猫の待つ家
課長はソルトの写真を要求した。休み時間が合えば、春久がカイに送るために撮った動画を見ている。
「面倒を見られるのであれば、子猫、聞いてみますけど? 大塚さんの知り合いですから」
大塚は災害時特別班では春久の副の立場で動いてくれるし、なにより交通課と生活部安全課関連でちょくちょく顔を出している。なので春久が「大塚さん」と言えば、頭に浮かぶのは一人だけのはずだ。
「うちは、犬が居るんだ」
猫を欲しいとも欲しくないとも言わず、課長は愛犬の写真を見せてくれた。大型犬だ。茶色い毛並みに太い足の、秋田犬らしい。よく走るだろうな。羨ましい。
「とはいえ、今は両親のところに預けているけどな。官舎じゃ室内犬ならともかく、大型犬は飼えないし、第一うちの妻では、散歩が足りない。実家は広いからな。庭に放し飼いに出来る」
「良いですね。俺も定期的に散歩に連れて行けるなら、犬を飼いたいんですけどね。仕事が不規則すぎて」
「通い妻と同居する気は無いのか?」
「無理ですね。まあソルトが落ち着くまでは頻繁に来そうなのでラッキーですかね」
「なんで、塩なんて名前にしたんだ?」
「この毛並みがサバトラと言って……」と、カイが塩焼きに拘った部分は大笑いされた。
「お前の通い妻、本当に可愛いな。甘い物好きだよな? こっちに居るなら正月一日に連れてこい」
「それは、無理です」
「ぜんざいで釣れないか?」
「釣れる……かも? いや、ですが断固拒否します」
さもないと外堀を埋められそうだ。春久は良い。けれど、それでカイが逃げる可能性が高いのだ。そんなリスクは冒せない。
「ぜんざいの話は、聞かなかったことにしておきます」
カイが聞いて断ったとなれば、角も立つだろう。春久が言わなかったのであれば、カイのことをあれこれ詮索される事も無い。
「ソルトがもう少し慣れてくれば、一緒にキャンプにも連れて行けるかなと思っています。一泊の出張は可哀想ですが留守番です。管区に行くような長期の時は、知り合いが面倒を見てくれるとのことなので、仕事に差し支えは無いかと」
一泊二日の出張時には、朝餌と水をたっぷり用意して、トイレも念入りに綺麗にしてやる。戻ってきて一番に水を替え、餌をやり、トイレの掃除をする。それぐらいなら大丈夫だろうと、母猫の飼い主も、戸野原も言ってくれたからできる事。二泊以上の場合、帰れる状況ならなら無理にでも帰るし、それが出来ないときは戸野原に預けることになる。
「ああそうだな。お前も管区に行くと一週間近く家を空けるものな」
「そろそろ管区から手を放して貰いたいので、次の時に交渉してきますよ」
なんとか今年度一杯で終わらせたい。かなり時間を融通してくれているとは言え、それでも手に余るのだ。
「ただいま」
ソルトを飼い始めて、玄関を開けるとすぐに声を掛けるようになっていた。
と、カサカサカサと音が近づいてきた。
は? と思う間も無くソルトが走ってきたが、その頭にはビニール袋? 驚いた。そんなモノ出しっ放しにしてしまったかと、焦りもした。急いで掴まえて、頭に被っていた袋を取り外したのだが、ソルトはまたそこに頭を突っ込んできた。
「ソルト、止めないか」
袋に顔を突っ込みたがるソルトを止めようとして、玄関の隅の靴に、ようやく気づいた。
「カイ。来ているのか?」
金曜日の夜だ。春久は出張から帰ってそのまま残業で、時計は二十一時を過ぎている。カイの返事は無くて、春久は革靴にシューズキーパーを突っ込んで下駄箱に入れ、ソルトを抱き上げたままリビングに足を運んだ。
カイはキッチンで料理をしていた。水の音で春久の声が聞こえなかったらしい。
「あれ、ハルさんお帰り」
カイの出迎えの言葉に、ソルトと袋を床に下ろした。途端にソルトがビニールに顔を突っ込んでいる。
「ソルト。まだ飽きないんだ?」
「カイ、ビニール袋で窒息したらどうするんだ。危ないだろう」
「ちゃんと見ているから、大丈夫だよ。ソルトはその音が気に入っているだけだから」
