蓑虫
食事の片付けは春久が行う。その間にカイはテーブルの上を拭いてから、既に届いていた次学期の授業資料を取り出した。
「ソファー、ベッドにするのか?」
「後で良い」
ソファーの隅、肘掛けと背もたれに体を預けて両足を抱えるような格好で、膝の上に資料を置いてめくる。その姿が片隅で丸まっている猫のようだ。
「ほらお茶」
洗い物を終わらせ淹れ直したお茶をテーブルに置けば、すぐに顔を上げて春久を見、「ありがと」と、コップに手を伸ばす。それも、可愛い。
なので春久はソファーの反対側に座って、テーブルに自分のコーヒーを置いた。いつもは大抵向かい合っているので、こんな風に隣に座るのは新鮮だ。三人掛けのソファー、間に一人分、ぽっかり空いているけれど。それで気づいて、部屋からカイが見ているのと同じ大学の資料を持ち出し、再びソファーに座った。仕事に追われていて、なかなかゆっくり見ている暇が無かったのだ。通学を伴わない授業は後で良い。まずはカイと一緒に動ける授業。
ページをめくり、時々ページの隅を折る気配。春久は、付箋紙をカイの足下近くに置いてやり、自分も別の色を手に持った。気になったものに付箋を貼り、そこから不要なものを剥がしていくのが春久のやり方。
「受けたい授業はやっぱり日程が重なるよね」
カイの受けたいというのは大体判る。相変わらず授業傾向は似ているから。
「県外か県内か」同じ日程ならどちらを優先するか。
「県外二つだよ」日程が重なっているのは。
「は?」
急いでカイの手元を覗き込んだ。肩を抱けるほど近く、けれど触れない。カイは春久を信用して逃げる気配が無い。
「これとこれ」
「そこは未確認だ」カイの資料をめくって「こっちはどうする? 同じ日に」再び別のページ「こっちもあるが」
「こっちはまだ見てなかった。全部見るまで待ってて」
「判った」
素直に体を引いた。自分の資料に目をやりつつ横目でカイを見れば、抱えた資料をチェック。少しも変わる様子が無い。逃げられるのは困るが、全く意識されないのも少しばかり悔しい。少しだけ意識させて、目元を赤くさせてみたい。少々のいたずら心。
けれど、翌日からキャンプに行くのに不自然に距離を取られると、それこそ戸野原に勘ぐられる元だ。戸野原は鋭いのだ、いろいろと。その戸野原が、カイを大事にしてやれと言う。言われなくても大事なのだが、言われれば身が引き締まる。
「何?」
カイが春久を見ている。つい、見つめ過ぎたらしい。
「いや。明日からのキャンプについて考えていただけだ」
お前を見ていたわけではないと言い訳するのは簡単だけれど、なんとなくカイが傷つきそうな気がするので
「明日からの山。お前が教えてくれたお陰で戸野原さんの長男が進路を決めて、明日からの休みを確保するのに大塚さん走り回っていたけれど、楽しみだから苦でもないと笑っていたなとか。そんなことをぼんやりと考えていた。授業計画の方が先だな」
と、少しだけ言い訳じみて、手元のパンフに目を落とした。
授業日付と開催地を書き出した。互いに見落としていた点や注目点も。
春久が面白そうだと興味深く見ていたものは、連続した土日でなく二週続けた土曜日二回。カイに指摘されて気づいた。だったら残念ながら却下だ。春久の場合は絶対にそんな形の休みが取れない。
「次回の開催に期待だな。お前だけ行くか?」
「行くならこっちにする」
カイが指さすのは、春久も考えていた授業。さきほどとどちらがと悩んだ奴。
「こっちに行くか」
隣り合えば、相手の手元を覗き込むために肩が触れあっても、カイは逃げない。肩が、暖かい。ああ、こんな人の温もりも忘れていたんだと気づいた。
「カイ、悪い」
「え?」
隣からカイの肩を思いっきり抱きしめた。
「ハルさんっ!」
カイの焦った声、けれど春久をふりほどこうとしない。ただ戸惑っているだけ。
「このまま。なんか、あれこれ疲れていたんだって、漸く知った。お前がこういうの苦手だってことも判っているけど、少しだけ弱音吐かせてくれ。明日からは今まで通りふるまえる」
