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第20話 触れても壊れないもの

第20話 触れても壊れないもの


 分散式結界の完成式典を翌日に控えた研究所では、夜が明けても工具の音が止まらなかった。窓の外には洗ったばかりの作業着が何枚も干され、朝の風を受けた灰色の袖が、誰かを呼ぶように揺れている。長机には図面、ねじ、食べかけの黒パンが混ざって置かれ、冷めた豆のスープには薄い膜が張っていた。エルザは紺色の作業着の袖を肘までまくり、十二の中継塔から届いた最終報告書を一枚ずつ確認していた。


「東門塔の予備回路、交換完了。北水路塔の防湿処理も終わっています。残るのは旧鐘楼の鳩よけだけね」


 ノーラは椅子の背もたれへ上着を掛け、蜂蜜を塗ったパンをかじりながら報告した。東門塔の事故で負った手の火傷は治り、今は包帯の代わりに赤い革の手袋を着けている。その手袋は少し派手だったが、本人は「地味な工具ほど見失うから、身につけるものくらい目立つほうがいい」と言って譲らなかった。エルザは彼女の口元についたパンくずを見てから、報告書の時刻欄を指でたたいた。


「旧鐘楼の確認は昨日の夕方までだったはずです」


「担当者が、鳩の親子を追い出すのはかわいそうだと言い始めたのよ。巣箱を作って、塔の外壁へ移すことになったわ」


「結界の完成式典より鳩の引っ越しを優先したのですか」


「あなたが事故の日に、卵を落として夕食にするなと言ったんでしょう」


「言いましたけれど、まさか専用の巣箱まで作るとは思いませんでした」


 ノーラが窓の外を指すと、旧鐘楼の担当者が木製の巣箱を抱えて研究所の庭を横切っていた。頭には鳩の羽が一本つき、腰には金槌と昼食用のソーセージが同じ紐でぶら下がっている。完成式典の日程を三度も忘れた男だったが、回路の異常音を聞き分ける能力は誰よりも優れていた。エルザは机の端に積まれた十二人分の点検帳を見て、以前なら一人で全部を確かめなければ眠れなかっただろうと考えた。


「エルザ技師長、鳩の移動が終わりました! 卵も二個とも無事です!」


「回路は確認しましたか」


「もちろんです。鳩より先に確認しました」


「いまの言い方では信用できません。点検表を提出してください」


「完成式典が終わったらでいいですか。巣箱の屋根に色を塗りたいんです」


「先に点検表です。色塗りは昼休みにしてください」


 研究所のあちこちから笑い声が上がった。壁際では若い技師が予備部品を木箱へ詰め、別の技師は交換手順を大きな文字で札へ書いている。文字を読むのが苦手な者のため、図だけで分かる手順書も用意されていた。材料棚には銅線、鉄板、陶器の絶縁筒、普通の魔石が並び、どれも王国内の市場や工房で手に入るものばかりだった。


「本当に、聖獣の糸は一本も使わないのですね」


 見学に来ていた新人技師が、材料表を何度も裏返しながら尋ねた。彼女は仕立て直した姉のお下がりらしい青い服を着ており、右の袖だけが少し短い。昼食を包んだ布からは、焼いたチーズと香草の匂いが漏れていた。エルザは材料棚から銅線を一本取り、新人技師の掌へ載せた。


「使いません。特別な材料は、優れた性能を持つ代わりに、手に入らなくなれば修復できません。この結界は、この銅線と同じものを用意できれば、どの地域でも直せます」


「でも、普通の素材では壊れやすいのではありませんか」


「一つ一つは壊れます。だから予備を作り、交換方法を伝えます。壊れない部品を探すのではなく、壊れたときに直せる仕組みにしたのです」


「私にも交換できますか」


「手順を覚えればできます。午後から一緒に練習しましょう」


 新人技師は銅線を両手で持ち、まるで高価な宝石を渡されたように目を見開いた。エルザはその姿を見ながら、世界でただ一人、自分だけが扱えた純白のドレスを思い出した。聖獣の糸で織られた布は、汚れを寄せつけず、魔力を通し、どんな宝石より強く輝いた。しかし、マリアが鋏を入れたあと、その布を元どおりに縫い合わせられる者はどこにもいなかった。


