28.いつも通り
次の日。重たい瞼を開け、仕事の支度をした。窓を開けば、ひやりとした空気が頬を撫でた。夏が過ぎて、秋の始まりを感じさせる冷たさだ。
息を吸い込むと、木々の澄み切った匂いが身体中に広がった。
※※※
「おはよう、エル」
準備を終え、いつも通り出仕すると姫様が出迎えてくださる。
「まあ……」
濡れ布巾を交換していたナターシャ様は、私たちを交互に見て呆れた声を出していた。
最近はお二人とも朝から部屋を空けられることが多かったから、こうしてお会いできるのが嬉しい。
「おはようございます」
私の目元を見て、姫様は笑みをこぼされる。
姫様の目元も、やや赤く泣き腫れのあとが残っている。あの後、冷やした濡れ布巾を姫様にお渡ししたけれど、残ってしまったようだ。
「昨日はよくお休みになりましたか?」
「ぐっすり眠れたわ。……エルこそ、大丈夫だったかしら」
そう朗らかに仰った。
「今朝、ナターシャに出立の時に顔を見せるのに、腫れさせてはいけないと言われたわ」
「姫様は、もうすぐ国の代表としてあちらに向かわれるのです。私のお小言が多くなってしまうのも、仕方がありませんわ」
ナターシャ様は、絞った布巾を姫様に手渡される。
「まあ……こういう日もあっていいじゃない」
姫様は眉を八の字に下げながらも、大人しく替えの濡れ布巾を目元に当てていた。
「もうすぐ収穫祭も近いのね」
ふと机の上にある、薄紫の花を見て姫様は独りごちた。
「バイエルンに着くころには、一面の麦畑が見頃なのですよ」
「この国よりも遅いのね」
「山の方が季節が早いですからね」
平原の向こうまで麦に染まるのだと、懐かしそうにナターシャ様は目を細めた。
「そうなの。そこまで大きい畑を見た事がないから、それは楽しみね。……ところで、手がそろそろしびれてきたわ。もう当てなくてもいいかしら……」
「腫れが引くまでご辛抱くださいな。旅立ちの日、国王様にとびきり綺麗なお姿を見せるのだと、張り切っていたばかりでしょう?」
ナターシャ様は教育係として姫様によく指導されるが、一番その身を案じているお方だ。
「ねぇ、エル。今日も紅茶をいいかしら」
「もちろんです」
あとこのやり取りが見られるのも、残り少ない。
そう思うと寂しくなってしまったけれど、最後までいつも通りの仕事をお届けしたい。
私は気合いを入れ直し、棚から茶葉を取り出した。
姫様は午前中お部屋で過ごされた後、挨拶回りがあると昼過ぎにはお出かけになられた。
※※※
シーツを運びに、外階段の方へ向かう。
騎士舎の方に目を向ければ、騎士たちが交代で鍛錬に励んでいた。
ついレイ様のお姿が無いか見渡したけれど、いらっしゃらなかった。
今は旅路が変わり、当初予定していた日程を変更することになった。警備や宿泊の手配を各地の領主と連携しているらしく、その調整に時間がかかるのだと姫様が仰っていた。
「エル」
その様子を歩きながら眺めていると、後ろから不意に会いたかった人の声がした。
「レイ様。……どうかされましたか?」
「今は休憩時間中でな。君の姿が見えたから、つい話しかけてしまった」
彼は当然のように私の籠を引き受けると、並んで歩き始めた。
偽装恋人だった頃は、打ち合わせを兼ねて会いに来てくださると思っていた。
けれど、……私に会いたいと思ってわざわざ会いに来てくださったんだ。
嬉しさで、自然と口角が上がった。
「いつもいつも、ありがとうございます」
「大したことじゃない。それに、いつも君一人でこの量を運んでいるんだろう」
偽装恋人になった頃からこうしてすれ違う度、いつも変わらずこうしてくださる。
外階段に風が吹き抜ける。日差しがあるのに、ひんやりとして心地よい冷たさだ。
湖の岸辺で揺れる草木は、先端が少しずつ色褪せてきていた。
「……もうすぐ秋でしょうか」
「長雨の季節も過ぎたからな。そろそろ各地で収穫祭も行われる頃か」
「姫様は、収穫祭で賑わう合間に旅立たれるのですね。昔から催しがお好きでしたから、少しでもその空気を味わえるといいのですが」
レイ様はその様子を想像したのか、ふっと表情を和らげた。
「……そうだな。立ち寄ることは難しいとしても、道中その雰囲気は楽しめるのかもしれない。……だから予定通りが良かったのかもしれないな」
ふと、レイ様は足を止めた。
「どうかされましたか?」
「姫様に、お話できたようだな。……良かった」
彼は胸を撫で下ろすように、ふっと表情を和らげた。
どうして、わかったのだろう。
まるで自分の事のように安心する彼に、胸がいっぱいになった。
「レイ様が背中を押して下さったから、お話することができたんです。……ありがとうございます」
そう返すと、彼はかぶりを振った。
「それは、君相手だったからだ。君の真っ直ぐな気持ちが、姫様は嬉しかったんだろう」
「そう言われると、何だか恥ずかしいような、光栄なような気がしてきました」
外回廊を歩き終え、城の中へ再び戻る。この先は、主に使用人たちの仕事部屋が中心で、騎士舎から遠くなってしまう。ここからは、ひとりで運んだ方がいいだろう。
「……ここまでで大丈夫です」
離れ難いけれど、私もレイ様も職務に戻らねばならない。
「仕事の途中なのに、尋ねてすまなかった」
「……いえ、私も嬉しかったので」
「君からそう言ってもらえるのは、嬉しいものだな」
心から嬉しそうに表情を緩めた。
「……あ。それ、は良かったです」
返事をするので、手一杯だった。
「では、また」
私にかごを丁寧に手渡すと、彼は騎士舎の方へ歩んでいく。しばし、お互いの顔を見合わせて、それから別れた。
それにしても——レイ様には、やっぱり笑顔がいちばん似合う。
今は、彼から好意を受け取るだけで精一杯だ。
だけど、あんなにも喜んでいただけるのならば、——なるべく今後は素直でいようと思った。