「ハルさん、離れて」
ああ、カイの負担になったか。仕方が無い。腕を緩めて体を起こしつつこれは落ち込みそうだと思った途端、少し距離を取ったカイが、春久の肩を捕まえた。
「え?」
そのままバランスを崩して、横たわる。
「毛布掛けるの手伝って」
カイの手はソファーの背に無造作に置かれていた毛布を引っ張り、それを春久に掛けようとしている。足側には肘置きがあるから足を伸ばせない春久は、少しだけ足を縮め、そのまま毛布が体を包んだ。
「たまになら弱音聞いてあげるよ」
頭が温かい。カイの膝枕だと、気づくまで数秒。良いのか? カイの手が毛布の上から春久の肩を撫でてくれている。ああ、ホッとする。
「弱音というか、温もりとスキンシップに飢えていたんだって思っただけだ。いい歳の男が」
「いい歳の男だから、誰にでも触るわけにはいかないものね。ストーカーの事もあったし。ヘタに触るともっと酷いこともあり得るものね」
ああ、そういうことだ。結婚は、べたべた触っても問題無い相手が常にそばに居てくれて、精神安定剤になってくれると言うことだ。結婚すればカイとのこの関係も変わるだろうが、一緒に遊べるならそれでも良いし、もしかしたら今抱いている、弟を見守っているような気持も薄れていくのかもしれない……。
「朝起きたら、蓑虫が一匹できあがっていました」
休みを確保するための連日の激務に疲れていたのか、人の温もりと、カイに触れて逃げられなかったという安堵が勝ったのか、春久はそのまま眠っていた。ただそれで熟睡していたとはいえ日頃から不規則な勤務の常、早く眠ればその分早く目が覚める。頭の下の温もりは消えていた。明かりも消されていて、立ち上がってカーテンを開けた。
夏の朝は早い。うっすらと明るくなっている空。ああ、絶好のキャンプ日和だなと室内を振り返れば、ソファーの背もたれ側、間違えても春久が踏まないだろう場所を選んで、大きな蓑虫、もとい、カイが寝袋に丸まっていた。
悪いことをした。カイの寝床であるソファーを春久が占拠してしまった。
「なんなら添い寝してくれても良かったんですけど」
ぼそっとこぼせば、戸野原にげんこつを食らった。彼のげんこつは戒めの意味が大きいので、痛くは無いのだが。
「それは本人に言えばどうだ? 欲求不満の塊のようだぞ」
「俺だって、ここまで人恋しくなるなんて思ってもいませんでしたよ。受け入れてくれる存在だと思った途端、です。三十にして惑ってます」
落としたげんこつが、暖かな手となって春久の肩を叩く。
「お前が気づいていないだけで、秋津君もお前に心を許してるよ。何年の付き合いだ? 八年もあれば小学生も中高生、中学生なんてヘタすれば社会人だ。欲しければ上手くやれ」
それでぽんぽんと春久を叩いて立ち上がる。そのままテントを抱えて奥さんや子どもの方へと向かった。
戸野原は、男同士が付き合うことに対しても偏見が無い。もし春久がカイと付き合うなんて言い出しても応援してくれるだろう。当然ながら女と付き合う、結婚するとなっても歓迎してくれるのだけれど。子どもでも出来れば、喜んで面倒見てくれる。
判っているのだが、誰かと付き合いたいと思わない。もし付き合うなら、カイが良い。けれどカイはいまだに人を怖がる。なのでやはり誰かと付き合うことは無いと思う。ただ、カイの膝枕は心底幸せだったのだ。
「秋津さん、秋津さんのテント、今日も連結する?」
戸野原の息子が、カイのテントのフライを預かりつつ、問いかけている。冬場のときにドームテントとくっつけてそちらで料理などをしていたことを覚えているからだろう。荷物を運ぶために開けた車の荷台に、戸野原と二人座って話をしていた春久も、立ち上がり、大きな荷物を持ってそちらへ向かう。カイの蓑虫が可愛くて誰かに話したくて、到着してすぐに戸野原を掴まえて吐きだしたけれど、これから本格的な設営の手伝いだ。
