18.夕焼けと湖
建物の裏手は下り坂になっているようで、姫様は傾斜を難なく降りていく。
仕事着といえど、慣れない下り道では後をついていくのに必死だ。
連れられるままに、やがて木々の奥にある、深い茂みの中にたどり着いた。
「あのっ、……大丈夫なんでしょうか」
お茶の支度も、レイモン様との作戦も置いてきたままだ。
「大丈夫よ。だってここは私の庭だもの」
肩で息をする私の横で、姫様はどこ吹く風だった。
王家の領地ではあるけれど、何も告げずに出てしまった。きっと離れの方は大騒ぎだろう。
幼い頃からここを見知っている姫様はともかく、土地勘がない私一人では戻れそうにない。かと言って、姫様をひとりきりにするわけにはいかない。私は息を整えながら、お傍にいるしかなかった。
「みんな、今頃探してるかしら」
「……姫様、どうして」
姫様はいたずらが見つかった子どものように、少しばつが悪そうな様子だ。
「ちょっと、昔みたいに駆け出したくなってしまったの。……それよりもこれ、見て」
そのまま、足元の茂みを指さした。
耳を澄ませると、せせらぎの音がした。茂みをかき分けると、細い沢が陽の光を反射していた。
「こんなところに沢があるなんて」
「ふふ。ここは私の隠れ場所なの」
姫様は、慣れた様子で沢沿いの細道を降りてゆく。
「ここから覗くと、ちょうどあの岩の辺りにお父様が座っていたわ」
向こう側にある、どっしりとした岩を指す。
「あそこでよく魚釣りをしていて……。お身体に障りますよと、お母様がいつもガウンをかけにいらしたの」
そんな2人を見るのが幸せだったのだと、懐かしそうに目を細めた。
「素敵な思い出ですね」
棚の中にあった、彩り溢れる茶器を思い出す。
その器を囲んで、どんな和やかな時間を過ごされたのだろう。
そこにはきっと、王家の方々だけの穏やかな団欒があったに違いない。
「本当に懐かしいわ」
姫様はそう言って、軽やかに沢沿いを下っていく。
やや下ったところで、足がふと止まった。茂みが途切れ、視界が開ける。
「ここから見る景色が、一番好きだったのよ」
そこは切り立った岩の上になっており、湖を一望することができた。
「……すごい」
遮るものもなく。こんな高いところからは、初めて目にした。
「でしょ?」
姫様は得意げに鼻を鳴らした。
しばらくすると、奥の茂みからがさりと音がする。
彼女を庇うように前に出ると、見覚えのある隊服が目に入った。
「……姫様、やはりこちらにいらっしゃいましたか」
レイモン様は眉根を寄せ、ため息混じりに仰った。
「あら……レイモン」
姫様は何食わぬ顔をしている。
「昔から、お隠れになる時は決まってここでしたから」
レイモン様は、呆れたように眉を下げた。
「まあ、レイモンにはお見通しよね」
姫様は悔しそうに肩を落とした。
ここは、お二人だけの馴染みの場所だったのだ。
思わず、レイモン様から頂いた髪留めに触れた。
……何を動揺しているんだろう。ただ、そばにいられるだけで、十分なのに。
「姫様、いつもの思いつきで彼女を困らせないでください」
諭すように告げられた。
「わかってるわよ〜、もう。あーあ、エルの恋人に文句言われちゃった」
恋人。その響きが、冷えきりそうだった身体に熱を残した。
「エル……姫様のわがままに付き合わせてすまない」
心底申し訳なさそうに、レイモン様が頭を下げた。
「いえ……大丈夫です。それに、楽しかったですから」
王家の方々が愛する地で、沢下りなんてなかなかできるものじゃない。
「そうよ。楽しかったならいいじゃない。それに、エルも守るって言ってくれたもの」
いたずらめいた瞳を瞬かせ、にこにこと満足気だ。
「……姫様。皆が困っております」
レイモン様が困った調子で、進言した。躊躇いがちに、姫様は首を振った。
「もう少しだけ、待ってちょうだい」
「……何を」
その時、深い碧を湛えていた湖が一面朱色に染まった。城の先端も、鬱蒼とした木立も、全てが夕陽色に輝く。
今は風はひとつなく、ただ空の赤を照らし返していた。
視界いっぱいに広がる雄大な姿に、言葉を失った。
「本当に……腹立たしいぐらいに綺麗ね」
冷たいようで、声色はどこか優しい響きだった。
——姫様が見たかった景色は、これなんだ。
「綺麗ですね」
彼も、つられて言葉をこぼす。
三人で夕陽を眺めていた。やがて日が山間に沈んでゆき、世界が翳り始める。
最初に言葉を発したのは、レイモン様だった。
「……姫様、日が落ちてきました。皆も心配しております」
「……そうね」
姫様は、名残惜しそうにもう一度湖を見た。
「やっぱり……みんなでこの景色を見られて良かった」
いつも凛とした声が、この時少しだけ震えていた。
「私も……この景色を見られて良かったです」
そう返せば。
「わがままに付き合ってくれてありがとう。エル」
姫様は、泣きそうな顔で笑うのだった。