カイはキッチンから出て、段ボール箱の隣に行くと、それを爪でゴソゴソ音を立てながら引っ掻いた。途端にソルトはビニール袋から顔を上げ、今度は段ボール箱の中に飛び込んだ。
「ハルさん帰ってきて良かったね。遊んで貰ってね。ハルさんはご飯はまだ? 出来ている物、適当に食べてオッケーだよ」
「食事はまだだが、明日も早いので軽くで」
「じゃあ、むすび食べる? まだ暖かいから冷蔵庫に入れられなくて、冷ましているところ」
「お前は? 食ったのか?」
「作りながら食べたよ。途中で買い物してたから、遅くなって。袋から出しているとソルトが顔を突っ込んでこようとするから、ビニール袋に相手して貰ってた」
今は段ボール箱の中、渡されたぬいぐるみを前足で抱きしめ、後ろ足で蹴ってと大忙しのソルト。春久が猫じゃらしを揺すると、ぱっと顔を上げ、ぬいぐるみを放り出して、猫じゃらしに飛びついてきた。
「ハルさんは味噌汁? スープ?」
「いや。お茶だけで良い。その前に着替えてくる」
カイに会えたことで有頂天になって、着替えを忘れていた。猫じゃらしをキャットタワーに置けば、ソルトはそれを取るために急いで登っていく。その間に春久は自分の部屋に戻り、スーツを脱いだ。ハンガーに引っ掛け、猫の毛が付いていないことを確認しつつ埃を払い、ジーンズに履き替えてリビングに戻った。ソルトは再びナイロン袋に顔を突っ込み、小さな足で押さえつつ、カサカサ音を追いかけているようだ。好奇心旺盛でなによりだ。カイも、寝るとき、つまり人の目が届かないときはナイロン袋は片付けるとのことなので、まあ良いかと、テーブルに用意してくれたむすびにかぶりつき、お茶を口にした。ああ、ホッとする味だ。
猫が居ると、色んな物を出しっぱなしに出来ない。春久が一足先に風呂に入っている間に、カイはキッチン周りを片付け、全ての食料を蓋付き鍋や冷蔵庫の中に収めてから、自分も風呂に入って寝るという。そこは任せた。カイは土曜日に来ると思っていたので、ソルトの様子を見たり餌や水、トイレの世話ついでに仮眠のつもりで戻ってきたから、春久も時間的に余裕が有るわけでは無かったから。
翌朝は五時出勤。それが、夜にゆっくりしていられなかった理由だ。春久も少しでも長く眠りたかった。
スーツのジャケットを持って部屋を出る。カイに言われた通り、部屋に鍵を掛ける。それで気づいた。ソファーに人の気配。カイが毛布を被って寝ている。なんと、ソルトと一緒に。ソルトはカイの腕の中で安心して眠っているのだ。
猫二匹、可愛すぎだろう? 急いで寝顔をカメラに収めた。もちろん誰にも見せない。
トイレや洗面を済ませ、静かに家を出た。朝食にはまだ早い。後で食べに戻る。そうすれば、起きているカイとソルトが見られるはず。カイの世話を受けての食事もできる。
少しばかりにやけて足早になってしまったようで、五分で職務室に到着していた。足早? 走っていたようだ。
「おはようございます」
「おはよう」
「飯食ってきました?」
「いや。まだだ。後で食うよ。行ける人から(食事に)行って」
「んじゃあ、食事してそのまま仮眠に入ります」
「家に戻ると素直に言えよ。新婚さん。ちゃんと戻って来いよ。タイムリミットは昼飯だからな」
同僚にからかわれながら部屋を後にする者、春久と同じように朝の挨拶をしながら入ってくる者。年末年始を間近に控えた時期は、一日ゆっくり、が出来ない。本当にブラックな職場だと思う。けれど、その仕事は県民の安全に繋がっている。
二時間ほど経って、係長の一人と入れ替わりに「朝食を食ってくるので、三十分ほど席を空けます」と断って、春久も朝食を食べに家に戻れた。
「ただいま」
玄関を開けて中に向かって声を掛けると、再び、カサカサ音が走ってきた。
「ソルト、前見えてない! 戻っておいで」
カイがソルトを追い掛けて出てきた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
出迎えて貰えて幸せだ。なのでカイに抱き上げられたソルトの頭を撫でる。
「早かったね」
