第16話 定期考査
六月に入り、登校路の紫陽花が色づき始めていた。
湿り気を帯びた風が、美玲の短い前髪を揺らす。彼女は左手に持った英単語帳を親指で弾きながら、隣を歩く陵の様子を窺った。
陵はいつもと変わらない。制服のシャツの第一ボタンを律儀に留め、重力を感じさせない静かな足取りで、前だけを見据えて歩いていた。その手は空であった。
「……陵、昨日は単語、どこまでやった?」
美玲の問いに、陵は数歩進んでから、記憶を辿るようにわずかに視線を落とした。
「……単語。いや、昨日は型の見直しをしてた」
型とは、先人の知恵が集約された、ダンスのように一定の流れを持つ動作の組み合わせである。
「えっ、英語は?」
「……やってない」
美玲は思わず足を止め、彼を振り返った。
周囲を歩く生徒たちは、一様に疲れと焦りを滲ませ、最後の悪あがきのように単語帳や参考書を広げている。
今日から一学期の定期考査が始まる。その緊張感は、登校路にまで重たく漂っているはずだった。
「陵……今日、英語と数学からだよ。準備、してないの?」
陵は美玲の言葉をゆっくり咀嚼するように、一度だけ瞬きをした。
「準備……。……そうか。今日だったのか」
彼は慌てる風もなく、ただ淡々とそう言った。その言葉だけで、何も準備をしていないと彼女にはわかった。
「……名前は、丁寧に書く」
少しの沈黙のあと、陵が自分に言い聞かせるように呟いた。
「……名前だけじゃ、赤点だよ。陵」
美玲は小さくため息をつきながら、単語帳を握る手に力を込めた。もし彼が大きな赤点を取って、放課後の補習に駆り出されることになったら。
水曜日の午後、まったりした部屋で二人並んでゲームの電源を入れる、あの静かな時間は簡単に削られてしまう。
(そんなの、絶対に嫌)
美玲にとって、試験で満点を取ることは自分の誇りだ。小学生のころから、ほとんど満点を逃したことはない。とりわけ今回は、中学校に上がってから初めて受ける試験だから、どれだけ備えても、やり過ぎることはないと思っていた。
けれど今の彼女にとって、それ以上に大事ことがあった。目の前の浮世離れした少年を、なんとかしてこちら側の日常に繋ぎ止めておくことだった。
「……一時間目の前の休み時間。大事なところだけ教えるから。いい?」
「……わかった。頼む」
陵は少し申し訳なさそうに、それでも美玲の言葉を重く受け止めるように頷く。
紫陽花の影が揺れる校門をくぐりながら、美玲は心の中で、自分でも驚くほど必死に、彼へ何を伝えるべきかを整理し始めていた。
試験開始を告げるチャイムが、静まり返った校舎に鋭く響いた。
一組の教室で、美玲は深く息を吐き、配られた問題用紙を裏返す。数学の第一問。並んだ計算式が、彼女の脳内で即座に整理され、答えへと収束していく。
美玲にとって、試験はひとつの儀式だった。
努力した分だけ結果が出る、この公平で穏やかな世界。
ペンを走らせる音、時折聞こえる衣擦れの音。そうした日常の断片を慈しむように、彼女は迷いなく解答を埋めていく。
ふと、壁一枚隔てた隣の二組へと意識が向く。
休み時間に教えた要点。陵は真剣な眼差しで耳を傾けていた。けれど、その瞳の奥には、どこか遠くの山並みを眺めているような、掴みどころのない静けさが残っていた。
(……陵は、大丈夫かな)
分かっているようで、どこか噛み合っていない――そんな彼の表情が、彼女の不安をあおった。
その頃、二組の教室。
陵は、目の前の白い解答用紙に「相浦 陵」とだけ、手本のような筆致で書き記していた。
そこから先で、鉛筆が止まる。陵にとって、問題用紙に並ぶ数式は、不自然な記号の羅列に近かった。
『時速四キロで歩くA君が、十分後に……』
そんな設問を読んでも、思考がうまく答えへ繋がらない。小学校の頃にも簡単なテストはあった。だが、それとは比べものにならないほど難しい。
周囲からは、机にかじりつくような鉛筆の音が絶えず聞こえてくる。陵は、自分がまた「普通」という枠から外れかけているのを感じていた。
体育祭のときは、全力を出さなければ「普通」でいられた。
けれど勉強は違う。全力を尽くしたところで、どうすればその土俵に立てるのか、その入り口すら分からない。
窓の外では、入道雲の走りが六月の訪れを告げている。陵は一度だけ外へ視線を向け、それからもう一度、暗号のような問題用紙に目を戻した。
解けない。分からない。
それでも、陵は投げ出さなかった。
名前の横に、美玲が教えてくれた「公式」という名の型を、記憶の底から引き上げるようにして、おぼつかない手つきで書き写していく。それが今の彼にできる、唯一の足掻きだった。
すべての試験が終わった放課後。校舎内は、解放感に満ちた生徒たちの喧騒で溢れ返っていた。
答え合わせに一喜一憂する声、そのまま遊びに行こうと誘い合う声。そのどれもが、美玲にとって見慣れた「学校の放課後」の光景だった。