「技師長、顔が怖くなっていますよ。昼食を抜いたからではありませんか」


「考え事をしていただけです」


「では、考えながら食べてください。私の母が焼いたチーズパンです」


「あなたの昼食でしょう」


「三つあります。母は私が研究所で飢えていると思っていますから」


「飢えてはいません。食堂もあります」


「その食堂へ行くのを忘れる人が技師長でしょう?」


 差し出されたチーズパンはまだ少し温かく、割ると柔らかな湯気が立った。焦げたチーズの塩気と香草の匂いが広がり、徹夜明けの技師たちが一斉に振り向く。エルザは一人で食べるのをやめ、パンを小さく切って皿へ並べた。十人以上で分けると一口ずつにしかならなかったが、誰も文句を言わず、その代わりにノーラが隠していた蜂蜜菓子まで取り上げられた。


「それは式典のあとに食べようと思っていたのに!」


「食べ物は独占しないほうがよいと、技師長から習いました」


「私は技術の話をしたのです」


「食べ物にも応用できる立派な考え方です」


「では、次から私の豆のスープも分けてあげます」


「それは結構です」


 翌朝、王都中央広場には十二の地域から住民が集まった。以前の公開実験で壊れた石畳は新しく敷き直され、噴水の周囲には白と黄色の花が植えられている。屋台では焼き栗、肉入りの薄焼きパン、蜂蜜をかけた揚げ菓子が売られ、炭火と香辛料の匂いが冷たい朝の空気に混ざっていた。事故の日に栗を散らした老婆も店を出し、今日は籠を台へ太い紐で結びつけていた。


「もう二度と、栗を全部転がしたくないからね。あの日は殿下が拾ってくれたけれど、半分は兵士に踏まれたんだよ」


「補償金は届きましたか」


「届いたよ。それで新しい焼き鍋も買えた。あんたにも一袋あげよう」


「代金を払います」


「王都を守った人から金なんか取れるかい」


「では、今日の最初の客として買わせてください。そのほうが一日よく売れると、市場では言うのでしょう?」


「ずいぶん商売人らしいことを言うようになったね。では半額にしておくよ」


 エルザは焼き栗の袋を受け取り、緑色の式典服のポケットへ入れた。今日は作業着ではなく、研究所の仲間たちが用意してくれた服を着ている。上着の襟には十二本の細い銀糸で小さな輪が刺繍され、裾には工具を入れられる大きなポケットが二つついていた。ノーラは礼装に工具用のポケットは必要ないと反対したが、エルザが落ち着かないと言ったため、最後には自分で縫いつけてくれた。


「その服、きれいね。白くないのはわざと?」


 隣に立ったセシリアが尋ねた。彼女は保護院での治療を続けており、今日は包帯の上から柔らかな水色のドレスを着ている。髪には豪華な宝石ではなく、保護院の庭で摘んだ小さな黄色い花を一本だけ挿していた。エルザは自分の袖を撫で、縫い目の下に指を滑らせた。


「白い服を嫌いになったわけではありません。ただ、この服なら汚れても洗えますし、破れたら同じ布で繕えます」


「私のドレスも、保護院の人たちが縫ってくれたの。背中に大きな火傷があるから、市販の服では擦れてしまうのよ」


「着心地はどうですか」


「とても楽だわ。でも、右の袖が少し長いの」


「あとで直しましょう」


「あなたが縫うの?」


「ノーラに頼みます。私の縫い目は評判が悪いので」


 式典が始まると、十二人の管理技師がそれぞれの中継塔から通信石を通じて応答した。各塔の鍵は地域の管理所、住民代表、技術者の三者が分けて保管している。王宮が単独で起動することも、エルザ一人が勝手に設定を書き換えることもできない。一つの塔が故障した場合は、残る十一の塔が負荷を引き受け、その間に地域の技師が普通の材料で修理できるようになっていた。


「東門地域、準備完了です」


「北水路地域、異常ありません」


「旧鐘楼地域、鳩が一羽、起動板に乗っています」


「またですか。追い払ってください」


「もう名前をつけてしまったので、少し待ってください。パンくずで誘導します」


「結界より鳩が大事なの?」


「ノーラさん、急がせると鳩が驚きます」


「分かったわよ。三十秒だけ待ちます」


 広場の人々から笑いが起きた。以前の式典では、グランツ公爵が誰にも口を挟ませず、セシリア一人へすべての視線を集めていた。今は十二の塔から技師たちの声が届き、誰かが工具を落とし、誰かが確認番号を言い間違え、そのたびに別の誰かが訂正している。完璧に見せるための式典ではなく、実際に多くの人が動かしていることを見せる式典だった。


「旧鐘楼、鳩の移動が終わりました。起動できます」


「全地域、最終確認を始めます。異常がある場合は、遠慮せず停止を申し出てください」


「工房街地域、質問です。式典後の食事は魚の揚げ物で間違いありませんか」


「それは最終確認ではありません」


「重要な確認です。去年貸した菜種油の代金代わりですから」


「魚の揚げ物で間違いありません。今度こそ回路を確認してください」


 十二人の確認が終わると、エルザは起動盤へ手を置いた。以前なら、自分の手から離れた技術が勝手に書き換えられ、また壊されるのではないかと考えただろう。だが、今は十二の地域に同じ図面があり、技術者だけでなく住民代表も仕組みを知っている。一人が知識を独占しようとしても、残る者たちが間違いを見つけられる。


