第1話 慈悲なき断裂
第1話 慈悲なき断裂
窓から差し込む午後の日差しが、作業机の上に広げられた純白の布を柔らかく照らしていた。
エルザは細い針を持つ手を止め、ゆっくりと息を吐いた。
肩が重い。
ここ数か月、毎日のように夜更かしを続けてきたのだから無理もない。
それでも彼女の青い瞳には満足そうな光が宿っていた。
最後の一針が終わったのだ。
机の上に広げられた純白のドレスは、まるで朝露をまとった百合の花のように美しかった。
だが、その価値は見た目の美しさだけではない。
エルザはそっと布地に触れた。
指先から微かな魔力が流れ込み、白い布の奥で無数の魔法回路が淡く輝く。
一本一本の糸に術式を刻み込み、何百層にも重ねた複雑な魔法構造。
それは衣服ではなかった。
伯爵領全体を守るための大規模結界。
外界の瘴気や魔物の侵入を防ぐ防衛装置そのものだった。
「これで、しばらくは安心ですね」
エルザは小さく微笑んだ。
誰かに褒められることはない。
父も継母も、この仕事の価値を理解していない。
もっとも、父である伯爵は三年前に病で倒れて以来、ほとんど寝室で過ごしていた。
領地経営に必要な書類へ署名することはあっても、家政や家族の問題に口を出せる状態ではない。
今では屋敷の実権は実質的に継母マリアが握っていた。
それでも領民たちが平穏に暮らせるなら、それで十分だった。
窓の外では庭師が薔薇の手入れをしている。
遠くから子どもたちの笑い声も聞こえてきた。
そんな当たり前の日常を守るために、彼女は針を握り続けてきたのだ。
ちょうどその時だった。
「まあ、相変わらず地味なものを作っているのねぇ」
聞き慣れた声に振り返る。
継母のマリアだった。
鮮やかな赤いドレスを身にまとい、首や耳には大粒の宝石が輝いている。
その後ろには義妹のミナもいた。
十六歳になったばかりのミナは、淡い桃色のドレスを着ている。
整った顔立ちをしているが、その表情には甘やかされて育った令嬢特有の傲慢さが浮かんでいた。
「お母様、見てください。このドレス、とても素敵ですわ」
ミナが目を輝かせた。
「本当ねぇ。真っ白で綺麗だこと」
マリアも満足そうに頷く。
エルザは嫌な予感を覚えた。
この二人が何かに興味を示した時、ろくな結果になった試しがない。
「それは私の研究用です」
先に釘を刺しておく。
「研究用?」
マリアは鼻で笑った。
「ただのドレスでしょう?」
「違います」
エルザは静かに答えた。
「伯爵領の結界維持に必要な――」
「難しい話は結構よ」
マリアは面倒そうに手を振った。
「ミナが気に入ったの」
「お姉様、私これが欲しいです」
ミナは悪びれもせず言った。
「同じものを作ってくださいません?」
エルザは首を横に振った。
「無理です」
「どうしてですの?」
「材料が特殊だからです」
それは事実だった。
このドレスに使われている糸は、王国中を探しても二度と手に入らない。
代用品も存在しない。
だからこそ、エルザは数年という歳月を費やして完成させたのである。
「けちですねぇ」
ミナが唇を尖らせた。
「一着くらい分けてくださってもいいではありませんか」
「そうよ」
マリアも同意する。
「姉なら妹に譲るべきでしょう?」
エルザは返事をしなかった。
何を説明しても無駄だと分かっていたからだ。
しかし、その沈黙を拒絶と受け取ったのだろう。
マリアの表情が不機嫌に歪んだ。
「本当に可愛げのない子ね」
そう言った次の瞬間だった。
シャキン。
乾いた音が響いた。
エルザは一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
視線を向ける。
マリアの手には大きな裁ちばさみが握られていた。
純白のドレスには長く深い切れ目が走っている。
頭の中が真っ白になった。
「お母様……?」
かすれた声が漏れる。
「これで布を分けられるでしょう?」
マリアは悪びれもせず笑った。
「ミナの分も作れるじゃない」
シャキン。
再び刃が入る。
シャキン。
また一つ。
また一つ。
白い布が裂けていく。
だがエルザが見ていたのは布ではなかった。
目に見えない魔法回路が断ち切られていく。
何百層にも重ねた術式。
何年もかけて積み上げた理論。
数え切れない失敗と試行錯誤。
そのすべてが音もなく崩壊していく。
まるで巨大な城塞が根元から崩れ落ちるようだった。
胸の奥が冷たくなる。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと決定的な何かだった。
終わった。
エルザには分かった。
この瞬間、伯爵領を守っていた結界は死んだ。
もう元には戻らない。
世界で唯一の素材も失われた。
再現は不可能だ。
「お母様」
エルザは静かに言った。
「それは布ではありません」
「また大げさなことを」
マリアは笑う。
「お母様」
エルザは真っ直ぐに継母を見つめた。
「それは国境です」
マリアは眉をひそめた。
「何を言っているの?」
「そのドレスは伯爵領を守る結界そのものです」
一瞬だけ沈黙が落ちる。
だが次の瞬間、マリアは声を上げて笑った。
「そんな馬鹿な話があるものですか」
ミナもくすくす笑った。
「お姉様って本当に変わっていますね」
エルザは何も言わなかった。
もう説明する気力もなかった。
窓の外を見る。
青空が広がっている。
薔薇が揺れている。
子どもたちの笑い声も聞こえる。
けれど、それらは遠くない未来に失われるだろう。
誰も気づいていない。
守られていることが当たり前になりすぎていたから。
エルザは静かに切り裂かれたドレスを抱き上げた。
指先に伝わる布の感触は、まるで亡骸のように冷たかった。
(終わったのですね)
心の中で呟く。
不思議と涙は出なかった。
ただ一つだけ確信していた。
自分ではない。
この家が終わるのだ。
そしてその結末は、もう誰にも止められない。




