25.一歩ずつ
私が泣き止むまで、レイモン様は抱きしめて下さった。
腕の中は温かくて、ぐちゃぐちゃした心ごと包まれる。
安心感が身に染み切り、泣き止んでくると今度はこの状況がなんだか恥ずかしくなってきた。
自分から申し出たことだけど——もういっぱいいっぱいだった。
「あの、もう……大丈夫です」
彼は心配そうに顔を覗き込んだ。
「本当か?」
「あの、私が耐えられそうにないので……」
「……あぁ、わかった」
私が恥ずかしそうに身を捩ると、抱擁の力が弱まった。やや、名残惜しそうに手が離れた。
「あの……ありがとうございます」
私が照れくさそうに笑うと、彼は優しげに微笑み返した。
隣にいたいと、レイモン様も仰ってくださった。その言葉が、暖かな日差しのようにじわじわと胸に喜びが広がっていく。
「ところで、レイモン様はいつお戻りになったんですか」
騎士たちが戻ってきたのは、昼過ぎだ。
私が身を整えて城に戻ったのもそれぐらいで、もしかしてすぐに駆け付けてくださったのか。
……もし仮に私が来なくとも、夜まで待ったのだろうか。そう思うと、天まで昇るような心地だけれど——お役目の方は、問題ないのだろうか。
心配になって彼の方を見あげると、なにかもの言いたげにこちらを覗いていた。
「……その呼び方は」
「あ……」
表面上は恋人同士であったから、『レイ様』とお呼びしていたけれど、あくまでも仮初の関係であったから。
「そうお呼びしてはいけないと思っていました」
一度でも、心の中で『レイ様』と呼んでしまえば、戻れない気がした。
そう伝えると、彼は弱ったように眉を寄せた。
「君には……随分辛い思いをさせてしまった」
そう言うと、また眉間に皺を寄せてしまう。
「待ってください。あの、私が勝手にしていたことですから……」
「……これでは、またいつも通りだな」
レイモン様に笑って欲しくて、咄嗟にまた庇うようなことをすれば、難しそうなお顔をされた。
私も彼も、どちらとも笑って欲しいと思っているのに、どうにも上手くいかない。
しばらく彼は思案したあと、声を発した。
「……もし、君が嫌でなければまた俺のことをレイ、と呼んでくれないか」
思いがけない申し出だった。
でも。許されるのであれば——いや、私が彼のことをまたそうお呼びしたかった。
「……はい、レイ……様」
おずおずとレイ様の名前を口にすると、彼の目元が緩んだ。
仮初でお呼びしていた頃よりも、ぐっと、距離が縮まった感じがする。少し足元がふわふわとして、落ち着かない浮遊感。
少しこそばゆいけれど、決して嫌じゃない、そんなじれったさがある。
ふと、木陰で何か茶色の生き物が頭をもたげているのが見えた。馬だ。
「……あの、もしかしてあれはレイモン様の馬ですか」
私の視線の先を確認すると、彼は安心させるように微笑んだ。
「ああ、……昔からの馴染みでな」
いつも城の中でお会いしていたから、レイ様の相棒を見るのは初めてだった。艶のある毛並みで、私の髪と同じ色だが、それよりもずっと素敵な茶色だ。
ふと、仕事のことが気にかかる。
「……そういえば、ご報告はよろしいのですか」
「報告は一通り済ませてある」
しかし、門の周りではみな準備をしていたのだし、レイ様もお忙しいお方だ。離れ難いけど、私一人が独占していいものではない。
「……私のことはもう大丈夫ですから。だから、もう戻りましょう?」
私がそう切り出すと、彼は暫し黙ったあと、名残惜しげに眉を下げた。
「……そうだな」
「はい。あの……お時間取らせて本当にすみません」
などと謝れば、彼は優しく大丈夫だとおっしゃるのだった。
「ところで、また明日の昼に会えるか」
本当に、私のことを気にかけて下さっているんだ。
そう自覚すると、じわじわと嬉しさが湧き上がる。
しかし残念だけれど、明日はミーナの当番を変わらなければならない。
「……明日の昼は無理かもしれません」
「いきなり会いたいなどと、すまなかったな」
レイモン様が残念そうになさるのを見て、すかさず告げた。
「でも、明日の夕刻以降なら!……大丈夫です」
私の必死な様子を見て、なぜだかレイモン様は微笑まれるのだった。
「……わかった。今日は、時間をくれてありがとう」
「はい、私こそ……ありがとうございました」
互いに手を振りあって、別れた。
あんなにお待ちしている時は長かったのに。幸せな時間は、あっという間にすぎてしまう。
たまらずに振り返ると、彼と視線があった。
もしかして、私と同じ気持ちでいてくれたのかな。思わず笑みが零れた。
「……レイ様、また明日お会いしましょう!」
私が再び手を振れば、彼もまた返してくださるのだった。
※※※
レイ様と別れた後、 当番を代わるため姫様の部屋へ帰った。私が戻ると、ちょうどミーナが花瓶の花を差し替えている頃だった。
「……エル、どうだった?」
少し緊張したような硬い声だった。送り出してくれた彼女もまた、私たちのことを心配してくれていたのだろうか。
「ミーナ、あのね。レイ様とまたお話できたよ」
「本当!」
「うん。……ミーナのおかげだよ。ありがとう」
そう心からの感謝を伝える。花を手にしたまま、私に近寄ってくるのだった。
「もう、本当によかったわ……」
「あなたからのアドバイスがなかったら、レイ様と向き合えなかったかもしれない。ミーナは恩人だよ」
彼女は良かった、としきりに呟きながら、私の手を握りしめた。
それほどまでに、ミーナに心配をかけていたんだろうか。そう思うと、面目ない。
「お花を少し貰ってくるから、それまでテーブルクロスを敷き直しておいてね」
彼女はそういうと、部屋の外へ出ていった。
最近、季節の花々をお部屋に飾っている。これは窓辺から見える庭のものだ。
いつも戻られる頃には、日が落ちて美しい花々が闇に沈んでしまう。だからせめて、姫様が少しでも心が和むように、花を飾っていた。
これも、ミーナが発案したものだ。
彼女の気配りには、本当に頭が上がらない。
改めて姫様のお部屋を見渡す。シーツはしわ無く揃えられ、いつでも部屋の主が戻っても良いように整えられている。
姫様は、本当に多くの方々に愛されていらっしゃるのだ。
窓の向こうでは、夕闇が木々を飲み込み夜へ誘おうとしていた。姫様とレイ様——お二人がいつも仲睦まじく過ごしていた庭は、今は静かに藍色に染まっていた。