「分散式結界を起動します」


 エルザの合図に合わせ、十二の中継塔が一つずつ淡い光を放った。光は屋根の上を走り、城壁を越え、王都全体を大きな網目で包んだ。強い風も爆音も起こらず、広場にいた者たちの髪を温かな空気がそっと動かした。噴水の水滴が光を受けて小さな虹を作り、焼き栗の香ばしい匂いが人々の間を流れていった。


「起動状態、安定しています」


「各地域の負荷は?」


「すべて規定値以内です。一つの塔を停止する試験へ移ります」


「完成式典で、本当に一つ消すのか?」


「消しても大丈夫だと証明するための結界です。動かすところだけ見せても意味がありません」


 アルベールの問いへ答えたあと、エルザは東門塔の停止を指示した。一本の光が消えると、周囲の網目がゆっくりと形を変え、残り十一の塔へつながった。王都を覆う結界には穴一つ開かず、広場の計測器も正常な値を示している。続いて東門塔の若い技師が予備回路へ交換し、数分後には十二本目の光が再びともった。


「直ったのか?」


「はい。交換したのは、技術院へ入って半年の技師です」


「半年で結界の塔を直せるのか」


「正しい手順を学び、分からないところを質問できれば直せます。特別な才能より、その二つのほうが大切です」


「では、私は質問することから始めなければならないな」


「殿下は説明を聞かずに結論を出す癖がありますから、時間がかかるでしょう」


「今日くらいは褒めてもよいのではないか?」


「住民の避難誘導は見事でした。魚の匂いは三日ほど取れませんでしたけれど」


 正式な完成が宣言されると、広場から大きな拍手が上がった。エルザ一人ではなく、十二の地域の技師、修理に協力した職人、避難した住民、被害を調べた監査官の名前が順番に読み上げられた。栗売りの老婆は自分の地区の技師が呼ばれると、誰よりも大きな声を出し、隣の客へ無料で栗を配り始めた。ノーラはそれを見て「商売になっていない」と言いながら、自分もちゃっかり二袋受け取っていた。


「エルザ、式典の食事が始まる前に、少し付き合ってくれないか」


 アルベールは王太子の正装である白い上着を着ていたが、首元の飾り紐が少し曲がっていた。今朝、侍従に三度直されたのに、住民と話しているうちにまたずれたらしい。エルザは手を伸ばしかけたものの、途中で止め、自分で直すよう指で示した。アルベールは不満そうにしながらも、窓ガラスを鏡代わりにして飾り紐を結び直した。


「どこへ行くのですか。魚の揚げ物がなくなってしまいます」


「工房街の料理人には、君の分を取っておくよう頼んだ。焼いた芋と玉ネギのスープもあるそうだ」


「用意がよいですね」


「君に何かを頼むときは、先に食事を確保すべきだとノーラから教わった」


「彼女は私を何だと思っているのでしょう」


「食事を忘れる技師長だと言っていた」


 アルベールが連れていったのは、研究所の屋上だった。階段の途中には交換用の陶器管が積まれ、踊り場の窓辺では誰かが洗った布巾を干している。屋上へ続く扉は少し錆びつき、二人で肩を押しつけなければ開かなかった。外へ出ると午後の風が頬を撫で、遠くから式典の音楽と食器の触れ合う音が聞こえてきた。


「王太子なら、扉くらい修理させてください」


「昨日までは普通に開いたのだ」


「そう言って点検を先延ばしにすると、いつか閉じ込められます」


「分かった。明日の修理帳へ書いておく」


「今日書いてください。明日では忘れます」


「君は私への審査を、もう始めているのか?」


 屋上からは王都全体が見渡せた。赤や灰色の屋根の向こうに十二の中継塔が立ち、それぞれが同じ強さの光を放っている。洗濯物を取り込む女性、屋台の皿を運ぶ子ども、荷車の車輪へ油を差す男の姿が小さく見えた。結界の下でも人々はいつもどおりの暮らしを続け、空を見上げてばかりいる者はいなかった。


