ぬるま湯の関係
二泊の間になんと、弁当朝食夕食各二回分、それに加えて、冷蔵庫に、ありったけの食材でできる限りの食事を詰めてくれた。二日目の帰りが満足そうだったのは、授業が楽しかっただけではないはずだ。
もちろん春久がありがたくいただく。
「今日は弁当ですか?」
「一昨日の夜にいろいろ作ってくれたので、適当に詰め込んできました。今日は家に戻る暇も無さそうなので」
昨晩カイと分かれて家に戻り、そのまま待機に入って書類をやっつけていた。が、そろそろ寝るかと思った頃に電話。徒歩十分ということで逆に常にそばに居るからと、結局電話指示で済んで、出勤には至らなかったのだが……。
朝も早めに出勤、夜のうちに仕上げた書類を再度確認して、出ている係長たちへの指示、当然自分ところの班長たちへも指示を出し、受付の対応は担当班長と課長に丸投げして外に飛び出し、後は昼からだと一旦戻り、昼食中。これが終わればまた、書類を上げて外に出る予定。
最近は目敏い一般人も多いようで、覆面パトカーを使っていようと、午後の一般的な食事時間以外の時間に外で食事をしていると、クレームが入る事があるのだ。昼の時間なんて走り回っていて、ちょっと時間がずれただけで? と思う。だったら昼に引っかかるような事件や事故を起こすな、と言いたい。けれどそれを口にも出来ないので、皆、極力、執務室に戻って食事を行う。外回りのパトカーや白バイたちは制服だから、余計大変そうだ。
そんなこんなで、春久たちもわざわざ事務所に戻って食事。けれど一時間の休憩時間など取れるはずも無く、食事を終えて書類を仕上げれば再び外だ。
「出てきます」
「お気を付けて」
そんな訳で、生活安全課の連中は全員、ほぼほぼ通常の倍近い業務をこなした結果、ボーナスの増額を課長が確約してくれた。歓声を上げるメンバーの中、春久もその一人として、課長に
「今年は二回程度に分けて忘年会ができると良いんですが」と、進言した。二回もやれば管理職の持ち出しも多くなるのだが、それは日頃の業務への報償の一つだとする。年に一度や二度の出費で全員が快く動いてくれるなら、それに越したことは無い。
十一月は二回目の大学だ。前回のことで鍵を渡しておいたので、到着すれば勝手に家に入っているだろう。時間的に余裕をもって春久は「体を動かしてくる」と言い訳して家まで走って戻り、車を職員用駐車場に置き換えた。そのまま知らん顔をして道場で体を解し、執務室に戻る。
カイにはきちんと、マンションの契約駐車場番号を伝えている。なので彼が到着するまでは、仕事と、鈍った体を解すための運動だ。
「丹波、今日はもう帰れ。お前も連日出ずっぱりだろう」
体を解して体調が整った後、書類作成に没頭していたが、課長に言われて時計を見る。十八時過ぎ……。
「今日は二十一時までやる予定にしていますが」
「休み明けにできる仕事は休み明けにしろ。お前が居ると他の連中も帰れないんだ」
そんなものなのか? ああでも、課長が言うのであればそうだろう。
確かに、日勤の係長たちもまだ残っている。むしろ班員たちの方が居ない。係長たちは皆、パソコンに向かっている。下を先に帰らせて自分は仕事。時間いっぱい外を走り回るメンバーと、その書類を片付ける管理職。春久も闇雲に走り回っていた時期が懐かしい。筋肉が脂肪に変わる前にきっちり体を絞っておかねば。彼らを見ながらそんなことを考えてしまった。
「判りました。そうします」
机の上を片付け、重要書類は、課長に渡す物と引き出しに入れて鍵を掛ける物とに分ける。ぱたぱたと片付けをし始めた春久に釣られたのか、他の係長や班長たちも机の上を片付け始めた。
「明日明後日、よろしくお願いします」
頭を下げて職場を出た。