「朝飯だけ食いに戻ってきた。外に行くより家の方が近いしな」
「あはは。オッケー」
中に入れば、ソファーの上の毛布は片付けられていた。朝見ていなければ、カイとソルトが並んで寝ていたなどと気づかないほど、痕跡は消えていた。尚更、あの写真を撮っていて良かったと思う。知れば怒りそうなので、カイにも見せられない。
「ソルトはすっかりハルさんに慣れたみたいだね。声を聞いて飛び出していくんだから」
「そうだなぁ。それでも一匹で放置しているから、お前が来てくれて喜んでいるんだろう」
話している間に、テーブルに食事を並べてくれる。熱々のご飯、おかず。味噌汁。
「ハルさんは走り回るからタンパク質必要だと思って、鶏の唐揚げタルタルソース。キャベツもたっぷりね」
「ありがとうな。助かる」
「今日のお昼と夜はどうするの?」
「昼は食いに戻る。お前が居てくれるし、まあ、時間が少し遅れると思うが。夜は……どうするかな。夕食を食いに戻ると、飯を食ったからとそのまま真夜中まで仕事になりそうなんで、昨日と同じように仕事の区切りが付いてから戻って飯にして寝るのが早そうなんだが」
ただそうすると、カイと一緒に食事が出来ない。今も、カイは食事を済ませてしまっている。昼も、春久が遅くなれば一緒の食事は無理だ。
「掃除機かけたら買い物に行ってくる。お昼少し遅くなるなら合わせるから、連絡よろしく」
「判った」
カイは隣に座ってソルトののどを撫でている。ソルトは目を細めていたが、その前足をカイの手に乗せ、もっととねだっているようだ。
「ソルト、ソルにゃん~。良い子だね」
カイの鼻の下が伸びている。同じようにカイに「良い子だ」と言って、その頭にキスをしたい。出来ないので願望、だ。
朝食に三十分と言って出てきたので、あまりゆっくりは出来ない。カイが片付けておくと言ってくれたのに甘えて、春久はソルトの頭を撫でて立ち上がった。
「行ってらっしゃい」
上がり口に立って抱き上げたソルトの前足を握って、軽く手を振るカイ。幸せすぎる。お帰りの声で出迎えてくれて、温かいご飯、出かけるときにはお見送り。完全新婚夫婦だ。
「行ってくる」
そのままカイの腕を引き寄せてキスをしたい衝動を抑えて、職場に戻った。
ポーカーフェイスを気取るには、特に課長に対しては、かなり腹に力を入れる必要が有る。生半可では簡単に見破られてしまうのだ。
「今日はサンタの必要な奴、家族でケーキを食う必要が有る奴はさっさと仕事を仕上げて帰れよ」
課長が朝から職員たちにハッパを掛ける。そう言えばクリスマスイブだった。若い父親母親たちは皆、自宅待機が入る者も居るけれど、基本十八時には戻る。
「ケーキの用意をしてやれば良かった」
そんな中、そう呟いたのを、課長にしっかり聞かれていて……。
「お前は良いのか? 待機か、在宅入れるか?」と、問われてしまった。警察官が在宅?と思われるかも知れないが、管理職になれば書類も多い。それらを持ち帰れば一応在宅仕事だ。業務用電話も持たされているので、緊急時にも連絡は取れるし、なにより春久の家は徒歩十分、ショートカットを走れば一分なのだから。けれど、だ。そこで頷くとカイが来ていることがバレる。
「いえ。まあ、うちも猫が待っているので、適当な時間に様子を見に帰りますけど」と、ごまかした。
年末年始を目前に互いに忙しかったのも有り、課長に先に昼休憩を取ってもらうように声を掛けた。黙々と書類を整理していたことも理由の一つだが、今何か言えば、カイの事が完全にバレるだろうことを懸念したことも理由に挙げられる。課長もそれ以上は何も言わなかった。
「丹波、行っても良いぞ」
そう言って貰えて立ち上がった。
「それじゃあ、飯に行ってきます。と言っても家に戻るだけなので、何か有れば連絡ください」
書類を引き出しに片付けて鍵を掛ける。ロッカーにコートは入れているけれど、普通に走っても五分じゃ、コートを取るまでも無い。ロッカーに掛けようとした手を止め、そのまま執務室を出て、階段を駆け下りた。




