第1話 森で死にかけてた男の子を、看病することになりました
その男の子を見つけたのは、六歳の春だった。
森の奥で、死にかけていた。
夜みたいに黒い髪をした、お人形みたいに綺麗な男の子だった。
その日、私はひとりで森に来ていた。お母さんに頼まれて、エルダーフラワーを摘みにきたのだ。
森のはじっこは、もう何度も来ている場所だった。だからちょっとだけ得意になって、いつもより少し奥まで足を伸ばした。
奥へ行くほど、木が高くなる。空が、葉っぱのすきまから細く見えるだけになる。地面はやわらかい苔におおわれていて、踏むたびにふかふか沈んだ。湿った土のにおい。どこかで小鳥がちちち、と鳴いて、また静かになる。
エルダーフラワーは、白い小さなお花をレースみたいにいっぱいつける。それを探して、私はきょろきょろ歩いた。
大きな木の根元に、なにか白いものが見えた。
最初は、脱ぎ捨てたお洋服かと思った。
ちがった。
男の子だった。
私と同じくらいの背の男の子が、若葉のあいだに埋もれるみたいに、ぐったり倒れていた。
汗で額にはりついた、黒い髪。雪みたいに白い顔。閉じたまぶたの睫毛が、私のよりずっと長い。眠っているだけみたいなのに、なんだか、こわいくらい静かだった。
そして、胸が、動いていなかった。
「だ、大丈夫……っ」
私は薬草籠を放り出して、駆け寄った。
膝をついて、おそるおそる頬に触れる。
ひやっとした。氷を当てたみたいだった。
白いお洋服。襟元には、きらきらした糸でお花の模様が縫ってある。細い指に、光る指輪。村のだれも、こんなお洋服は着ていない。
(村の子じゃ、ない)
それくらいは、私にもわかった。
うちの村から少し離れた森の奥に、古い離宮がある。ローゼンタール離宮。みんなは呪われた館と呼んで、こわがって近づかない。どこかの偉いお家の人が、ひっそり療養しているとか、いないとか。本当のことは、だれも知らなかった。
「ねえ、しっかりして」
両手で、その子のつめたい頬をそっと挟んだ。
「う……」
か細い声が、唇のあいだから漏れた。
息を、している。
睫毛がぴくりと震えて、ゆっくり、まぶたが持ち上がった。
青かった。
ただの青じゃない。夜空に星屑をひとつかみ、ぱっと撒いたみたいな、深い蒼。こんな色の目を、私は生まれて初めて見た。
きれい、と思った。
でも。
その目が私を映したとたん、刺すように凍りついた。
「……なんだ、お前」
掠れているのに、刃みたいに尖った声だった。
「あっちへ行け」
頬を挟んでいた私の手を、その子はぱっと払いのけた。氷みたいな指。なのに、その指先は小刻みに震えていた。
「ぼくに、近づくな」
ふい、と顔を背ける。
「ぼくの呪いが、お前にも移る」
ああ。
なんとなく、わかってしまった。
この子はこわがっているんだ。自分のせいで、だれかが傷つくのを。だからわざと突き放して、追い払おうとしている。
大人みたいな目をしている。でも、その目の奥は、すごく寂しそうだった。
「移ったって、いいよ」
私はにっこり笑った。
「……えっ」
その子の目が、信じられない、というふうに見開かれた。
「だって、あなた、こんなに寒そうだもん」
「……」
「私の体温、ちょっとだけ、貸してあげる」
そう言って、その凍えた手をもう一度、両手で包んだ。
びくっ、と、その子の体が震えた。
「……放せ」
「やだ」
「お前、頭、おかしいんじゃないか」
声が震え始めていた。
「ぼくに触れたら、移るんだぞ」
「移ってもいいって、言ってるじゃん」
「……本当に移ったら、どうする」
私は、ちょっとだけ考えた。それから、また笑った。
「じゃあ、二人で頑張る」
「……は?」
「二人で、呪いを治す」
青い目が、大きく揺れた。
「お前、本気で言ってるのか」
「本気だよ」
「聖女でも、なんでもないくせに」
「うん。ただのリリィだよ」
その子は、しばらく私をじっと見つめていた。
なにかを探すみたいに。それとも、信じていいのか迷うみたいに。
