課長の異動
「予定より少し早いんだが」
課長は少し首の後ろを擦りつつ小さく溜息を吐いて、続けた。
「異動だ。四日に告示、十五日からは新しいところで仕事になる。唯一の救いは、お前が管区から戻ってきてからだってことだな」
「え? それは来月の、という意味ですか?」
予定では、一年後の四月、まだ十六ヶ月も先だったはず。
課長は頷いた。寝耳に水だ。万一早まるとしても、四月一日だと思っていたから、心構えも何も出来ていない。
「それでもって、新しい課長が来るのは早くても四月一日だ。今までも俺が出て行く分野沢を戻せと言い続けていたら、自分で手配しろと言われていたこともあり、今回、空席が出来た人事に行くことになった。
野沢は四月の異動で係長として戻そうかと思うんだが、どうだ? 係長は減らさない。純粋に増員だ。あいつならお前の後釜をしっかり押さえられるだろうし、お前は係長の兼任を止めて副課長として。後は、管区にもお前の貸し出しは止める。代わりに野沢を人身御供だな」
課長の野沢への信頼は厚い。春久が来た当初から、何くれとなく世話になった班長。係長として出て、あっという間に連れ戻されるらしい。
「お前が野沢の留守のフォローすることになれば、他の係長たちも納得するだろう?」
「それは……」
「ただ、新しい課長が来るまでは副課長のお前に全ての課長権限が委譲される。四月になって野沢なり新しい係長が来るまではお前は課長と中央エリアの係長の仕事も有る。管区に行く暇など無いと、管区には再来週の出張以降は全てキャンセルを申し出ている。それでお前が潰れないと信じているんだが」
一番信頼されているのは春久だ。お前なら大丈夫だろう、と。
「ありがたいです。来週もキャンセルでも構わないのですが」
「バカか。管区の連中に顔見せもせずに一切の縁を切ることは出来ん。新年の挨拶と世話になった礼ぐらい言っておけ」
「そうですね。そうします」
その時はまだ、課長は課長として席を守ってくれるのだから。
仕方が無い。春久はもう一度プライベート携帯を引っ張り出し、先ほど見せたソルトの写真から数枚、横にスライドさせた。
「どうした?」
黙って課長の前に置けば、課長はそれを取り上げた。
「お前の通い妻か? 良い笑顔しているじゃないか」
ソルトを抱き上げ、顔の前に連れてきて、一緒ににこにこ笑っている写真。眠っている姿は見せられないが、これなら許してくれるだろう。
「五歳年下だったか? いい歳だから結婚するなんて言い出されたら、目も当てられないぞ。しっかり掴まえておけよ」
「今は娘の事が気になって、毎週来てくれるようなので」
「本当に通っているのか。まあ、お前の食生活の心配をしなくて良いのはありがたいな」
課長はしばらくそれを見ていたが「名前は?」と聞いてきた。
「海です。中性的な顔立ちに名前なので、まあ」
意識しはじめると、可愛いと思う。意識しなくても、可愛いんだよな。課長も春久の続けなかった言葉を察したようで、少しだけ口元を緩めたが、携帯を返してくれた。
「大事にしたい奴がいるっていうことは、生きていく上で大切な事だよ。例え一方通行でもだ。幸いお前の場合は双方向なようだしな」
「そうですね」
課長の言う通りだ。大切にしたい相手のために頑張れる。
「判りました。何かのことでヘルプを出させていただくことになるかも知れませんが」
「そうしろ。今まで副課長としての役割は任せて来たとは言え、なにせ後二週間ないからな、お前への引き継ぎは。いや、管区に行くことを考えると一週間か。お前が留守にしている間は、係長たちにお前のサポートできるように仕事を割り振っておく」
「そうですね。元々、課長一人に係長五人体制だったことを考えれば恵まれています。ご指導よろしくお願いします」
新しい課長と新しい係長が来るまでの三ヶ月は大変になるが、それまで踏ん張れば、一気に楽になれる。
「告知は来年になってからだからな。それまでは黙っていろよ」
「了解しました」
「俺は正月休みは引っ越しの準備だ。お前も今の時期に来たんだったなぁ」
「はは。そうでしたね」
春久が三十の年に来て、三十三の今、課長が去ることに。丸三年の付き合いだ。
