第13話 それが貴方の日常
赤色灯の眩しい光と、けたたましいサイレンの音は、やがて警察署の無機質な白い壁の中へと吸い込まれていった。
誘拐未遂事件という大きな騒ぎの直後、美玲と陵は事情聴取のために警察署の応接室で保護されていた。
パイプ椅子に座り、出された温かいお茶の入った紙コップを両手で包み込んでいる美玲の隣で、陵は相変わらずしわひとつない制服姿のまま、壁の時計を静かに見つめている。
コンコン、とノックの音が響いた直後、勢いよく扉が開いた。
「美玲っ!」
血相を変えて飛び込んできたのは、美玲の両親だった。普段は忙しく働いている父と母が、息を切らし、コートの襟を乱したまま駆け寄ってくる。
「パパ、ママ……」
「怪我はない!? 無事なのね……!」
母が美玲を強く抱きしめ、父がその肩を震える手で包み込んだ。
その温もりに触れた瞬間、美玲はようやく、自分が本当に助かったのだと実感した。
ひとしきり娘の無事を確かめ、安堵の息を長く吐き出したあと、父は同席していた警察官に向き直った。
「警察の方、娘を助けていただき、本当にありがとうございました。犯人たちは……」
「あ、いえ。我々は通報を受けて現場に駆けつけただけでして……」
警察官は少し言い淀むように視線を泳がせ、それから、美玲の隣で静かに座っている陵へと目を向けた。
「お嬢さんを助け、犯人グループを制圧したのは、そちらの少年です」
「……え?」
父と母は揃って目を見開いた。
「信じられないかもしれませんが、現場に到着したときには、大人の男たちが数人、すでに地面に倒れ伏していました。しかもこの少年は、かすり傷ひとつ負っていませんでした。我々も、にわかには信じ難い状況だったのですが……」
警察官の言葉に、両親は驚愕の表情で陵を見つめた。
けれど美玲の胸に強く残ったのは、その異様さではなかった。
「相浦くん……君が、美玲を?」
父の問いかけに、陵は静かに立ち上がり、浅く、けれど芯の通ったお辞儀をした。
「隣にいたので、対処しただけです」
その声には、武勇を誇るような響きも、恐怖の名残も微塵もなかった。ただ事実を事実として告げているだけだった。
あのときと何ひとつ変わらない陵の横顔を見ていると、美玲は胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
「……相浦くん。娘の命を救ってくれて、本当に、何と感謝していいか言葉も見つからない」
父は深く頭を下げた。そして、真剣な眼差しで陵をまっすぐに見据える。
「だが、これほどの恩を、ただ言葉だけの礼で済ませるわけにはいかない。今日はもう夜も遅い。後日改めて、君の保護者であるお祖父様へ、私から直接ご挨拶と御礼に伺わせてくれないだろうか」
大人からの重みのある申し出に、陵は困ったように少しだけ眉を寄せた。
「いえ、本当にお気になさらず……」
「いや、これは私の、親としてのけじめだ。頼む」
父の強い言葉に、陵はそれ以上の固辞を諦めたのか、小さく頷いた。
「……わかりました」
こうして、非日常に包まれた長い一日は終わりを告げた。
事件直後に彼がこぼした「帰るの、遅くなりそうだな」という言葉どおり、時計の針はすでに遅い時間を示している。
美玲は両親と共に帰路につく前、ふと陵の方を振り返った。
彼の顔には、大立ち回りを演じた興奮も、大人たちから過剰に感謝された気負いもない。
ただ、約束していた二人でのゲームの続きができなくなってしまったことを、ほんの少しだけ惜しんでいるようだった。
そう思ってしまうのは、自分だけなのかもしれない。
それでも、そのささやかな残念さが、妙に美玲の胸に残った。
数日後の週末。
美玲は両親と共に、陵の家の隣にある神源流の道場を訪れていた。
普段はスーツや白衣で忙しく動き回っている両親も、今日ばかりは落ち着いた色合いのフォーマルな服装に身を包んでいる。美玲自身も、母に見立てられた少しよそ行きのワンピースを着ていた。
以前、美玲が一度だけお邪魔した陵の家は、古風ながらもこぢんまりとした静かな空間だった。しかし、そのすぐ隣にそびえ立つ道場は、まったく異なる空気を纏っていた。
黒光りする太い柱。磨き上げられた床板。冷たく澄んだ空気。
一歩足を踏み入れただけで、肌が粟立つような感覚があった。
美玲は、陵の家の壁際に木刀や竹刀が整然と並び、刃を収めたままの刀が置かれていた光景を思い出す。
あれは飾りではなかったのだと、ようやく実感した。
やがて、道場の奥から一人の老人が姿を現した。
陵の唯一の肉親であり、この神源流を取り仕切る祖父だった。
