第72話 開戦
出征の朝。
王宮前の大広場に、全軍が、整列していた。
磨きあげられた、ミスリルの鎧。林立する、王家の旗。馬のいななき。鉄の匂い。見渡すかぎりの兵が、しんと、静まりかえって、壇上の、私を、見上げていた。
私は、大きなお腹を抱えて、ゆっくりと、壇の中央に、進み出た。
聖女として、出征する兵たちに、祝福を授ける。それが、この朝の、私の務めだった。
私は、目を閉じ、両手を、胸の前で、組んだ。
そして、祈った。森の春に、呪われた男の子のために祈った、あのときと、同じ気持ちで。
(どうか、この人たちを、お守りください)
胸の奥から、温かいものが、すうっと、湧き上がってくる。精霊師に授かった、加護。私の意志に、応えて、それは、光の粒となって、私の指先から、こぼれ出した。
淡い、金色の光が、春の朝の空気に、ふわりと、広がっていく。それは、風に乗って、整列した兵たちの、ひとりひとりの上へ、雪のように、静かに、降り注いだ。
兵たちが、息を呑んで、空を見上げた。
光に触れた者の顔から、こわばりが、ほどけていく。隣の戦友と、うなずき合う。剣の柄を、握りなおす。
「どうか、ご無事で」
私の声が、広場に、染みわたった。
「ひとり残らず、生きて、この国へ、帰ってきてください。あなたがたの、帰る場所は、私が、守ります」
地鳴りのような、鬨の声が、あがった。
◇◇◇
壇を下りると、ノエルが、待っていた。
漆黒の甲冑に、私の刺繍した青いリボンを、兜の内側に、しのばせている。一国の王太子の、凛とした姿。けれど、その手は、私のお腹に触れるとき、いつものように、こわごわと、優しかった。
「行ってくる」
「うん」
「……生まれる頃には、必ず、戻る」
「待ってないよ」
私が言うと、ノエルが、きょとんとした。
「あなたが帰ってくるのは、当たり前のことだもの。待つ、なんて、思わない。だから、急がないで、きちんと、戦ってきて」
ノエルは、ふっと、笑った。それから、私の額に、一度だけ、口づけを落とした。
それから、私の耳もとに唇を寄せて、誰にも聞こえない声で囁いた。
「……愛している、リリィ。必ず、帰る」
私の頬が、かっと熱くなった。こんな、大勢の兵の前で。
「もう。こんなときに」
「こんなときだからだ」
ノエルは、いたずらっぽく口の端を上げた。それから名残惜しそうに、私の頬を大きな手で一度だけ包んで、離した。
その隣で、父さんも、馬上の人になっていた。元第三皇子の顔で。けれど、私と目が合うと、ただの、優しいお父さんの顔で、小さく、頷いてくれた。
少し離れたところでは、エミリアが、夫のマクシミリアンを、見送っていた。気丈に笑おうとして、けれど、その目には、涙が、いっぱいに、溜まっていた。二年前、毒に倒れたエミリアは、すっかり元気になっていた。その彼女が、いま、夫を、戦場へ送る。
私は、エミリアの隣に立って、その手を、握った。
「だいじょうぶ。みんな、帰ってくる」
「……うん。うん、リリィ」
夫を戦場へ送る妻たちが、肩を、寄せ合った。
◇◇◇
角笛が、鳴った。
軍列が、北へ向けて、動きだす。ミスリルの鎧が、朝陽を弾いて、白い街道を、銀の川のように、流れていく。
私とエミリアは、その流れが、地平の彼方に消えるまで、見送った。
不在アークの、あの朝。北へ発つノエルを、ひとりで見送った、あの日を、思い出した。あのときの私は、ただ、心細かった。けれど、今は、違う。私の隣には、友がいて、お腹には、子がいて、背後には、私が二年かけて育てた、国がある。
私は、もう、ひとりでは、ない。
◇◇◇
戦端は、すぐに、開かれた。
数日後、ノースランド軍が、北の国境を、越えた。
ノエルが、王太子として、全軍を、指揮する。前線からの伝令が、毎日、王宮に、駆けこんでくる。地名と、戦況。私には、わからないことばかりだったけれど、フェルディナンド様が、ひとつひとつ、教えてくれた。
そして、その報せの中に、私が、いちばん、おそれていたものが、あった。
「リリィ様。……北の、開拓地が」
フェルディナンド様の声が、重かった。
エリック兄と、オリヴィア様の、開拓地。国境に近いその村が、ノースランド軍の、最初の標的に、なっていた。
二年前、罪を償うために、新天地を耕しはじめた、二人。ようやく、村が、実りはじめた、その矢先に。
「お兄ちゃんは……オリヴィア様は、ご無事なの」
「持ちこたえております。オリヴィア殿が、開拓民をまとめ、村を、守り抜いておられる、と。エリック殿は、負傷者の手当てに、奔走しておられるそうです」
操られて、毒を盛った令嬢。けれど、いまは、自分の村の民を、その身を盾にして、守っている。
私は、胸が、熱くなった。あの人は、もう、立派に、生き直している。
「どうか、無事で」
私は、北の空に、祈った。届け、と。私の加護の、ありったけを込めて。
◇◇◇
そして、その日の夕暮れ。
王宮の医務の間に、最初の負傷兵が、運ばれてきた。
まだ、若い兵だった。肩を、深く、斬られている。血の匂いが、つんと、鼻をついた。
母さんと、エルフの薬師たちが、てきぱきと、傷を、洗い、薬を、塗る。私は、その傍らに膝をついて、震える兵の手を、握った。
「だいじょうぶ。あなたは、助かる」
私が、傷に、そっと、手をかざすと、淡い光が、滲んだ。兵の、苦悶の表情が、わずかに、やわらいでいく。
戦は、始まったばかりだった。
これから、もっと、たくさんの、傷ついた人が、ここへ、運ばれてくる。それを、私は、ひとりも、死なせたくなかった。
ノエルが、北で、剣をふるうように。
私は、この後方で、命を、つなぎとめる。
それが、私の、戦場だった。
窓の外、北の空は、戦塵のせいか、夕陽が、いつもより、赤く、燃えていた。