「人事になったんで、多少は自分で好きに動かせる。欲しい人材、放り出したい奴が居れば、教えてくれ」
課長が肩を叩きながら言うから、春久も苦笑するしかない。
執務室に戻れば、課長は課長だった。異動のことなどおくびにも出さない。いつものとおり、係長たちを上手く使う。なので春久も自分の席について、そのサポートを行う。年末年始も緊急時相談窓口は開いているとは言え、表向き御用納めだから、一階の受付にも顔を出し、年末の挨拶も必要だ。同じように御用納めの挨拶に来る業者とも、顔を合わせる。いつもの、本当にいつもの年末だ。
「俺は帰るぞ」
課長がそう宣言した。
「お疲れ様でした」
「お前たちも、できるだけ帰れよ。じゃあな。次は四日だな」
「良いお年を」
課長は四日に出勤してくるまで異動のことを気取らせる気は無いようだ。だから春久も、それに関しては口にも顔にも出さない。
大晦日、カイは買い物をして家に来て、それらを片付けた後、ソルトをキャリーケースに入れて、そのまま戸野原家に向かう。殆ど家に居られない。もっとも春久自身が家に居ないのだから、それをどうこう言えるはずも無いのだが。
この年末は比較的に穏やかだった。大塚が有能なことも有るのだろうが、交通課が何かと率先して動いてくれ、生活安全課がそれに助けられたという理由が大きい。なので春久も朝昼夜と、家に戻ってゆっくり食事できる時間が取れた。
ソルトは春久が殆ど家に居ないことにも慣れたようで、毎回出迎えてくれるが、春久が食事をしている間は自分の食事をしたり、キャットタワーで遊んだり、爪を研いだりと、気儘に過ごす。たまに撫でてくれとやってくるので、その時は撫でまくってやれば、満足して自分の寝床に戻って伸びをする。
そうやっていつでも出迎えてくれたソルトが飛んでこないのが違和感。たった十日ほどで、ソルトはすっかりこの家のオプションパーツになっていた。それとともに、ソルトが居る間は極弱くだけれど暖房を入れっぱなしにしていたのが、居ないからと切られて、部屋の中がひんやりしている。
テーブルの上にはカイの文字で「ソルトは拉致した。明日の昼には戻ってくるよ」と記載されたメモが。
「おせちはまだ食べないこと。年越しそばはカップラーメンでよろしく。それ以外にいくつか簡単な惣菜は作っているから食べて良いよ」と。
可愛いことを書きすぎだ。
調理台の上に置かれたタッパーに入ったアジの南蛮漬けが一番に目に飛び込んできた。春久が昼食を食べて再び執務室に出た後に到着して、夕食を食べに戻ってくるまでに作ってくれたのだ。触るとまだほんのり暖かい。他にも鍋の中や冷蔵庫に、いろいろ詰め込まれている。野菜などは袋に入ったままソルトの手の届かない調理台の上に置かれていて、正月から料理する気満々なようだ。それらを見ていると、カイが来てくれたのだと実感出来てホッとする。
カイとソルトが居ない事は戸野原の配慮だから、それは寂しくても我慢できる。
適当に二回分の弁当を詰めた。大晦日は夜間巡回なので夜食と朝食用だ。春久は副課長だから巡回は強制では無いのだが、春久がメンバーに入れば、代わりに待機込みだが休めるメンバーも出てくる。特に新婚を初めとする家庭人。少し考えて、小さなタッパーを引っ張り出し、南蛮漬けを入れた。弁当として食べるには不向きだが、春久にとっては力を貰えるのだ。初めて作ってくれた時以来、春久の好物だからと、たまに魚の種類は変わるけれど、いつでも作ってくれる。
年が変わる瞬間、どこもかしこも人で溢れている。除夜の鐘を搗いてから初詣に。ぞろぞろと歩く人たちの横をゆっくりとパトカーを走らせながら、店の駐車場などに目を配る。たまに署に戻って引き継ぎ、交代。春久が外に出る時間は減った代わりに交代や巡回場所などの調整をしなくてはならない。トラブルがあればそちらに人員配置も。
徹夜仕事だから途中で食事をする。むすびやサラダ、卵焼き、それと一緒に南蛮漬けを頭からかぶりつく。酸味の奥から甘みも感じられて、ああ、疲れが取れると思う。元々砂糖など使わないのに、今ではこうやって少しの甘みを旨いと思うのだから、カイの食事にしっかり胃袋を掴まれているなぁと感じる。
