第14話 変化と選択
中学校生活が始まり、数週間が過ぎた頃だった。誘拐未遂事件の影は、もう既に影を潜めていた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、一組の教室は一気に緊張がほどけ、あちこちで机を引き寄せる音が重なり始める。
「ねえ美玲、仮入部どこ行くか決めた? 吹奏楽部の先輩、すっごくかっこよかったよ!」
「あ、私はまだ迷ってるかな。昨日もずっと本読んでたから」
「えー、もったいない! 絶対見に行ったほうがよかったのに!」
美玲は、花蓮をはじめとする友人たちと机を囲み、ごくありふれた中学生らしい昼休みを過ごしていた。
明るい声に相槌を打ちながら、自然と笑みがこぼれる。周囲の空気に溶け込むように振る舞うことは、彼女にとって特別なことではなかった。
こうして誰かと過ごす時間は、穏やかで、心地よい。
美玲はわずかに視線を泳がせる。談笑の輪の中にいながら、その意識は隣の教室へと向いていた。
(陵は、どうしてるかな)
二組にいる、陵のことが気になって仕方なかった。
小学校の頃の彼は、「友達はいない」「作り方がわからない」と言って、休み時間も一人で窓の外を眺めていることが多かった。
武術という特殊な世界に身を置き、家庭環境も一般とは少し違う。そんな彼が、自分から新しいクラスに溶け込んでいる姿は、どうしても想像できなかった。
中学校になり、クラスは別々になった。小学校の頃のように、同じ教室に彼の姿はない。
だからといって、二人の仲が悪くなったわけではない。それでも、こうして同じ空間に彼がいないというだけで、何をしているのかが妙に気にかかる。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね」
その引っ掛かりを抑えきれず、美玲は昼食をともにしていたクラスメイトに声をかけた。
「うん、いってらっしゃい!」
そんな一声に背を押されるように、美玲は席を立った。
教室を出ると、廊下には昼休み特有のざわめきが広がっている。他のクラスの生徒たちが行き交い、にぎやかな空気が流れていた。
向かう先は、お手洗いではない。すぐ隣の、二組の教室だ。
足音を立てないよう、わずかに歩幅を抑える。理由は自分でもはっきりしない。ただ、邪魔をするつもりはなかった。ほんの少しだけ、様子を知りたい。それだけだった。
開け放たれた引き戸の影に身を寄せ、美玲はそっと教室の中を覗き込む。そこには、予想とは少し違う光景が広がっていた。
陵は自分の席に座っていた。小学生の頃と変わらない、静かな佇まい。けれど、その視線は窓の外ではなく、席の周囲に集まった男子たちへと向けられている。違和感なく言葉を交わしていた。
「なぁ相浦、お前もあのゲームやってるんだろ?」
気安い声が飛ぶ。そのやり取りを、美玲は思わず息を潜めて見守った。
「やったことはあるよ」
陵はいつもと変わらない調子で答える。
「どこまで進んだ?」
「ラスボスの手前」
「まじかー!? 俺、あそこの砂漠のボスで詰まっててさ。全然勝てないんだけど」
男子たちの声が少しずつ弾んでいく。
本来の陵なら、こうした会話に深く関わることはない。必要以上に他人と関わらず、短く切り上げる。少なくとも、美玲の知っている彼はそういう人物だった。
けれど。
「……適当に突っ込むからだ。効率が悪い」
陵はわずかに間を置きながら、身も蓋もない正論を口にした。
「うっ……じゃあ、どう動けばいいんだよ?」
「あそこのボスは、動きのパターンが決まってる。右から大きい攻撃が来る前に、一瞬止まるから、そこで反撃すればいい」
陵の言葉に、空気がぱっと明るくなる。
「まじか! そういうことか!」
「すっげえ、相浦よく見てんな!」
男子たちが声を上げる。
その中心にいる陵は、少しだけ視線を逸らした。照れているのか、それとも居心地の悪さなのか、美玲には判別がつかない。
ただ、その仕草が、これまで見てきた彼とは違って見えた。
(……声、かけない方がいいよね)
美玲はそっと引き戸から手を離した。
胸の奥に、言葉にしづらい感情が残る。
寂しいわけではない。けれど、どこか落ち着かない。それでも同時に、少しだけ安心している自分もいた。
ふわりとした足取りのまま、美玲は静かに踵を返す。少しだけお手洗いに寄り道をしてアリバイを作ってから、何食わぬ顔で自分の教室へと戻っていった。
午後の授業が終わる頃には、昼休みに真上近くにあった太陽も西へ大きく傾いていた。
やがて、放課後を知らせるチャイムが鳴ると同時に、校舎内は一気に活気づく。
帰りのホームルームが終わると、美玲は花蓮たちと軽く挨拶を交わし、教室を後にした。
向かった先は、一階の昇降口だ。
そこは、これから部活動の仮入部に向かう生徒や、連れ立って下校する生徒たちでごった返していた。
入学してまだ数週間の中学一年生たち。
あちこちから聞こえてくる会話には、どこかよそよそしさが混じっている。相手の顔色を窺い、気を遣いながら「新しい友達」との距離を探り探り測っているような、そんな初々しくも慌ただしい空気が満ちていた。
美玲は人の波を縫うようにして自分の下駄箱の前にたどり着き、上履きから淡いピンク色のスニーカーに履き替える。
ふと顔を上げると、少し離れた下駄箱のそばに、外履きに履き替えた陵の姿があった。
「お待たせ、陵」