背筋は恐ろしいほどに真っ直ぐに伸び、その足運びには一切の無駄な音が鳴らない。鋭く、しかし凪いだ水面のような眼光はどこか陵と似ていたが、纏っている威圧感は比べ物にならなかった。
「……本日は、お休みのところ突然の訪問をお許しいただき、ありがとうございます」
美玲の父が老人の前に進み出て、深く、深々と頭を下げた。母も、そして美玲もそれに倣う。
「娘の命を救っていただいたこと、親として何と御礼を申し上げてよいか分かりません。お孫さんの陵くんには、本当に……」
実業家として数々の修羅場を潜り抜けてきたはずの父の声が、わずかに震えていた。
——しかし、その言葉に対する老人の反応は、あまりにも予想外なものだった。
「頭をお上げください」
老人の声は低く、そして感情の起伏が一切削ぎ落とされた平坦なものだった。
「神源流を修める者として、暴漢の数人を制圧するなど、息をするのと同じ当然の務め。わざわざ礼を尽くされるようなことではございません」
父が弾かれたように顔を上げる。母も息を呑んだ。
「……し、しかし、相手は刃物を持った大人の男が複数人です。それを中学生になったばかりの彼が、無傷で……」
「相手が誰であろうと、武器を持っていようと同じことです」
老人は、父の言葉を淡々と遮った。
「むしろ、周囲に被害を出さず、相手にも無駄な怪我をさせずに制圧したことは、最低限の合格点を満たしたに過ぎません。あれで手間取っているようであれば、道場から叩き出しておりました」
その言葉に、謙遜めいた色は微塵もなかった。
本気でそう思っているのだと、美玲にもわかった。
大人数人を瞬時に倒した陵の動きを、褒めるどころか最低限の当たり前だと言い切る。
その感覚は、美玲の知っている世界のものではなかった。
父も母も絶句していた。
美玲もまた、声を失っていた。
そのとき、ふいに脳裏をよぎる。
「武術って、聞こえはいいけど只の暴力だから。必要がないなら、やらなくていいと思う」
出会ったばかりの頃、陵が吐き捨てるように言っていた言葉だった。
あのときはよくわからなかった。
けれど、今なら少しだけ、その言葉の重さがわかる気がした。
大人たちの堅苦しい挨拶とやり取りがようやく一段落し、父が「本日はお忙しい中、お時間をいただきありがとうございました」と最後の礼を述べた。
それを合図に、美玲は両親から少しだけ離れ、道場の隅で静かに待機していた陵のもとへ歩み寄った。
今日の彼は見慣れた学生服でも、休日の私服でもなく、白地の道着を身にまとっていた。その姿はこの厳格な道場の空気にひどく馴染んでいて、一瞬だけ遠い世界の人間のようにも見えた。
けれど、近づいてきた美玲と目が合うと、陵は小さく息を吐き、いつもの、まったく飾らない平坦な声で口を開いた。
「大人の話、長かったな」
その言葉には、暴漢を倒した英雄としての気負いも、武術の継承者としての重圧も、微塵も含まれていなかった。
ただの退屈だった子どもの、素直すぎる感想だった。
その一言で、美玲の胸の奥にあった張りつめたものが、ふっと緩む。
どんなに特殊な空間にいても、どれほど異常な価値観に囲まれて育っても、彼自身の根本にあるものは、美玲が知っている相浦陵から何ひとつ変わっていなかったのだ。
「うん、そうだね。長かった」
自然と笑みがこぼれた。
それから、美玲はずっと確かめたかった、一番大切な約束を口にする。
「……ねえ。次の水曜日も、うち来るよね?」
誘拐未遂事件の夜に途切れてしまった、いつもの放課後。
それを、もう一度ちゃんと繋ぎ止めたかった。
陵は少しだけ不思議そうな顔をした。そんなことを、わざわざ聞く必要があるのかと言いたげに。
「うん。ゲームの続き、あるだろ」
迷うことのない、あっさりとした即答だった。
「……っ、うん! あるよ。まだまだ、いっぱいあるから!」
美玲の声が弾む。
嬉しくて、少しだけ視界が滲みそうになるのを、ぐっとこらえた。
どれほど彼の背負う背景が重たかろうと、彼が美玲とのゲームの時間を当たり前の日常として受け取ってくれている。
その事実が、何よりも美玲の心を温めた。
「じゃあ、また水曜日に。昇降口で」
「わかった。空けておく」
短い言葉を交わし、美玲は両親の元へと戻っていく。
道場を出て外の空気を吸い込むと、春の陽気がふわりと頬を撫でた。先ほどまでの張り詰めた冷たい空気が嘘のように、世界は穏やかに広がっている。
美玲は振り返り、隣に建つ陵の小さな家を見つめた。それから、もう一度前を向き、静かに歩き出した。
会社に行けなくなって、転職活動してました。
Upが遅くなって申し訳ないです。
今日からまた再復活です( *˙ω˙*)و グッ!