「今日は荷物置き場にするから、単体で大丈夫。急な天候の変化でも慌てずに済むからね」
夜露やら急な雨とか。荷物を持って急いでテントに放り込んだり車へ往復したりと、バタバタせずにすむのが一番だ。荷物を置くだけならタープでも良かったのだが、そこは、夜間閉めきることによる防犯対策、だ。
「判りました。どこにします?」
「ハルさん、どこが良い?」
テントを立てる予定の場所には、グランドシートを広げている。春久の役目は、重いドームテントを一番広いシートに持っていき、カイを手伝ってテントを立てた後は他の重い荷物を運ぶために車との往復で、一人用のテントなどは戸野原の息子たちがカイと一緒に組み立てる。大塚の妻はあれもこれもやってみたいとのことで、大塚の子どもたちは戸野原の奥さんが見る。
「カイ。先にこっちのテントを立てるぞ。全体レイアウトはこれで良いのか? 直すのなら今のうちだぞ」
「大丈夫。これなら大塚さんの子どもをみんなで見ていられると思う」
駐車場から近い順に大塚、戸野原夫妻、それから戸野原兄弟、春久とカイのドームテント、カイのフライテントと、五つのテントで弧を描く。大塚の子どもたちには、テントの輪の中だけで遊ぶように言えば、大人たちの誰か彼かは彼らを視界に捉えている。
「入り口は真ん中に向ければ良いですか?」
戸野原兄弟のテントは弟が頑張るようで、カイのソロテントを兄が受け持つと、張り切っている。
「それ、両方から出入りできるから、少し斜めにして、後ろ側をドームテント側に向くようにしておいて。その方が死角が無くなるし、いざというときの俺の避難場所」
「避難だ? 何から避難するって?」
その場合、カイと同じドームテントを使う春久からということになる。何か逃げられるようなことしたか?と不安になりつつもそれはおくびに出さず、少し睨み付けるようにして問いかけた。
カイはにこっと笑う。そして助け船を出したのは戸野原。
「荷物入れにするなら、秋津君が入る隙間なんて無いだろうが。冗談言われたぐらいで目くじら立てるな。秋津君も、そいつは今色々いっぱいいっぱいだからな。仕事もそうだが、自分が被害者になるようなことまで。後は、大塚君が付きまとっているらしいし」
「付きまとってませんよ。リーダーの補佐をしたくて仕事探しているんです」
大塚が戸野原に応えて。
「でもまあ、丹波さんが忙しいのは本当だよ。引く手あまたで、課長が居ない時は席を温めているけど、むしろ丹波さんが居ない時は課長が代わりに席に居るって言われているぐらいだ。後は付きまといと変質者。春先からこっち、所轄全体でもそういう手合いが増えて、丹波さん、手が足りない係長たちの補佐までしているから、食事をしながら、家に帰りたいってぼやいている」
と、カイに向かって。その話を受けたのは戸野原で
「家でゆっくり眠りたいってことか?」
「家に戻ると手作り料理が待ってるって」
「大塚さん!」
それは事実だけれど、カイの前で言われると……。戸野原は春久を見ている。
「いや、だってそうでしょう?」
と言葉を濁せば戸野原はカイに視線をやって
「秋津君が付き合ってくれれば息抜きできるようなので、これからも頼むよ。このキャンプだって、秋津君の影響だろう? 俺としては弟分が潰れないでいてくれて、志の高い警察官がいてくれると安心して暮らせるからな」
「それは思う。うちもキャンプの日程決まったと教えたら、子どもたちも大はしゃぎで。何も言わなくても夏休みの宿題頑張ってくれるし、戸野原のお兄ちゃんたちが星が綺麗だって言うから、それを自由研究にするんだって張り切ってる。良い趣味を教えて貰ってありがたい」
戸野原と大塚から絶賛されて、カイは少し照れて、春久の後ろに隠れ気味。
「さっさとテント立てて料理に取りかかるんだろう?」
そう言って背中側から引っ張り出し「テント立て終わったら残りの荷物も取ってくる」と、その背中を叩いた。




