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第11話 辺境へ送られた母娘

第11話 辺境へ送られた母娘


 北方の開拓村へ着いた日の朝、マリアは馬車から降りたまま、泥の混じった街道の上で動けなくなった。目の前にあるのは、灰色の石壁と黒ずんだ板屋根で造られた小さな家だった。伯爵邸の玄関広間よりも狭く、窓は二つしかなく、煙突の先には古い鳥の巣が残っている。


「ここが、私たちの家ですって?」


 マリアは葡萄酒色のドレスの裾を持ち上げ、濡れた土を踏まないように爪先立ちになった。そのドレスは伯爵家から持ち出すことを許された数少ない私物だったが、長旅の間に袖口が擦れ、胸元を飾っていた小さな真珠も二つ取れている。村を囲む畑からは湿った土と家畜の糞の匂いが流れてきて、香油を多めにつけたマリアは何度も鼻元をハンカチで覆った。


「通達に書かれていた家と同じです。北側に井戸があり、裏には薪小屋もあります」


 護送を担当した役人は帳面を開き、家の番号を指で確かめた。彼の外套には朝露が細かな粒となってつき、革靴の踵には乾きかけた泥が厚くこびりついている。役人は昨夜から何度も同じ説明をしていたため、声に力を入れず、決められた文章を読み上げるように答えた。


「使用人はどこにいるの?」


 マリアが家の周囲を見回しても、人影はなかった。裏庭では痩せた鶏が一羽、折れた柵の隙間から首を出し、こちらを警戒するように低く鳴いている。風が吹くたびに屋根の板が軋み、遠くの森から木を切る斧の音が一定の間隔で響いた。


「使用人は配置されません。食料は月に一度、定められた量が支給されますが、炊事、洗濯、掃除はご自分でなさってください」


 役人は鍵と三枚の銅貨をマリアへ差し出した。銅貨は村の共同浴場と製粉所を利用するためのものであり、贅沢品を買える金額ではない。マリアは差し出された鍵を受け取らず、隣に立つミナへ困ったように目を向けた。


 ミナは薄い灰色の毛織りのワンピースに、焦げ茶色の外套を重ねていた。以前ならレースの少ない服を見ただけで着替えを命じていたが、辺境へ持ってこられた衣服は三着だけである。長い金髪も侍女に結ってもらえないため、首の後ろで一本に束ねており、何本もの後れ毛が風に揺れて頬へ張りついていた。


「私が受け取ります」


 ミナは役人の手から鍵と銅貨を受け取った。金属は冬を残した風に冷やされ、細い指へ食い込むような冷たさだったが、彼女は落とさないように両手で握った。役人はわずかに頭を下げると、空になった馬車へ乗り込み、振り返らないまま街道を戻っていった。


「待ちなさい。せめて荷物を家の中まで運びなさい!」


 マリアが追いかけて声を上げても、馬車は速度を落とさなかった。車輪が水たまりを通り、跳ねた泥が葡萄酒色の裾へ黒い点をいくつも作った。マリアは喉の奥で短い声を漏らし、ハンカチで泥を拭ったが、薄い布に汚れが広がっただけだった。


「お母様、先に家へ入りましょう。風に当たり続けると体が冷えます」


 ミナは小さな旅行鞄を両手で持ち、玄関まで歩いた。長い馬車の旅を終えたばかりなのに、以前のように胸を押さえて座り込むことはなく、呼吸も乱れていない。そのことにミナ自身も気づいていたが、マリアは泥のついたドレスばかりを見ていた。


 扉を開けると、冷えきった空気と乾いた埃の匂いが二人を迎えた。部屋には木のテーブル、脚の太さが違う椅子が三脚、藁を詰めた寝台が二つ置かれている。台所の棚には欠けた皿が四枚と黒ずんだ鍋が一つあり、窓辺には前の住人が置き忘れた木彫りの熊が、片耳を欠いたまま外を向いていた。


「こんな寝台では眠れないわ。敷布も洗っていないじゃないの」


 マリアは指先で敷布の端をつまみ、すぐに放した。持ち上がった埃が窓から差し込む光の中を漂い、二人は続けてくしゃみをした。伯爵邸ならベルを鳴らせば侍女が新しい寝具を持ってきたが、この家の壁にはベルを取り付ける紐さえなかった。


