第15話 体育祭
五月も中旬に差し掛かると、開け放たれた教室の窓から入り込む風には、微かな生ぬるさが混じるようになっていた。
体育祭を一週間後に控えた放課後の教室は、中学生特有のちぐはぐな熱気と倦怠感に満ちている。
「ちょっと男子、ちゃんと跳んでよ! 大縄の練習、ウチのクラスが一番遅れてるんだからね!」
教室の前方で、熱を帯びた女子生徒の声が響く。しかし、それに渋々付き合わされている男子たちの態度は、ひどく冷めたものだった。
「なんだよ、マジになんなって。たかが学校の行事だろ」
「てか早く部活行きてぇんだけど。時間無駄じゃん」
絶対に優勝しよう、などと声を張り上げ、行事という非日常に酔いしれようとする生徒たち。
一方で、強制される団結を疎ましく思い、あからさまに気怠げな態度をとるグループ。あるいは、部活動という新しい自分の居場所を優先したくて苛立つ者たち。
入学してまだ一ヶ月半の中学一年生の教室には、一つの目標に向けてまとまるにはあまりにも未熟な、交わらない温度が入り乱れていた。
その喧騒のなか、教室の後方にある自分の席で、美玲はただひとり静かに作業を続けていた。机の上に広げられているのは、得点板に装飾するための色画用紙と定規、そしてハサミだ。
熱狂にも、冷笑にも、美玲は属していない。
誰かが声を荒らげるたびに教室の空気が波打つが、美玲の手元が狂うことは一度もなかった。与えられた裏方の仕事を、彼女は息をするように淡々と、しかしミリ単位の狂いもなく完璧にこなしていく。
同級生たちの空回りする熱意を、冷眼に見下しているわけではない。
ただ、彼らが必死にもてはやし、あるいは反発している「特別な非日常」というものが、美玲にとってはひどく遠い世界の出来事のように感じられるだけだった。
定規を当て、カッターを滑らせる微かな音が、言い争う声の隙間で規則正しく響く。
生ぬるい五月の風がふわりと髪を揺らしても、美玲の心は、凪いだ水面のようにどこまでも静まり返っていた。
やがて、そんな不協和音に満ちた放課後の練習時間も終わりを告げる。
美玲は切り出した画用紙を丁寧に重ねて片付けると、誰よりも早く、けれども急ぐ素振りも見せずに教室を後にした。
一階の昇降口は、部活に向かう生徒と下校する生徒でごった返していたが、美玲は迷うことなく自分の下駄箱へ向かった。淡いピンク色のスニーカーに履き替えていると、視界の端に見慣れた影が映る。
少し離れた場所で、陵がすでに外履きに履き替えて立っていた。壁に寄りかかり、ただ静かに校門の方を見つめている。
「お待たせ、陵」
美玲が声をかけると、陵はゆっくりと振り返った。
「いや、俺も今来たとこだから」
その言葉のトーンは、小学生の頃から何一つ変わらない。行事前だからといって浮き足立つこともなく、苛立つこともない。その平坦さに、美玲は小さく息を吐いて安堵した。
二人は自然と並んで歩き出す。五月の少し湿った風が、二人の間を吹き抜けていく。
周囲には、まだ大声で大縄跳びの反省会をしているグループや、行事の準備で残る残らないと言い合っている生徒たちの姿があった。その喧騒を背にしながら、美玲はぽつりと口を開いた。
「一組は、優勝したい子と帰りたがってる子が喧嘩してて大変だったよ」
それは愚痴というより、ただの事実の報告だった。
「……そうか」
陵は前を向いたまま、短く相槌を打つ。
「大縄跳びで引っかかった子を責める子がいれば、それを庇う子もいて。なんだかずっと空気がピリピリしてた。陵のクラスはどうだった?」
「二組もうるさい。走る順番でずっと揉めてた」
陵は少しだけ煩わしそうに眉を寄せた。
「足の速い奴をどこに置くかとか、誰がアンカーを走るかとか。適当に決めれば終わるのに、変に熱くなってる奴がいて話が進まない」
「ふふっ、陵らしいね」
適当に決めればいい。その身も蓋もない正論に、美玲は思わず小さく笑いをこぼした。彼にとって、体育祭という学校行事はただの「通過点」に過ぎないのだ。
周囲の同級生たちが「体育祭」という非日常の熱に当てられ、ギスギスしたり、無理に団結しようとしたりして擦り減っている。それは美玲にとっても、どこか遠い世界の出来事のように思えた。
行事は確かに楽しいものかもしれない。けれど、誰かに強制された熱狂に身を投じるのは、ひどく疲れる。
美玲は隣を歩く陵をちらりと見上げた。
彼は黙々と、美玲の歩幅に合わせて歩いている。彼といると、無理に取り繕う必要も、熱を装う必要もない。ただ、こうして同じ歩幅で、同じ静けさを共有して歩けることが、たまらなく心地よかった。
「やっぱり、こうやって帰るのが一番だね」
美玲が小さく呟くと、陵は不思議そうに首を傾げたが、やがて「そうだな」とだけ短く返した。アスファルトを鳴らす二人の靴音が、心地よいリズムで夕暮れの住宅街に響いていた。
――そして迎えた体育祭当日。