カイが来るまでまだ時間がある。家に戻って大きなソファーに座り、久しぶりに教科書を開いた。全然勉強出来ていなかったのだ。もうすぐ中間試験。
ここ一月ほど、課員全員忙しかった。ようやく数日前ぐらいから、軽口を利いたり体を解したりするような余裕が、出来てきたけれど。書類が溜まる一方で……。
大きな溜息を吐いた。コーヒーでも淹れようと思ったのだが、それすら面倒だった。
カイが来るのだ、その前に部屋に掃除機だけ掛けて……と思ったら、次の瞬間、コーヒーの匂いが。まるで画面転換のような、瞬時に、時と場所の入れ替わりが、自分の身に起こった? それほどに唐突で、有るはずのない匂い。
ぼんやりと目を開けると、カチャカチャと音がしている。コーヒーの匂いの後は甘酸っぱい匂い。は?と、目を見開いた。急いで体を起こす。人の動きに気づいたのか、振り返った人物。当然一人しか居ない。
「来ていたのか」
「あ、おはよ。じゃないけどね。チャイム鳴らしたけど留守だったみたいだから、預かっていた鍵で入った。ハルさんが食材買っておくって言ってくれてたから、料理しておこうと思って奥に来たら、ハルさん寝ていたからびっくりした」
体の上から毛布が落ちていく。カイの部屋に置いていた奴だ。気遣って掛けてくれたのだ。
頭に手をやって、髪をバサリと掻き上げる。
「疲れていると思うけど、着替えだけしてきてね。後、お風呂の支度。ご飯食べたらお風呂入ってすぐ眠れるように」
「判った」
頭が働き始めると、料理の音が耳に飛び込んでくる。良いなぁと、鼻の下が伸びる。けれど、ぼーっとその姿を見ているわけにはいかない。彼も仕事を終えて長距離走った上で、料理までしてくれているのだ。風呂の支度と、カイの部屋に掃除機を掛けねば。……と思ったけれど、時計を見ればもう二十二時! どうやら三時間ほど寝ていたらしい。チャイムやカイの入ってきたことも気づかないなんて、熟睡していたようだ。掃除機は明日だ。
「夕食は消化の良い物にしたからね」
「助かる」
返事をし、カイが淹れてくれたコーヒーを飲み干して目を覚ました。
風呂の支度をした、後は断りを入れてカイの部屋、布団だけ敷いてきた。これでカイもいつでも眠れる。彼も疲れているはずなのだから。
味のしっかり付いた雑炊と煮物。物足りないかと思ったのだが、案外満腹になるものだ。夜も遅いので胃に負担を掛けない物。米は仕掛けて明日、早めに起きてむすびを作ってくれると言う。おまけに朝と昼はがっつり食べられる。カイの車は駐車場に停めておいて、春久が職場に車を取りに行き、明日はそれで移動する。
「忙しかった?」
聞かれたので素直に「走り回っていた。ようやく息抜きができる。月曜の朝まで完全休日だが、それが終わったらまた走り回る。後は書類も仕上げないとだ。お前のお陰で息抜き出来て、力も貰えるんで本当にありがたい」
答えればカイも「無理しないで、体を壊さないようにね」と、心底心配してくれる。
「お前の方はどうなんだ? 仕事やら仕事場の人間関係」
「普通? 自分のペースでやれているから大丈夫」
自分のペースやり方で成果を出せているのであれば、優秀ってことだ。カイの職場も人事異動が有るぐらい大きいので、その中での同僚の当たり外れは有るだろうけれど。今は大学卒でも、入社したのが高卒だったので、職場では高卒扱いのままらしいけれど、自から勉強もする、そのことを見てくれている人もいるはずだ。いつかきっと、カイの武器になる。
カイとの関係はぬるま湯に浸かっているようだと思う。手を伸ばせば届く距離に居てくれるけれど、触れるには理由が必要だ。一緒に居れば楽しいし、笑って話して、料理されたものを食べて、力を貰える。けれどそれは限られた時間の中。決して春久の自由裁量にはならない。「一緒に暮らさないか?」と口にしたいけれど、そうすれば逃げられる。なかなかに手強いのだ。