「外に物干し綱がありました。井戸から水をくめば、洗えると思います」


 ミナは窓を開け、敷布を一枚ずつ寝台から外した。布には古い石鹸の匂いと藁の匂いが染みついており、端には繕った跡がいくつもある。針目は不揃いだったが、捨てずに長く使おうとした前の住人の暮らしが残っているように見えた。


「あなたが洗うの?」


 マリアは、ミナの細い腕と白い指を見た。伯爵家にいた頃のミナは、湯を張った洗面器へ手を入れるだけでも侍女に袖をまくらせていた。ミナも井戸の水がどれほど冷たいのか知らなかったが、汚れた寝台で夜を過ごすよりは、自分で洗ったほうがよいと思った。


「お母様も手伝ってください。私は水をくみますから、お母様は敷布を外へ運んでください」


 ミナが当然のように頼むと、マリアは自分の聞き間違いを疑うように目を見開いた。これまで娘から何かを頼まれれば、すべて使用人へ命じて済ませてきた。ところが今は、家の中にいるのは自分たち二人だけであり、黙って待っていても誰も扉を開けなかった。


 昼を過ぎても、部屋の暖炉には火がつかなかった。薪小屋には乾いた木が積まれていたものの、マリアは斧の持ち方を知らず、細い枝を折るだけで手のひらを赤くしている。ミナは村から支給された黒パンを包丁で切ろうとしたが、硬い皮に刃が入らず、何度も押しているうちにパンが床へ転がった。


「もう嫌よ。どうして私がこんなことをしなければならないの?」


 マリアは斧を地面へ置き、赤くなった手を外套の脇へ挟んだ。朝から何も食べていないため腹が小さく鳴ったが、その音を聞かれたくないのか、わざと大きな咳をした。薪小屋の隅では蜘蛛が糸を張り、斧を落とした振動で網にかかっていた枯れ葉が揺れている。


「やらなければ、今夜も火がつきません」


 ミナは床へ落ちた黒パンを拾い、袖で埃を払った。伯爵邸なら床へ落ちたものを口へ運ぶなど考えもしなかったが、支給されたパンはこれ一つだけだった。彼女は包丁を使うのを諦め、両手で力を込めて割ると、大きいほうをマリアへ差し出した。


「こんな硬いパン、食べられないわ」


 そう言いながら、マリアはパンを受け取った。噛むたびに顎が疲れ、口の中の水分を奪われるため、井戸水を入れた木の杯を何度も傾けた。蜂蜜もバターもなかったが、朝から空だった胃へ食べ物が入ると、強張っていた肩が少し下がった。


 夕方になり、隣家に住む中年の女性が様子を見に来た。女性は厚い緑色のスカートに生成りの前掛けをつけ、腕には蕪と干し肉の入った籠を下げている。頭に巻いた布から赤毛が何本もはみ出し、彼女が扉を開けると、服に染みついた薪の煙と焼いた玉葱の匂いが冷えた室内へ入ってきた。


「煙突から煙が出ないから、死んでいるんじゃないかと思ってね。火種を持ってきたよ」


 女性は挨拶を終えるより先に暖炉の前へしゃがみ、持参した炭を灰の上へ置いた。細く割った薪を組み、乾燥させた苔へ火を移す手つきには迷いがない。ぱちぱちと木が爆ぜ、橙色の炎が立ち上がると、ミナは思わず暖炉の前へ両手を差し出した。


「あなた、誰の許可を得て入ってきたの?」


 マリアは椅子へ座ったまま、女性の泥がついた靴を見た。伯爵邸なら客は名乗り、侍従の案内を受けてから部屋へ入るものだった。ところが女性はマリアの言葉を気にせず、黒ずんだ鍋を水ですすぎ、蕪の皮を厚めにむき始めた。


「北の村じゃ、火がない家を見つけたら先に火をつけるんだよ。礼儀を守って凍え死んでも、墓を掘るのは村の者だからね」


 女性は干し肉を小さく刻み、蕪と一緒に鍋へ入れた。煮立った湯へ塩を一つまみ落とすと、白い湯気と肉の匂いが部屋へ広がった。マリアは無作法だと言い返そうとしたが、鍋を見つめたまま唇を閉じた。


