3、星 希望 流星群
はっきり言ってしまえば、ズルタンは何をやっても無能だった。
ズルタンがこの家に来て、5年の歳月が流れた。体が発達して少しは、大きくなったがその細い腕と、浮き出た肋骨は、まるで変っていなかった。兄、フォルトゥーナが異常ともいえる知性、人間性、運動神経を発揮したのに対し、ズルタンの知力は同世代の子供たちよりも、少し劣っていた。特に彼は、人とほとんど話をすることができずに、いつも俯いていた。それに加えて極度のあがり症で、常に赤面しているほどだった。村人と道ですれ違うたびに、びくびくしていた。そんな彼の姿を見て、村人たちは、彼を馬鹿にしていた。ウィドックス家は、このあたりの名士だったため、直接面と向かって嘲笑や暴力を、浴びせてくるわけではなかったが、ズルタンが通るたびに村人たちはひそひそと彼を、馬鹿にするのだった。「あれがウィドックス家の例の間抜けか、なんでも捨て子って話だが、なんでウィドックス家の旦那は、あんな間抜けを拾ってきたのかねぇ。フォルトゥーナの坊ちゃんとは、えれえ違いだ。挨拶すらできないとはねぇ。」農業で疲労していた農民たちにとって、ズルタンへの悪口は格好のはけ口となった。またズルタンが仕事をしないで、飯にありつけることへの妬みも含まれていた。
ズルタンは、自分が馬鹿にされていたことを、敏感に感じ取っていた。彼の心はそのためさらに暗く、濁っていった。彼は人というものが大嫌いになった。だが家に引きこもるわけにもいかなかった。なぜなら家には、何よりも恐ろしいズグリがいるからだ。ラシケスの不気味に静まり返っている姿も怖いと思った。
「おーい、ズルタン、お前はもうちょっと明るくできねえのか!いつも俯いてばかりいやがって。挨拶くらい返しやがれってんだ。そんなんだから馬鹿にされるんだ。」
彼の父ズグリも、召使のラシケスも彼を馬鹿にした。ラシケスは、態度にこそ出さなかったが、心の奥底で本能的に彼を見下していた。フォルトゥーナがあまりに優れていたため彼の無能ぶりは、より顕著に浮き上がった。
ズルタンは、犬も嫌いだった。自分の身長よりも大きい犬は、その姿だけで彼に恐怖心を与えたし、何よりもその大きい鳴き声が嫌いだった。犬が彼のそばで大声で吠えようなら、彼は今にも泣きだしそうになるのだった。家にいてじっとしていても、苦痛なので、まだましな外に出た。運が良ければ村人と、すれ違わずに済むからだ。人里少し離れた、森の中に入り小川に流れてくる水を眺めるだけが、彼の楽しみだった。自然が好きだった。森は彼を馬鹿にしないし、いつも優しく受け入れてくれるように思えたからだ。ズルタンの陰鬱な日々を、癒してくれる存在は森だけではなかった。彼の兄のフォルトゥーナだけは彼を馬鹿にしなかった。
世界のどこにも、居場所がないように感じていたズルタンは、毎日が苦痛で全身が蕁麻疹だらけになった。おまけに体も精神も貧弱で、肺が特に弱く一日の終わりになると必ず咳が止まらなくなった。一か月の間、必ず何日かは風邪で寝込んだ。友達の多いフォルトゥーナは毎日、日が暮れるまで遊ぶことを日課としていたが、ズルタンが風邪でベットに寝込むなり何日も、つきっきりで看病をするのだった。お粥を作ってあげたり、リンゴを食べやすいようにすりむいてズルタンの口に運んでやったり、夜心細いズルタンのために、手を握って一緒に寝てあげたりした。ズルタンの風邪は大体いつも4日か5日でよくなるのだが、治るまで毎日付き添ってあげるのだった。
人間という生き物を極度に嫌い、常に懐疑と猜疑心ばかりが心を支配していたズルタンは最初、「(こいつも僕を馬鹿にしているんだ。僕の弱った姿を見て楽しんでやがるんだ!)」と思っていた。しかしズルタンが風邪で何回、寝込んでも兄の態度は、微塵も変わらぬどころかますます優しく、思いやりに満ちていくのだった。ズルタンは、質問した。
「お兄さん、なんで僕みたいなやつの看病なんかしてくれるの。僕みたいな暗い、冴えない、奴の相手なんてしないでいいじゃないか。兄さんには、友達も多いし遊んでくればいいじゃないか。それに聞けば僕は捨て子だったって言うじゃないか。血も繋がっていないのにどうしてこんなに優しくしてくれるの。」
「ズルタン、悲しいことを言うなよ!俺はお前と出会った日からお前を幸せにすると決めたんだ。俺は、お前のことが大好きなんだよ。血が繋がっていなくたってお前は、俺の世界一かわいい弟なんだ。だからそんな悲しいこと言うな!自分を卑下する必要なんてないんだ。俺はお前を愛してるんだ。人を愛するのに理由は要らないよ。」
そういうとフォルトゥーナは、ズルタンに優しくキスをした。
その瞬間だった。ズルタンには、兄がまるで天使みたいに光輝いて見えた。
それから5日後、ズルタンの風邪は完全に治った。その夜のことである。兄が自分の寝室に訪ねてきたのは。