「そうだ。大塚さんの奥さんの知り合いが、猫が産まれたんで引き取り手を探しているらしい」
「え? そうなの? どうして、大塚さんの奥さん?」
大塚が、引っ越しの後で戸野原と一緒に来て、部屋の中を一回り見渡した。北の部屋をカイと猫部屋と言っていたからか、奥さんの知り合いがと話を持ってきたことを説明する。
「生まれたばかりなんで乳離れするまでは無理だが、生後三ヶ月ぐらいになれば引き取れる。その気があるなら子猫の写真を持ってくると言っていた」
「猫……子猫の面倒見られるの?」
「見るのはお前だ。小さい間は毎週来て貰う必要が有るな。まあ、そうなったら俺もできるだけ家で書類を仕上げるよう、課長と交渉するつもりだが」
とはいえ、警察官がゆっくり在宅なんて無理な話ではあるけれど。
「可愛い?」
「母親は長毛種だけど父親は短毛らしい。子猫は茶色と白と灰色だそうだ。写真貰うか?」
「ハルさんが忙しいときは無理だよ」
一番手が掛かる時期に面倒を見られないのでは、飼うなんてとても無理だと、カイは心配する。
「後一月、せめて今年中には落ち着く。それ前提で、職場には忘年会をしようと声を掛けておいた。当番があるから二回に分けてだ。お前、正月こっちに居られるなら、可愛い盛りが見られるぞ」
忘年会は春久にとっての願望込みだけれど、その願望は課の全員に共通している。
「お正月かぁ。年越しキャンプしたいと思っていたんだけど。後はドライブ。秋のうちに長距離ツーリングも……って、そっちはソロで行ってくる」
春久も付いていきたいが、今の仕事が落ち着くまでは無理だ。今回は大学だからと無理を言った。その代わり、今回の事件が落ち着くまでは後は休み無し。表向きの休みはあるけれど、待機だ。
でも、正月に年越しキャンプ。毎年、初日の出を見にソロツーリングをしているカイにしては、珍しい。
「どこに行くんだ?」
「去年行った、初日の出の見える海岸のキャンプ場」
カイがこんなところも有るよと、紹介してくれた場所だ。あいにく秋のキャンプが出来そうにないので、今年は断念した。そこに行くと言う。今回は正月の朝走るのは止めて、大晦日からどっしりと腰を落ち着けるつもりらしい。
「却下して良いか?」
「ダメに決まってる。ハルさん仕事なんだから」
「なんでみんな大人しくしてくれないかなぁ。朝通勤して書類仕事だけ仕上げて、何も無かったからと定時で戻れるような」
「そうなったら警察要らないって事になるよ」
痛いところを突っ込まれた。けれど確かに。警察官が不要な世の中か。それも良いな。理想論ではあるけれど。
「片付けするから風呂に入ってこい」
「判った」
あっさりと立ち上がるカイ。もちろん話はいつでもできるし、二人とも朝から長距離ドライブが待っている。その後みっちり授業を受けて戻り、食事、予習復習、翌日もまた、移動、授業、移動、二日目の夜にはカイに至っては春久よりも二時間も長く移動する。本当はその日も泊まりを提案したかったのだが、春久の「戻ってすぐに待機」の予定が、出勤を伴いそうだ。そんなときにカイに泊まれと言っても遠慮するだろう。
こんなに仕事が詰むとは思っていなかった。むしろ、課長が「大学だろう、行ってこい」と言ってくれたことが、本当にありがたかったのだ。場合によってはキャンセルする必要もあった。もちろんその時でもカイには家を使えと言うのだが、多分、彼が遠慮する。そういう奴だ。
忙しさも相まって、心から癒やされたいし、だったら正月からキャンプに行かず、この家で猫と戯れていて欲しい。その様子を見れば、絶対にほっこり癒やされるはずなのだから。