「今度の結界には、誰でも触れられるのだな」


「はい。正確には、手順を学んだ人なら誰でも触れられます。壊そうとする者がいても、ほかの誰かが間違いに気づき、直せます」


「王宮が管理権限を持たなくてよいのかと、最後まで反対する者もいた」


「王宮が正しいとは限りません。技術者も、私も同じです。一人だけが正しいと決めたとき、グランツの装置と同じことが起こります」


「君自身の技術なのに、惜しくはないのか?」


「以前は、渡せば奪われると思っていました。でも、誰にも渡さなければ、私がいなくなったときに消えてしまいます」


 エルザは屋上の手すりへ触れた。冷たい鉄の感触が掌へ伝わり、下の厨房から揚げた魚と焼いた玉ネギの匂いが上ってくる。あの純白のドレスは、エルザにしか扱えない最高傑作だった。その特別さを誇らしく思っていたからこそ、切り刻まれたとき、失われたものを誰にも直せなかった。


「ドレスを作った頃の私は、誰にも真似できないものを作れば、自分の価値を証明できると思っていました」


「実際、誰にも真似できないものだった」


「だから壊れたままになりました。私が直せなかったから、ほかの誰にも直せなかったのです」


「今度の結界は違うのだな」


「はい。私がいなくても直せます。それが完成の条件でした」


 アルベールは手すりから離れ、エルザの前へ立った。式典用の白い手袋を外し、ポケットへ丁寧にしまう。右の掌には、事故の日に荷車を押したときにできた傷が、まだ細い線となって残っていた。王太子として命令するのではなく、返事を待つ者の顔で、彼は何も持たない手を差し出した。


「では、君の隣に立つ権利も、独占ではなく信頼によって得たい」


「それは求婚ですか?」


「そのつもりだ。ただし、王太子という立場を使って返事を求めるつもりはない」


「研究所への予算を増やすという条件をつけても?」


「それは国の仕事として審査する。君の返事と取引はしない」


「少しは融通を利かせてもよいのではありませんか」


「そこで予算を餌にしたら、私はグランツと同じになるだろう」


 エルザは差し出された手を見つめた。以前の彼なら、守ると言いながらエルザの仕事を取り上げ、自分のそばへ置こうとしたかもしれない。しかし今の彼は、彼女の返事を急かさず、手を引くことも、無理につかむこともしなかった。風に乱れた白い上着の裾だけが、何度も彼の脚へ当たっていた。


「長い審査になりますよ」


「国を守る結界より難しいのか?」


「もちろんです。まず、話を最後まで聞くこと。次に、できない約束をしないこと。それから、私が作業中に勝手に工具を片づけないこと」


「三つ目は難しいな。君の机は、どこに何があるのか分からない」


「私は分かっています」


「昨日、二時間も探していたねじは?」


「ポケットに入っていました」


「それでも私に片づけるなと?」


「はい。触る前に尋ねてください」


「分かった。長い審査を受けよう」


 エルザはもう一度その手を見てから、自分の手をゆっくり重ねた。アルベールの掌は少し硬く、風に冷えていたが、指先には確かな温度があった。彼は強く握り締めず、エルザがいつでも離せる程度の力で手を包んだ。それが妙に彼らしくなくて、エルザの口元が先に緩んだ。


「ずいぶん慎重に握るのですね」


「壊してはいけないと思っている」


「私はドレスでも結界でもありません。そんなに簡単には壊れませんよ」


「では、もう少し強くしてもよいか?」


「それを毎回尋ねるつもりですか?」


「審査中だからな」


 二人は初めて、同じ景色を見ながら声を上げて笑った。王都の向こうでは、十二の光が誰か一人を目立たせることなく、同じ高さで結界を支えている。眼下の広場からノーラの声が聞こえ、魚の揚げ物が冷めると何度も叫んでいた。エルザはアルベールの手を離さないまま、屋上の扉へ向かった。


「急ぎましょう。食事がなくなります」


「君の分は取ってあると言っただろう」


「ノーラが二皿食べるかもしれません」


「それは国家の危機なのか?」


「私にとっては重大です」


「では、王太子として全力で対処しよう」


 扉を開ける前に、エルザはもう一度だけ王都を振り返った。誰にも触れさせないことで守ろうとすれば、守る者が倒れた瞬間に、すべてが終わってしまう。信頼できる者へ知識を渡し、間違いを見つけ合い、壊されたときには何度でも直す。その仕組みを人々が受け継いでいけるなら、作った者の名前が忘れられても、暮らしは残り続ける。


 純白のドレスは、世界に一つしかないために失われた。新しい結界は、どこにでもある材料と、多くの人へ伝えられた知識によって、これから何度でも作り直される。そしてエルザ自身も、誰にも触れさせずに守るものではなかった。互いに尋ね、答えを待ち、離れたときにはもう一度手を差し出せる関係を選ぶことが、エルザの完成させた本当の結界だった。



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