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その23
「じゃあ、おしえてあげますよ」
三原さんにそう言われたので、ぼくはまたしびれ湯に入った。
「どうですか?」
「やっぱり、ちょっと、しびれてきているようですね」
しょぼくれ気味にそう言うと、三原さんはぼくの気持ちを察したのか、少しはげましてくれるような感じで、
「わたしでも、やっぱりしびれますよ」
と言ってくれた。
「でもね、沢倉さん。しびれ湯は、しびれてから、試合がはじまると言っても過言ではないのです。つまり、はじめは……わたしなども当初はそうでしたけれども、ちょっとでもしびれてはいけないと、どうしても窮屈に考えてしまうのですね。ですがある日、そうではない、ということに気がついたのです。つまり、なんというか、しびれの攻撃をまずお客さんにひと通り見せてあげる、ということなのですけれども、そうする事によって、つまり、ひと通り見せてあげるということは、しびれたちにまずは花をもたせてあげる、ということですから、連中も持っている技を全部出しつくせば、逆にわたしのその包容力というか、一種のやさしさにハッと気がつくのです。
そうなると、しびれ感は試合開始当初よりは弱まり、なんというか、ある程度受け入れられるようになってきます。しかしそれは、しびれがない、ということではありません。おそらく相手のスタミナがたしょう落ちてきた、ということだと思うのです。ですから、そこでぜったいに安心してはいけなくて、つねにしびれにたいする防御策を、見ているお客さんを興醒めさせないように注意しつつ、とらなければならないのです。しかしそこまで行けば、もう何もこわいものはないと言っても良いのです。そういう意味で言えば、わたしはもう完全に、プロフェッショナルだといえるのかもしれません」
「でも、防御策というのは、どのようにしてとればいいのか……」
「それは、このようにすれば良いのです」
三原さんはしびれ湯の中で、自分自身のからだぜんたいを、手でさすった。
「このようにすると、しびれ感が弱くなります――どうですか?」
「ああ、そうですね。たしかに、しびれが弱くなりますし、さすったあと微かに残るからだのしびれは、ちょっとしたマッサージ効果のようなものがあるみたいで、心地よいくらいです」
「わたしも当初、しびれを克服できないということで、たしょう落ち込んだ時期がありました。そしてわたしは自分はもう何もできないだろう、今後何も生みだすことはできないだろうというふうに自分自身を考えるようになったのです。そしてわたしはエゴというものがすっかりなくなり、お買い物でも店員にあやまったりなどしながら、おこなっていました。ですがわたしはある日、これを発見したのです。ん? いいえ、ちがいます。何か、きっかけがあったのではなく、思いがけず、ふとみつけたのです。でもなんでも本当は、そういうことなのかもしれませんね。それからわたしは、さすりの研究をはじめました。そして日に日にその精度は向上していきました。わたしはすっかり自信を取り戻し、『わたしは、だいじょうぶなのだ! すべてOKなのだ!』となり、お買い物などでも、いちいち謝罪せずにリラックスして堂々と買いたいものを選び、欲しいものを手に入れていくようになったのです。それから、さらに自信を深めていって、エゴもたしょうは持つようになり、誰かが歩いていれば『おはようございます』と言い、その誰かが人ちがいか、あるいは最初から面識のない人で、変な顔というか、誰なんだろう? という表情をしていれば、それは相手の人生観だとか生い立ちだとか、そういうことの積み重ねの結果ですから、わたしの問題ではない、と捉えるようになったのです。
つまりわたしには『おはようございます』と発言することが重要なのであって、かれらに『あっ、おはようございます』とこたえてもらうというのは、もちろんそのほうがより良いのですが……二の次というか、べつにたいしたことではないのです。
ところで沢倉さんは、サウナのほうはどうですか?」
「ぼくはサウナは、かなりのものですよ」
「そうですか。それではサウナに入りましょう」




