんな小国に?
私たちの国には、広大な土地も、潤沢な富も、資源もない。とてもいい国だけど、誇れるものは歴史が古いことくらいだ。
今は隣国は片手に数える程しかないけれど、昔は我が国のように、小さい国が沢山あったと言う。でも、大国に併合されたり、戦の波に飲み込まれ、歴史に消えていった。
私たちの国だっていつ併合されてもおかしくない。そう、かつて姫様がこぼしたことがある。
そんな国に、姫様が――。
「もう結構よ。――皆、退いてちょうだい!」
私がぼんやりしている間に、言い争いがあったらしい。
姫様はもううんざりというふうに、叫んだ。騒がしかった部屋が、しんと静寂に包まれる。
誰も言葉を発さない。
その静けさを破ったのは、王だった。
「お前の考えはよくわかった。いきなりすまない。――だが、聡明なお前なら選択肢はないのだと、分かるだろう」
「……父様」
「皆、部屋を出るぞ」
王がそう仰ると、みなゆっくりと部屋を後にした。私も、部屋を出ないと。
そう部屋を出ようとすると、呼び止められた。
「エル、お願い。あなたは残って」
「……姫様」
姫様は心細さげに、私の袖を掴んでいる。
入口のそばでは、レイモン様が姫様を悲痛な面持ちで見つめていた。
護衛騎士の彼も、急いで追ってきたのだろう。髪がいつもより乱れていた。
――姫様がご心配なのね。
ここは私ではなく、レイモン様が適任だろう。ゆがみそうになる顔を必死に抑えて、彼に笑顔を向けた。
「レイモン様、どうか姫様についていてあげてください。私は皆様をお送りいたしますので」
姫様は私の裾をつかんではなさなかった。
「お願い……エル。ここにいて」
姫様は震えていた。私は優しくその手を握り返した。
「すぐに戻りますから、姫様。」
だが、その手の力が緩む気配はない。
「エル、どうかここは姫様の様子を見ていてくれないかしら」
遠目から、その様子を見ていたナターシャ様が、私に近づいて耳打ちした。
「……ですが」
「教育係として恥ずかしいだけれど、姫様を1番わかっているのはあなただから」
そういうと、ナターシャ様は部屋を出ていってしまった。
「レイモンや、少し相談がある。あとで私の執務室へ来てくれ」
国王がレイモン様へ目配せした。人が去り、やがて部屋に2人きり残された。
「……エル、ごめんね。」
そして姫様は静かに涙を零した。
「……いいんです。姫様」
姫様が泣き止むまで、私はその背中を撫でていた。心細いのだろう、いつもの溌剌とした様子は消え去り、小さな子どもの頃に戻ったようだった。
「お心が休まるまで、私はここに居りますから。安心してください」
「――エル、ありがとう」
姫様が泣き止んだあと、カモミールを淹れた。姫様お気に入りの1品だ。
彼女はふうふうと、立ち上る熱気を冷ましている。その様子も可愛らしい。
姫様は昔から猫舌で、なかなか飲むのに時間がかかるのだ。いつもお忙しい姫様だが、この一瞬はゆるりと過ごされる。
「エルの入れてくれる紅茶はいつも美味しいね」
「それは何よりです。あ、まだ熱いですから。もう少し、ゆっくり飲んでくださいね」
「ありがとう 」
お茶を飲み終えたあと、姫様はいつもの調子を取り戻していた。
「エル、ナターシャたちを呼んできてちょうだい」
「わかりました」
「あ、――少し待って」
部屋を出ようとすると、再び姫様に呼びかけられた。何か言いたげに、私を見つめている。
「姫様……?」
姫様はにっこり微笑んで、私の頭を撫でた。
「あなたは、昔から頼もしいわね」
「いえ、姫様の心を案じるのが、私の務めですから」
「そうだとしてもよ。……あーあ、ずっとこうしていたかったわ」
「……姫様」
姫様のずっとというお言葉が、心にのしかかる。でも1番泣きたいのは姫様だろう。私はいつもの笑顔を取り繕った。
「さあ、行ってらっしゃい。」
「はい、お任せを」
少し、足早に部屋を出た時だった。
「――どうかレイモンをよろしくね」
姫様が、そう呟いた気がした。
ナターシャ様をお呼びした後、ようやく昼食にありつけた。いつもより遅めの食事だ。
すごく濃い午前中だった。いつもに増して疲れがどっと押し寄せる。
「……レイモン様をよろしくって、どういう意味だろう……。」
厨房の余り物を頬張りながら、城の外を眺めた。
広く大きな湖は、城に来た頃と変わらず、静かに水面を揺らしていた。