そして、また横を向いてしまった。
「……勝手にしろ」
その声は、さっきより少しだけやわらかかった。
「うん、勝手にする」
「本当に、変わった奴だな」
「えへへ」
「笑い事じゃ、ない」
そう言いかけて、その子はけほっ、と咳き込んだ。胸を押さえて、肩で苦しそうに息をする。
白い顔から、もっと血の気が引いていく。
私の笑顔が、すうっと引いた。
「だ、誰か呼んでくるね」
立ち上がる。
「……来なくて、いい」
「来るもん」
放り出した薬草籠もそのままに、私は森の入口へ向かって駆け出した。
◇◇◇
木の根っこにつまずきそうになりながら、森を駆け抜けた。
その日は、運がよかった。
ちょうど、お兄ちゃんが家にいたのだ。
お兄ちゃん。エリック兄は、隣町の学校に通っていて、いつもは家にいない。でも今日はたまたま学校がお休みで、家にいてくれた。お父さんは朝から薬草採りで、隣の村まで出かけている。だから家にいる大人は、お母さんとお兄ちゃんだけだった。
「お兄ちゃん!」
家の前で薪を割っていたお兄ちゃんに、私は飛びついた。息が切れて、声がうまく出ない。
「森に、男の子が倒れてるの」
「リリィ、どうした、落ち着け」
「すっごく冷たい男の子で……でも、もう、私のお友達なの」
「……お友達?」
お兄ちゃんは、ちょっと目をまるくした。
それでも、なにも聞かずに斧を置いてくれた。途中で私の薬草籠を肩に担いで、もう片方の手で私の手をしっかり握って、森へ駆け込んでくれる。
お兄ちゃんの手は、お父さんほどじゃないけど、大きくてあったかかった。
◇◇◇
倒れている男の子をひと目見て、お兄ちゃんは、その白いお洋服と指輪から、すぐに気づいたみたいだった。
「これは……館の坊ちゃま、じゃないか」
「館の?」
「ローゼンタール離宮の、な」
お兄ちゃんは、ごくり、と喉を鳴らした。一瞬だけ迷うみたいに男の子を見下ろして、それから覚悟を決めたみたいに、そっと抱き上げた。
「リリィ。館の門まで運ぶ。ついておいで」
抱きかかえられた男の子が、私を横目で睨んだ。
「……勝手なことをするな」
「だって、お兄ちゃんに任せれば、安心だもん」
「頼んでない」
「こういう時はね、ありがとう、って言うんだよ」
「……誰が、礼なんか」
ぷい、と背けた横顔は、それでも、お兄ちゃんの腕の中で、ちょっとだけ力を抜いたみたいに見えた。
◇◇◇
ローゼンタール離宮の、鉄の門の前。
呼び鈴を鳴らすより早く、門の奥から、白髪のおじいさんが転がるように駆け出してきた。
「ノエル様ぁぁぁ!」
お兄ちゃんに抱かれた男の子を見て、おじいさんはその場にくずおれそうになった。皺だらけの頬を、ぼろぼろと涙が伝っていく。
ノエル。
それが、この子の名前らしかった。
おじいさんは震える手で男の子を受け取ろうとして、力が足りなくて、結局お兄ちゃんがそのまま館の中まで運ぶことになった。私も、こわごわ門をくぐった。
呪われた館。
近くで見ると、つたの絡んだ古い石の壁は、思っていたよりずっと大きくて、しんとしていた。
◇◇◇
ノエル様は、館の奥の寝室に運び込まれた。
豪華な天蓋のついた、大きなベッド。レースのカーテン。燭台の、やわらかな灯り。立派なお部屋なのに、どこか、ひんやりしたにおいがした。お薬の、苦いにおい。
すぐにお医者さまが呼ばれた。お兄ちゃんは「手伝ってきます」と言って、おじいさんと一緒に部屋を出ていった。
私は、ベッドの脇にぽつんと立っていた。
ノエル様は目を閉じたまま、こっちを見ようとしない。
「……まだ、いたのか」
低い声で、ぽつりと言った。
「うん、いるよ」
「もう、帰れ」
「やだ」
「お前みたいな奴、初めて見た」
「えへへ」
「何が、えへへ、だ」
そう言って、ノエル様はまぶたをきつく閉じた。
その時。
私は、見てしまった。
固く閉じたノエル様の目尻に、ほんの少しだけ、滲んでいるもの。灯りを弾いて、きらりと光る、小さなしずく。
(……もしかして、嬉しいの?)