「おはようございます。あ、明けましておめでとうございます。交代します」
「おはようございます」
巡回計画は既に個々人にまで通達されている。皆すぐに反射材の付いている活動ベストを身につけ、相方を確認して飛び出していく。
腹が減った、朝食を食べてからどれだけ時間が掛かったのかと、時計を見たとき、ドアが開いて
「お疲れ様です!」
と揃った声が聞こえた。
「おめでとうな」
課長だ。いつもの通り、正月からぜんざいの配達をしてくれた。
「丹波」
「はい」
会議室押さえ事案かとパソコンを開けば
「少しこいつ借りて大丈夫か? 携帯は持たせているし、すぐに戻れるところだ」
と、そこにいた係長たちに問いかけた。
「どうぞ。順番に昼食に行く時間ですので。丹波長一番に」
「ああでは、食事を兼ねて行ってきます」
「打ち合わせも兼ねるんで多少伸びるかもしれん。丹波は外して適当に留守番を回してくれ」と、課長が一言付け足した。
とはいえ、正月一日。空いている店など少ない。コンビニで弁当を買うか……。携帯を見た。課長に断って
「いつ頃帰ってくる?」と、カイに宛てた。
「お昼の支度してくれているから、その後。ハルさん、夕食の時は戻れる?」
そんな返事を得て、春久は課長を自分の家へと誘った。
課長を家に上げ、一番にエアコンを付けた。丸一日空けた部屋。ソルトが居ないからひんやりしている。
暖かいコーヒーを淹れてテーブルに置くと、課長はその前に座った。
自分の弁当を持っていったタッパーを水に浸け、冷蔵庫を開けた。課長も健啖家だから、春久と同じもので大丈夫だ。適当に、肉を多めに、レンジで温めた。
「あいつの手作りです。なかなか美味いですよ。米を仕掛ける時間が無かったので、むすびを温めた物ですけど」
「クッキー以外は初めてだな」
言いつつ課長はテーブルにタッパーを置いた。中が黒い?
「ぜんざいだ。お前の通い妻に。甘い物好きだろう?」
「喜びますよ。頂きます」
わざわざ取り分けてくれたのだ。
受け取ったタッパーは、調理台の上に置いた。昼休みは一時間とは言え、あまりゆっくりしていられない。二人で向かい合って食事をしながら話をした。
「後半月だからな。不自由は無いか?」
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。いろいろお気遣いいただいて、快適に過ごさせていただいています」
「最近、お前の車が職場に置きっ放しのようだからなあとは思っていたんだ」
「週末に来てくれるので、まあ、車を動かすのも面倒でつい」
そう言って頭を掻いた。頭を掻きついでに、唐揚げを口に放り込んだ。
「で、(四月一日までの)二ヶ月半、かなりキツいと思うが。まあ、交通課にも声掛けはしておくが、大きな事件が無いことを願っておくよ」
「そうですね。それは同意ですね。是非ともお願いします」
「後、今回は管理職の欠員による異動だから大至急だったんだが、その分お前に責任がのし掛かることも判っているんで、あれだ、緊急時には呼んでくれて構わない。俺が動けるとは限らないが、俺も人脈はそれなりにあるからな。なんらかの手助けはしてやる」
「ありがとうございます。心強いです」
本当にそうなのだ。課長の一言一言が、春久を思ってくれてのことだと判る。
「課長にはこちらに来た当初から可愛がっていただいて、本当に頭が上がりません」
結構もぐもぐぱくぱくと食いながらも、話も途切れることは無い。後半月もしないうちに生活安全課を引っ張っていかなければならない春久への、これは引き継ぎだ。書類上でも、システム上でも無い、文字や形に出来ない、長年の経験で身につけた課長という名の責務の。
こういうときはこうしろ、ああしろ、こんなときはこうやっていなせ。それから課長の若いときの、というか三十代前半から十年ほど班長として部下を引き連れて現場を走り回っていた時のこと。その後係長になり、課長になってと机の前が増えて、走れなくなったと苦笑いも。
それは春久も判る。なので春久も家にレンタルではあるがいくつかのトレーニング器具を置いたのだから。