「あれ兄さんどうしたの。こんな夜中に。」
「シーっ。音を立てるな、出かけるぞ。」
「今から!?でも外はもう真っ暗だよ。それにこんな時間にどこに行くのさ。」
「まあそれは、ついた後のお楽しみだ。ほら服を着ろ。夜は冷えるから少し厚着しろよ。」
「でも僕夜は怖いよ。外にお化けとかいるんじゃないかな。」
「大丈夫だ、兄ちゃんがついてる。」
「わかった、いくよ。」
ズルタンは、胸がドキドキしていた。恐怖と好奇心が混ざりあった感情が、心を支配した。
「父上や、ラシケスに見つかると面倒だからな、音を立てるなよ。」
二人は、そっと足音を殺して家の外に出た。微風が髪を撫で、虫が静かに鳴いた、穏やかな夏の日だった。
ズルタンは、外に出ると一気に怖くなり、目を閉じながら兄の手を必死に掴んだ。
「なんだ、お前怖がってるの。」
「怖かないやい!」
ズルタンは、恐る恐る目を開けた。瞬間、満点の星空が、彼の心を一瞬にして奪い去った。自分がまるで宇宙に浮いているみたいに錯覚した。
「奇麗だろ。お前いつもカーテン閉じて寝てるだろ、これからは開けとけよな。」
「うん本当にきれいだ、兄さん。見せたかったものってこれのこと?」
半ば呆けたように口を開けて、夜空に心奪われながらズルタンが呟いた。
「半分正解で、半分不正解だ。これから少し走るぞ。それっ!」
兄は、とたんに走りだした。持ってきたカンテラが揺れた。
「ははっ!置いてくぞーズルタン!俺に追いついてみろ!」
「待ってよ、兄ーさーん!僕の足の遅さを知っているでしょう!」
だが兄は、手加減なしで走りカンテラは、あっという間に離れていく。ズルタンも慌てて走りだした。病み上がりのズルタンだったし、運動神経の悪いズルタンだった、でもその夜は、なぜか本当に不思議なことに、ズルタンは全力で走った。自分で考えられないような、スピードが出た。
「待ってよ兄さん!待って待って待ってー。」
息が上がった。肺の中の酸素がもうない、苦しかった。でもこんなに楽しい夜は初めてだった、ズルタンは夢中になって走った。息が切れても走った。足が痛くなってきた、それでも走った、腕が上がらない、それでも走った、木にぶつかった、痛かった、それでも走った、駆けて駆けて駆けぬけた。気が付くとカンテラが、目の前にあった。いつの間にか、丘の上にいた。体の力が抜けて、寝っ転がった。兄も寝っ転がった。全く疲れていない様子だった。息が全く乱れていなかったのだ。
「お兄さんなんで、、、ハァ、なんで、ハァ、ハァ、、、走り出すのさ、置いて行かれると思ったよ。」
「ごめんごめん!でもこれを見せたかったからさ。どうやら間に合ったみたいだ。」
「間に合ったって何が・・・」
ズルタンは、息を呑んだ。星が降り注いでいた。
「ズルタンは、見るの初めてか?流星群て言うんだぜ。本に書いてあったよ。俺達が住んでいるのは、大きな球体で、ものすごく広い空間の中に浮かんでいるんだってさ。で今見ているのは、その球体に引き寄せられて落ちてくる、小石が燃え尽きて起こる現象なんだってさ。」
フォルトゥーナの説明は、もうほとんど耳に入っていなかった。ズルタンは、食い入るように落ちてくる、無数の光の線を見つめた。
どれくらいの時が流れたかわからないが、ズルタンはふと我に返った。
「兄さん、どうしてこれを僕に見せようと思ったの?」
「ズルタンは、いつも下ばかり見てるだろ、お前が村人たちにいろいろ言われているのも知ってる、お前が犬が苦手ということも知ってる、お前が誰よりも傷つきやすいことを知っている、でも誰よりも優しい心の持ち主だってことも知ってる。お前は誰にも悪口の一つも言わないもんな。だから俺は、お前にせめて上を見て歩いて欲しいだけだよ。視点を変えるんだ。それでお前の生活が、すぐに良くなるとは思わない。でも上を見るんだ。どんなに辛く苦しいことがあってもお前には、上を見てほしいんだ。少しずつ積み重ねればズルタンもきっと、幸福になれるよ。だってほら世界はこんなにも美しいだから。」
「お兄さん、ありがとう、、、本当にありがとう、、今日のことは一生忘れないよ、絶対どんなことがあっても忘れない。」
ズルタンは、泣いた。今まで悲しい涙ばかり流していたズルタンは、今日初めて感動のあまり泣いた、そして兄に感謝した、神にも感謝した、こんなにも素晴らしい兄に巡り合わせてくれたことに。
「さあ、そろそろ帰ろう、風邪がぶり返しちゃまずいからな。」
足には心地良い疲労感があった。ズルタンの心は生まれて始めて幸福に満ち溢れた。
その翌日から、ズルタンは少しずつ変わりだした。村人たちにも挨拶をするようになった。風邪もひかなくなり、蕁麻疹も嘘のように消えてしまった。顔つきも少し穏やかになり、青白く病的な顔には、生気が宿るようになった。