美玲がごく自然な声で呼びかけると、陵は軽く振り返った。
「いや。俺も今来たとこだから」
「そっか」
「じゃあ、行こうか」
「うん」
短い言葉を何度か交わし、二人は並んで歩き出す。
その間に流れる空気は、周囲で繰り広げられている「互いの距離を探るようなもの」とは違っていた。
言葉の数は周囲よりも少ないにもかかわらず、その合間に生まれる沈黙が、気まずく感じられることはなかった。
校舎を背にして校門へと向かう道すがら、美玲はふと思い出したように、隣を歩く彼へ視線を向けた。
「今日のお昼休み、クラスの子と話してたね」
気になってしまったから。そして、少し嬉しさもあったから、彼女は自然と口を開いていた。
「……お前、廊下から見てただろ。気配でわかった」
陵が少し呆れたように言う。
「あはは、バレてたんだ。邪魔するつもりはなかったんだけど」
美玲が苦笑して返すと、陵は前を向いたまま、ぶっきらぼうに言葉を続けた。
「……あいつらにゲームのことを聞かれたから、答えただけだ」
人に取り入ったり、不必要な社交辞令を交わすことのない彼にとって、近くで見てきた彼女からすれば、それはとても大きな変化のように思えた。
彼がどれほど異常で厳しい世界に身を置いているか、美玲は実感を持って知っている。だからこそ、彼が「普通の中学生」らしい片鱗を見せたことに、不思議と温かい気持ちになっていた。
「ちゃんと答えられた?」
だから、ぶっきらぼうになってしまった口調には敢えて何も言わず、陵の言葉をもっと聞いてみようと思った。
「多分」
言葉少なに、彼は少し自信無さげに声にした。
「そっか」
美玲も言葉少なに、彼へと静かな頷きを返した。
多くを語らなくても通じ合う。学校という新しい環境の中でも、二人の間に流れるのは、今までと何一つ変わらない確かな空気だった。
そのまましばらく、アスファルトを鳴らす二人の靴音だけが重なる。やがて、美玲は前を向いたまま、ぽつりと口を開いた。
「私のいる一組はね、今日はずっと部活の話をしてたよ」
不意に落とされた彼女の言葉に、陵は視線を向けずに耳だけを傾ける。
それは、口下手な彼が自分のことを話しやすくなるようにという、美玲なりの小さな気遣いだった。
「花蓮なんて、吹奏楽部の先輩がかっこいいとか、そんなことばっかり言ってて。小学校の頃と全然変わらないから、なんだかちょっと安心しちゃった」
「……藤原らしいな」
陵の短い相槌に、美玲は小さく笑みをこぼす。
「うん。でも、みんなそうやって、新しい環境の中で自分の居場所を探してるみたい。私はまだ、部活どうしようか迷ってるんだけどね」
自分の近況と、クラスの空気をひとしきり語った後。美玲は歩幅を合わせながら、そっと彼の横顔を窺った。
「二組は、どんな感じなの?」
自分の近況を交えたことで、彼への問いかけはひどく自然な響きを持っていた。
陵は少しだけ眉を寄せ、歩きながら思考を巡らせる。人に取り入る言葉を持たない彼にとって、漠然とした質問に答えるのは少し難しかったのかもしれない。それでも、彼女の問いかけを無視することはなかった。
「……よく喋る奴らだなって思ってる。授業の合間も、ずっとどうでもいいことで騒いでる」
相変わらずぶっきらぼうな声色。しかし、その言葉に小学校の頃のような明確な「拒絶」や「無関心」は含まれていなかった。
「今日話しかけてきた奴らもそうだ。ゲームの仕組みも敵の動きのパターンも分析しないで、適当に突っ込んで勝てないって騒いでたから、効率が悪いって言ったんだ」
「えっ……」
身も蓋もない正論をぶつけたのだと分かり、美玲は少しだけハラハラして目を瞬かせる。
「そしたら、なんか変に感心されて。次はどう動けばいいのかって聞いてきたから、知ってることを教えただけだ」
「ふふっ……」
呆れたように肩をすくめる陵の姿に、美玲は思わず小さく吹き出した。
不必要な社交辞令を交わさず、ただ事実だけを丹念に伝える彼らしいコミュニケーション。それでも、彼はクラスメイトの言葉を無視せず、彼なりの視点でしっかりと対話していたのだ。
「陵らしいね」
「事実を言っただけだ」
少しむすっとしたように前を向く彼を見つめながら、美玲の胸の奥はぽかぽかと温かかった。
不器用な彼が、彼自身のやり方で「普通の中学生」たちの輪の中に少しずつ触れようとしている。その変化を一番近くで聞くことができるこの距離感を、美玲は心から愛おしいと思った。
「陵は、やっぱり部活には入らないんだよね?」
「俺は入らない。稽古がある」
「だよね」
入学式のときにも聞いていたし、わかってはいたことだった。予想通りの答えだった。
「じゃあ、私も入るのやめようかな」
「……え?」
陵はやけに驚いたような、そんな表情をしていた。
「そんなに驚くことかな?」
「部活に所属するのが普通なんだろ? 先生がそんなことを言ってた」
「らしいね。でも、私もやりたいこと、あるんだよね」
「そうなのか。……なら、まあいいのか」
陵は「自分がそうだから」と、彼女が少し「普通」から外れるらしいことにもあっさりと納得した。
美玲の真の天才物語は、この小さな決断から始まった。
陵が稽古に没頭し、友人たちが部活に汗を流す、その時間をすべて、彼女は勉学に充てた。
元より頭のよかった彼女は、中学を卒業するころには、勉学で肩を並べられる者が誰ひとりいなくなっていた。