「ありがとうございます。私はミナです。こちらは母のマリアです」


 ミナが頭を下げると、女性はエッダと名乗った。エッダは欠けた皿へ蕪のスープをよそい、硬い黒パンを浸して食べる方法まで教えてくれた。食卓には白い卓布も銀の食器もなかったが、温かいスープが喉を通るたびに、冷えていた指先へ感覚が戻ってきた。


「細い娘だね。病気なのかい?」


 エッダはミナの皿へ蕪を一切れ多く入れた。ミナは返事をする前に自分の胸へ手を当て、呼吸の深さを確かめた。馬車を降りてから何度も荷物を運び、冷たい井戸水で敷布まで洗ったのに、胸の奥にはいつもの重さがなかった。


「生まれた頃から、体が弱いと言われていました。でも、ここへ来てからは息が苦しくありません」


「この村は風が強いからね。冬は厳しいけれど、東の土地みたいな瘴気はないよ」


「やはり、そうだったのですね」


 ミナは木の匙を皿へ置いた。伯爵領にいた頃、朝になると胸が塞がれたように息ができず、香油の匂いだけでも吐き気を覚える日があった。ところがマリアは体に良いという高価な香を毎朝たかせ、エルザが窓を開けると、病人を冷たい風にさらしたと怒鳴っていた。


「何が、やはりなの?」


 マリアは黒パンをスープへ浸しながら、眉を寄せた。温かくなったパンは簡単にちぎれ、干し肉の塩気が染みて、先ほどより食べやすくなっている。彼女はエッダの前では二口しか食べなかったふりをしたが、話している間にも匙を動かし、皿のスープをほとんど空にしていた。


「お姉様の結界が、伯爵領の瘴気を防いでいたのです。ドレスを切り裂いたあと、私の体が急に悪くなったのは、そのためだったのでしょう」


「またエルザの話をするの? あの子が新しい結界を作ってくれれば、私たちはこんな場所へ来る必要などなかったのよ」


「違います」


 ミナの声は大きくなかったが、マリアの匙が皿の縁へ当たり、硬い音を立てた。ミナは母親の顔を見たまま、膝の上でワンピースの布を強く握った。これまではマリアの機嫌が悪くなると胸が苦しくなり、何も言えなくなっていたが、今は暖炉の火を吸い込んでも、呼吸は乱れなかった。


「何が違うというのよ。私たちは被害者でしょう?」


「お姉様は、ずっと私たちを守っていました。私たちが、その価値を知らなかったのです」


「私は説明を受けていないわ。結界だと分かっていたら、切ったりしなかったもの」


「お姉様は、あれは布ではないと言いました」


 マリアは椅子の上で背筋を伸ばし、口元を前掛けではなく自分のハンカチで拭いた。そのハンカチには朝についた泥が薄く残り、白い布の中央へ茶色い染みが広がっている。エッダは二人の間に口を挟まず、余ったスープを小さな器へ移し、明日の朝まで悪くならないよう窓の外へ置いた。


「ミナ、あなたまで私を責めるの?」


「私は、お母様だけを責めているのではありません」


「では、誰を責めるというのよ」


「私自身です」


 ミナは、左手の人差し指を右手で包んだ。あの日、エルザの純白のドレスを見たミナは、同じものが欲しいとマリアへねだった。自分があの一言を口にしなければ、マリアが鋏を持ち出すこともなかったのではないかという考えが、夜になるたびに指先へ残っていた。


「私は、お姉様のドレスが欲しいと言いました。お姉様が何日も眠らずに作っていたのを知っていたのに、自分も欲しいと言ったのです」


「欲しがっただけでしょう。娘が欲しがったものを用意するのは、母親として当然よ」


「誰かの物を壊して手に入れることは、用意するとは言いません」


 マリアは椅子を引き、乱暴に立ち上がった。椅子の脚が石の床を擦り、木彫りの熊が置かれた窓辺まで鈍い音が響いた。反論する言葉が見つからないのか、彼女は空になった皿をテーブルへ残し、葡萄酒色のドレスを引きずりながら寝室へ入っていった。


「ずいぶん長い一日だったね」


 エッダは鍋へ水を入れ、こびりついた蕪を木べらで剥がした。ミナは謝ろうとしたが、エッダは気にするなというように片手を振った。どこの家にも外へ漏らしたくない話はあるが、壁の薄い村では隠し通せるものなど少ないのだと、彼女は乾いた笑いを浮かべた。


