16.姫と湖
いつものお茶の時間に、姫様は鼻歌混じりに紅茶を嗜まれている。
「なんだか楽しそうですね」
「ええ……とっても嬉しいの」
彼女は、ナターシャ様から差し出された便箋を読んでいた。その封蝋には、翼を広げた大きな鷲と剣が刻印されていた。
この家紋はバイエルン帝国のもの。それは皇帝から差し出されたものだった。
その報せを受け、ナターシャ様は目を潤ませていた。
「姫様……本当にやり遂げられましたね!」
「ありがとうナターシャ。……やっとあいつを見返せそうで嬉しいわ。……それにしてもエルの紅茶は美味しいわね」
ふんわりと紅茶の香りを楽しむように、目を細めた。
そして文から顔を上げると、私を見つめる。
「ねえ、エル。あなたたち、最近仲睦まじいと耳にするのだけれど」
姫様はご満悦にティーカップを差し出す。私はおかわりを注ぎながら、控えめに頷くのであった。
「……はい」
「一緒に湖でお昼も食べてるそうね!どんな風にいちゃいちゃしてるの?」
「姫様、はしたないですよ」
すかさずナターシャ様の注意が飛ぶ。
「いいじゃない、あちらの国にいけば、こんなことは出来ないのだし。気の許せるうちに楽しませてちょうだい」
「それで、それで!何してるの」
姫様は興味津々に目を輝かせた。
——お二人が逢えるための作戦を考えているなんて、とてもじゃないが言えない。
「……えっと、一緒にお昼を食べたり。お話したりでしょうか」
「あなた達って本当に色気が足りないわね……」
姫様はしょうがないわねと言いたげに、私を見上げた。
「姫様。恋人というものは、激しく愛を語り合うだけではなく、静かに愛を育む時間だってあるのですよ」
横で会話を聞いていたナターシャ様が、ほほほと上品に微笑んだ。
「ナターシャはそういうけれど。……そういうものなのかしら」
「私は、レイモン様と過ごせるだけで……十分です」
そう言葉を返すと、姫様は不思議そうに首をかしげた。
「まあレイモン一人だけなら、ぼんやりしてても面白いかもしれないけど……。エルはほんとに楽しいの?」
そう問われて、自然と次の言葉が口から出ていた。
「……私は。レイ様と一緒にいられるだけで楽しいんです。一緒に景色をみられてるだけで、嬉しいと言いますか」
姫様は私の返答に、少し困ったように眉尻を下げた。
「……そうなの」
そして、手元のティーカップにため息混じりに息を吹きかけた。
「共にそういう時間を過ごせる人がいるなんて、なんだかあなた達が羨ましくなってきたわ」
そうして物憂げに窓の外に目線をやると、おもむろに口を開いた。
「知ってる……?この湖は、我が国が建国されるはるか昔からここにあったそうよ。」
姫様は体を椅子にだらりと預けた。
いつもしっかりしていらっしゃる姫様だが、その時ばかりは年相応にいじけたように見えた。
「そんな昔からあったのですか」
「この国ははるか昔から、あの湖と共に歩んできたのよ。……でも、私はあの湖がずっと苦手だったの」
隠しておきたかったことを、どうしても知ってほしいと言わんばかりに、口にされた。
その姿は、騎士になりたかった理由を話してくれた、彼ととてもよく似ていた。
「大きくて、冷たくて。ずっと変わらずにこの国にあり続ける、湖が。」
「……姫様」
レイモン様が語られた、かつての事故。それが今でも尾を引いているのだろうか。
「でもね、窓辺から見る湖は額縁みたいに小さくて、変化する絵のようで面白いの。それにね」
姫様は窓辺の近くに置いてある、カートを見た。
「あなたがお茶を用意して持ってきてくれる時、その前を横切るじゃない。その瞬間が好きだなって、いつも思うの」
「姫様……」
彼女からの最大限の信頼に、胸がいっぱいになる。
「窓辺からじゃなくて……ううん。私も国を出る前に改めて、湖を見たいわね」
姫様がうんと背伸びをして、体を起こした。
「でも、私には覚えないといけないことが山のようにあるし。無理そうね」
姫様は、また忘れて欲しいというように話を逸らされた。
「……姫様、お待ちください」
私がそう言いかけると、思わぬ人物が声を上げる。
「……いいんじゃないでしょうか。」
意外な提案に、その場にいた全員がナターシャ様を見た。
「本来は数年かけて身につける知識を、姫様はたった数ヶ月で修めてしまわれました。バイエルンの儀式を全て覚えろ、なんて無理難題だと言うのに……。よくぞ頑張られましたね」
ナターシャ様は温かい眼差しを姫様に向けた。
「……でも、何かあったら良くないし」
「この国に、そんな不届き者は居ないと思いますわ。——それに、不安なら警備の数などどんどん増やせばいいのです」
「わ、私も姫様をお守りします」
私も加勢すると、姫様は観念したように笑うのだった。
「本当?じゃあ、みんなに甘えちゃおうかしら」
姫様は——気丈に振る舞われていたとしても、まだ16の少女なのだ。婚姻を不安に思われるのも、無理はない。
姫様が安心してその日を迎えられるよう、私も精いっぱい頑張らなければ。
「本当に楽しみだわ」
姫様は心から嬉しそうに、顔をほころばせた。