そう思ったら、私の手が勝手に動いた。ベッドに歩み寄って、ノエル様の両手をもう一度、両手で握る。
「ノエル様」
「……誰が、その呼び方を許した」
「明日も、また来るね」
「知るか」
「明日また会えるの、楽しみだなあ」
「お前、本当に、おかしな奴だな」
それきり、ノエル様はなにも言わなくなった。ただ、青い目を固く閉じて、こっちを見ようとしなかった。
握った手は、まだ冷えきっていた。でも、振りほどかれはしなかった。
◇◇◇
しばらくして、扉がそっと開いて、白髭のおじいさんと、お医者さまが戻ってきた。
おじいさんは、私の前まで来ると、深く頭を下げた。
「リリィ様。わたくしは、セバスチャンと申します。坊ちゃまにお仕えする、執事でございます」
「あ、はい」
「リリィ様。あの……明日も、本当にいらしてくださいますか」
すがるような声だった。
「うん。約束したから」
セバスチャン様の目に、また涙がにじんだ。
「坊ちゃまが、こんなにも人とお話しになったのは……わたくしがお仕えして、初めてのことでございます」
私は、ベッドの上のノエル様の横顔を見つめた。
目を閉じたまま、素直じゃなくて、口を開けばきついことばかり言う男の子。
でも、本当は、寂しい男の子。
「ノエル様、また明日」
「……ふん」
その声は、もう、私を追い払うほどには尖っていなかった。
◇◇◇
その日の夜。
家に帰った私は、お母さんとお父さんに、森であったことをぜんぶ話した。
呪われた館の男の子のこと。氷みたいに冷たい指のこと。二人で呪いを治す、って約束したこと。
お母さんは、しばらく黙って聞いていた。それから、繕い物をことりと置いて、私の頭をそっと撫でた。
「リリィが、そう決めたのなら」
そう言って、棚からいろんな薬草を取り出して、机に並べはじめる。乾いた葉っぱの、青くてちょっと苦いにおいが、ふわっと立った。
「明日のお薬、いっしょに作りましょう。いちばんよく効くやつを」
「いいの!? あの、呪われた館なのに」
「ふふ」
お母さんは、薬草を選ぶ手を止めないで笑った。
「お母さんは薬師だもの。苦しんでる子がいるなら、手を貸すのが当たり前でしょう」
隣で、お父さんもうん、と頷いた。森から帰ってきたばかりのお父さんの服からは、土と緑のにおいがする。
「無理だけは、するなよ」
お父さんはそれだけ言って、私の頭に大きな手をのせた。ごつごつして、あったかい手だった。
呪われた館に行く、って言ったのに、だれもだめって言わなかった。みんな心配しながら、それでも、私の手をぽんと押してくれる。
それがどんなにすごいことだったか、ちゃんとわかるのは、もっとずっと、あとのことだ。
こうして、私がローゼンタール離宮へ薬草を運ぶ毎日が始まった。
こっそり、なんかじゃない。家族みんなに、堂々と送り出されて。
リリィ・ホーニング、六歳の春。
呪われた男の子のもとへ、薬草を運ぶ日々の、はじまりだった。




