30
その30
玲子の実家は××市内のかなり老朽化した五階建ての団地の四階にあって、その部屋の玄関のドアに、
「ラーメン」
「ミルクコーヒー」
「定食」
「おにぎり」
「チャーハン」
「おみやげ」
と切り文字が貼ってあったので、おそらくそこが店でもあった。
部屋の中は一部屋がだいたいどれも六畳くらいのごく普通の二DKで、いわゆるDのところが仕事場というか調理場のようになっていた。
二間ある部屋はどちらも畳敷きで、小型テレビがあるほうの六畳が、おそらくメニューとか醤油とかつま楊枝などが炬燵テーブルの上に用意されてあったので、たぶんお客さんが食べたり飲んだりするところだった。
もういっぽうの和室には布団や毛布などがきちんと畳んで積み上げられていた。
「お父さん、ただいま帰りました」
「おかえり。ごくろうさん」
玲子のお父さんはそうこたえると、いま取り組んでいるキャベツの千切りにまた視線をもどした。
「たくみさん。とりあえず店の座敷のほうに、すわっててください。いま、母特製のミルクコーヒーをお出ししますから」
「ありがとう。でも、ミルクコーヒーだなんて、そんな気をつかわないでもいいよ」
「とんでもない。だって、わたしの大事な人ですもの」
店の座敷には小型テレビの他に小さめの本棚や小学校の入学祝いに買ったようなイトーキの学習デスクなどがあった。
本棚にはラーメン屋さんならたいていどこでもそうだが、案の定雑誌類や漫画本などが無造作に置かれてあって、そのなかのカバーのない文庫本をおもむろに手に取ると、ひもが付いているその文庫はフランツ・カフカの『城』ということになっていた。
「はい、ミルクコーヒーですね」
玲子のお母さんらしき人は炬燵の上にミルクコーヒーをコトンと置きながらそう言うと、伝票のようなものを静かに炬燵のすみに置いて下がっていった。
その伝票を見てみると、
「ミルクコーヒー、二百五十円」
と記されていた。
それでぼくは、
「あれ?」
と首をかしげたりもしたのだけれど、
「まあいいや」
と思って、そのまま何も言わずミルクコーヒーをてきとうに飲んだりしていたのだが、いま下がっていったお母さんは、しばらくすると、予想どおりまたあわてて出てきて、
「ごめんなさい。てっきりお客さんだと思ったものですから」
と言うと、伝票をひっつかんでクシャクシャにした。
「本当に失礼いたしました。いま玲子から聞きました。わたくしは玲子の母です」
「あっ、お母さん、はじめまして。沢倉たくみです。すいません、急におじゃまして」
「いえいえ、どうぞ、ゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。あのう、お母さん――ぼくは、その、玲子さんと……」
ぼくがそう言いかけたとき、ドアがガチャンと開いて、くたくたの背広という身なりの自称測量士が部屋の中に入ってきた。
「いらっしゃいませぇ」
ぼくの前にすわっていたお母さんはあわてて立ち上がると、測量士はもう雑誌を物色しながら、
「ペーピーチャーハンとミルクコーヒー」
とメニューも見ずにすぐお母さんに食べるものを注文した。
測量士がたのんだペーピーチャーハンとミルクコーヒーが出来上がってきて、測量士がそれを雑誌を熟読しながら食べだすと、またひとりお客さんが店に入ってきて、お母さんにえびチリ定食とミルクコーヒーを注文し、やがて最初のペーピーチャーハンとミルクコーヒーの測量士が、
「ごっそうさん。お勘定」
と出ていくと、今度はクリーニング屋の看板娘ふうのお嬢さんが入ってきて塩ラーメンと半ライスとミルクコーヒーをメニューを二分くらい見てからめちゃくちゃ小さい声で頼み、そうこうしていると、えびチリのお客様は天むすを三個テイクアウトしたのちに、つま楊枝で〝シーシー〟を決めつつ出ていった。