五月の空は雲ひとつなく晴れ渡り、グラウンドには朝から生徒たちの歓声と、メガホンの音が絶え間なく響き渡っていた。風が吹き抜けるたびに、舞い上がった砂埃の匂いが鼻腔をくすぐる。
「次、一年生の全員リレーだよ! 相浦くん走るって!」
テントの下、クラスメイトの女子たちがざわめきながら、グラウンドの端を指差した。
その視線の先、スタート地点のトラックには、ハチマキを締めた陵の姿がある。周囲の生徒たちは、緊張で表情をこわばらせたり、闘志を剥き出しにしてその場で跳ねたりしている。そんな中で、陵だけが、下校時と変わらない静かな顔つきのまま、順番を待っていた。
やがて、乾いたピストルの音が空気を裂き、レースが始まる。バトンを握った陵が、土を蹴って走り出した。
「うそ、相浦くん案外速いね!」
「ちょっと、いけるんじゃない!?」
黄色い声が重なり、クラスの熱が一気に跳ね上がる。
確かに、陵は速かった。みるみるうちに他の走者との距離を詰め、あるいは引き離し、コーナーを滑らかに抜けていく。そのまま勢いを保ったまま、次の走者へと正確にバトンを渡した。
彼が走り終えた瞬間、テントから歓声が弾ける。けれど、その光景を応援席の端から見つめていた美玲の目には、まるで違うものが映っていた。
(……不器用だなぁ、陵は)
美玲はひとり、歓声のなかで小さく微笑んだ。
陵のあの走りが、すべてではないことを、彼女は知っている。
武術の道場で、幼い頃から積み重ねてきた鍛錬。あの身体に宿っている力は、あんなものではない。
もし、本気を出せば。
そんな考えが、ふと胸をよぎる。
中学生の徒競走など、きっと一瞬で意味を失う。
勝ち負けですらなくなるほどの差が、生まれてしまう。
……あのときの光景が、脳裏に浮かぶ。
暴漢を、ためらいもなく制圧した一瞬。息を呑むほどの速さと、迷いのない動き。
だからこそ分かる。
今、彼は力を抑えている。
歩幅を合わせている。
腕の振りも、周囲に溶け込むように整えている。
スタートも、わずかに遅らせている。
ほんの少しだけ速い生徒。
その程度に収まるよう、すべてを調整している。
――それでも、隠しきれないものがある。
美玲の目には、それがはっきりと映っていた。
周囲は、陵の走りに熱を上げている。
けれど美玲には、それが少し違って見える。
彼は、目立とうとしているのではない。
むしろ逆だ。
溢れ出そうとするものを押さえ込みながら、ただ必死に、ここに馴染もうとしている。
「……お疲れ様、陵」
周囲の熱気から少しだけ切り離された場所で、美玲は誰にも聞こえない声でそっと呟いた。
すべての競技が終わり、夕暮れ時の朱色に染まった教室には、祭りの後特有の濃密な空気が充満していた。
最後のクラス対抗リレーで勝って涙を流す生徒、惜しくも負けて机に突っ伏す生徒。
そして、その非日常の熱狂の余韻に酔いしれたまま、「このあと、みんなで駅前のファミレスに打ち上げ行こう!」と声を張り上げて盛り上がる同級生たち。
教室中が、ひとつの大きな感情のうねりの中にあった。
当然、美玲や陵のところにも誘いの声はかかった。
けれど、二人の口から出た答えは、まるで示し合わせたように同じだった。
「ごめんね、今日は用事があるから」
「悪い、俺はパスで」
一切の迷いなく淡々と断るその姿に、誘ったクラスメイトたちは少し拍子抜けしたような顔をしていたが、すぐに「そっか、じゃあまた明日ね!」と別の生徒の輪へと戻っていった。
行事という名の、騒がしくも眩しい非日常の喧騒。
それを背にして、二人はいつものように並んで学校を後にする。
向かう先は、同級生たちが集うにぎやかなファミレスでもなければ、寄り道をするような場所でもない。
いつもと何一つ変わらない、美玲の家だ。
玄関をくぐり、二人分の冷たい麦茶をグラスに注いで部屋に戻る。
テレビの前に特等席のように並べられた座布団に腰を下ろし、慣れた手つきでゲームのコントローラーを握りしめた瞬間――。
「ふぅ……」
二人の口から、全く同じタイミングで深く安堵の息が漏れた。
顔を見合わせ、美玲はふふっと小さく吹き出してしまう。陵もつられたように、ほんのわずかに目元を和ませた。
「お疲れ様、陵」
「……美玲もな」
カチッ、とスイッチを入れると、いつもの陽気な電子音が部屋に響き渡る。
外の世界の中学校という場所が、どれだけちぐはぐな熱気で溢れ、どれほど騒がしく波打っていても。この部屋の中だけはいつだって、二人にとって一番心地よい、完璧な温度で保たれている。
誰かに誇るような、ドラマチックで特別な出来事なんていらない。
ただ、こうして隣に並んで座り、一緒に同じ画面を見て笑い合える「当たり前で変わらない日常」があること。
それこそが、何よりも得難く、尊い幸せなのだと。
冷たい麦茶で喉を潤しながら、美玲はその静かな温もりを、胸の奥でそっと噛み締めていた。