昇降口の近く、人波から少し離れた柱の影に、陵は立っていた。
どこか遠くの雲を眺めているような、寄る辺ない佇まい。
周囲の浮き足立った熱気の中にいながら、彼一人だけが静かな凪の中に取り残されているように見える。
「……陵」
美玲が声をかけると、彼はゆっくりと視線を向けた。
その表情には、激しい稽古のあとにも見せないような、かすかな疲労の色が浮かんでいた。
「……美玲」
「お疲れ様。……どうだった?」
問いかけに、陵はすぐには答えなかった。
彼は自分の掌をじっと見つめ、それから力なく指を折った。
「……難しいな。『普通』っていうのは」
「えっ?」
「……名前だけは、心を込めて書いた。だけど、その後の問いには……。……覚えたはずの型が、指先からこぼれていくみたいだった」
陵の声は低く、淡々としていた。
けれど、その響きには、体育祭のときとは違う、本物の敗北感が滲んでいるのを、美玲は聞き取った。
彼は、この場所で求められる「当たり前」に応えられない自分に、小さな疎外感を抱いているのだ。
武術の世界では神童と呼ばれ、暴漢を一瞬で制圧する力を持っていても、この薄い解答用紙一枚の前では、彼はただの不器用な少年でしかない。
そのことが、美玲にはたまらなく愛おしく、同時に切なく思えた。
「……陵、そんなに落ち込まなくていいよ。誰だって、最初はできないんだから」
「……いや。俺は、ここに居たらいけないのかもしれない」
ふと漏れた言葉に、美玲は胸を締めつけられるような感覚を覚えた。
彼がどれほど、この「普通の時間」を大切に思っているか。そして、それが自分の手からこぼれ落ちてしまうことを、どれほど恐れているか。
「……資格なんて、いらないよ」
美玲は努めて明るい声を出して、彼の袖を軽く引いた。
「赤点なら、私が何度でも教える。……一回で覚えられないなら、二回でも、百回でも。……ね?」
陵は驚いたように目を見開き、それから吸い込まれるような黒い瞳で、美玲をじっと見つめた。
やがて、ほんのわずかに口元を緩める。
「……そうか。百回か。……それは、厳しい稽古になりそうだな」
冗談めかしたその呟きに、二人の間を覆っていた重たい空気が、ふっとほどけた。
校門を抜けると、六月の生ぬるい風が吹き抜ける。テストから解放された生徒たちの喧騒が、少しずつ背後へ遠ざかっていった。
美玲は隣を歩く陵を盗み見る。
「……陵?」
どこかまだ心ここに在らずといった様子に、思わずもう一度声をかけた。
「……?」
「今日は、稽古あるの?」
彼が言葉を探す気配を見せたので、美玲は道を作るように問いを重ねる。
「……いや、さすがに休んで勉強することにする」
陵は短く答え、それから戸惑うように視線を落とした。
「……情けないな」
さらに、ぼそりと付け加える。
「そんなに落ち込まないでよ。今から、一緒に勉強しようよ」
「いや……美玲の足を引っ張るわけにはいかない」
「私、その程度で点数落ちないから。気にしなくていいよ。今日のテスト見た感じ、他の科目も余裕そうだったし」
「……そうか。美玲は、強いな」
陵は立ち止まり、自分に言い聞かせるように呟いた。体育祭のとき、彼は周囲に馴染むために、自分の「強さ」を殺した。
けれど今、目の前の少女は、日常という場所で生きるための「強さ」を、まっすぐ肯定している。その対照的な姿が、迷っていた陵の中に、静かな道筋を引いたようだった。
「……いいのか。美玲の時間を、奪うことになる」
「奪われるんじゃないって。……いいから、行くよ」
美玲は、彼がこれ以上「情けない」なんて言葉を繰り返させないために、少し早足で歩き出した。六月の湿った空気が、二人の間をすり抜けていく。
「……何をすればいい?」
「まずは、一番苦手な科目から。一歩ずつ。型の稽古みたいにやればいいよ。……大丈夫、私がついてるから」
美玲が振り返って笑うと、陵は一度だけ深く瞬きをした。
それから、彼女にしか分からないほど微かに頷く。
「……わかった。頼む」
今日は水曜日ではない。けれど二人は、いつものように美玲の家へ向かった。
リビングに入り、教科書を広げる。コントローラーの代わりに握ったシャーペンは、陵の手にはまだ重く、不格好に馴染まない。
「……これは、この式でいいのか」
「そう。そこに代入して……」
窓の外では、紫陽花を濡らす雨が静かに降り始めていた。
解けない問題にぶつかり、誰かに教えを乞う。そんな、どこにでもある「普通の中学生」としての苦労。
美玲は、数学の問題用紙に向かって眉を寄せる陵の横顔を見つめながら、胸の奥でそっと思う。
こういう時間も、悪くない。特別な出来事ではなくてもいい。ゲームをしていなくてもいい。
こうして同じ部屋で、同じ机に向かって、ひとつの時間を分け合っていること。それだけで、十分だった。