「明日、薪の割り方を教えていただけますか?」


「その細い腕じゃ、最初は小枝を集めるほうがいいね。薪割りは腰を痛めると冬まで響くよ」


「では、小枝の集め方からお願いします」


 ミナが頭を下げると、エッダは満足そうにうなずいた。村では働けない者にも食事は分けられるが、覚えようとしない者の世話まで永遠に焼く余裕はないという。帰り際、エッダは余っていた小さな石鹸を窓辺へ置き、明日は洗濯物を裏返して干すと早く乾くと教えてくれた。


 夜になると風が強まり、屋根板が何度も鳴った。洗った敷布は完全には乾かなかったため、二人は寝台へ古い毛布を敷き、外套を着たまま横になることになった。暖炉には昼間より小さな火が残り、蕪のスープと薪の煙が混ざった匂いが狭い家の中へ染みついている。


「ミナ、起きているの?」


 隣の寝台からマリアの声がした。暗がりの中で布が擦れ、寝返りを打つ音が続いている。伯爵邸では夜中に喉が渇けば侍女を呼んでいたマリアも、今は枕元の木の杯を自分で探さなければならなかった。


「起きています」


「私は、あなたのためにしたのよ」


「分かっています」


「あなたが、あのドレスを欲しがったから」


「はい。私が欲しがりました」


「それなら、私だけが悪いわけではないでしょう?」


 ミナはすぐには答えなかった。寝台の藁が背中へ当たり、姿勢を変えるたびに乾いた音がする。窓の隙間から入った月明かりの中には、洗って椅子へ掛けた母のハンカチがあり、泥の染みはまだ少し残っていた。


「どちらが多く悪いかを決めても、ドレスは戻りません」


「では、どうすればいいのよ」


「明日は火をつける方法を覚えましょう。お母様は敷布を干してください」


「そんな話をしているのではないわ」


「今の私たちには、必要な話です」


 マリアは何か言い返そうとしたが、やがて毛布を頭まで引き上げた。暖炉の薪が一本崩れ、赤い火の粉が小さく舞ったあと、部屋は再び静かになった。ミナは胸へ手を置き、ゆっくりと息を吸うと、冷たい空気が喉から体の奥まで滞りなく入っていった。


 翌朝、ミナは日の出とともに目を覚ました。焦げ茶色の外套の上から生成りの前掛けを結び、昨日の黒パンを薄く切って、残しておいた蕪のスープへ入れた。火はまだ自分でつけられなかったが、灰の下に残っていた熾火へ細い枝を重ねると、しばらくして頼りない炎が立ち上がった。


「お母様、朝食ができました」


 ミナは湯気の上がる皿を二つ、木のテーブルへ並べた。味は薄く、蕪は煮崩れ、黒パンは水分を吸いすぎて形を失っている。それでも、自分の手で温めた最初の食事だった。


「卵はないの?」


「ありません」


「果物も?」


「来月の支給には、干した林檎が入るそうです」


「ひと月も待つの?」


 マリアは文句を言いながら椅子へ座り、木の匙でスープをすくった。昨日までなら一口で皿を押し返したはずだが、今朝は黙って二口、三口と食べている。ミナはその様子を見届けてから、自分の皿へ匙を入れた。


 窓の外では、エッダが約束どおり小枝を入れる籠を持って待っていた。村の向こうには濃い緑の森が広がり、その上を朝の雲がゆっくりと北へ流れている。伯爵邸へ戻る道はもうなかったが、今日一日を暮らすために覚えなければならないことは、目の前にいくつも残されていた。


「行ってきます。昼までには戻ります」


「私を一人にするつもりなの?」


「裏庭に洗った敷布があります。昨日、運んでくださると約束しました」


「私は約束などしていないわ」


「では、今日してください」


 ミナは籠を持ち、初めて一人で家の扉を開けた。冷たい風が灰色のワンピースの裾を揺らしたが、足を止めるほどではなかった。背後ではマリアがまだ何か言っていたものの、ミナは扉を閉めず、朝の光が暗い部屋の奥まで入るようにした。


 道の先でエッダが大きく手を振っていた。ミナは外套の襟を整え、泥を避けずに歩き始めた。靴底が湿った土へ沈む感触を確かめながら、今日からは自分の暮らしを自分の手で作るのだと、胸の奥で静かに決めていた。



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