指輪効果
「気分転換は出来たか?」
朝、課長に顔を見られるなりそうやって聞かれた。
「バーベキュー、美味かったです」
「だったら、本格的に始動できそうだな」
「はい!」
夏まで目の回るような忙しさ。通常業務に加えて管区にリーダー訓練に、それから課長が主催してくれた、災害時特別班丹波班のメンバー全員集めてのキックオフ兼早めの暑気払い飲み会。
大塚がビールジョッキを持って、春久の隣に座った。アルコールが入れば、座は砕けてくる。そもそも大塚は今回のメンバーの中では、春久の副の立場で動くことを明言した。実際に年齢も役職もそれに見合っている。だから二人が近くで話をしていても、特に耳をそばだてる者はいない。
「指輪の効果、凄いですね」
「何が?」
「以前話したじゃないですか、指輪して結婚を明言してもストーカーに遭った警部補。まあ、確かにそういった節操の無いのもいるんですけど、さっきから丹波さんの指輪見てがっくりしているのが多いんですよ。常識人はそこで諦めますよね」
「そうなんですか?」
「丹波さんは災害時特別班のリーダーたちの中でも一番若くて唯一の独身ですからね。けっこう狙われていますよ。俺も、丹波さんを紹介してくれと言われていたのも多くて。当然断っているんですが」
そこで大塚はビールに口を付けて、一呼吸置いた。
「そうすると今度は指輪の相手がどんな人か知りたいって言うんですよ。丹波さんの補佐をするぐらいだから聞き出せるんじゃないかって。言って良いですかね?」
「何を?」
「もちろん、丹波さんの指輪を選んでくれた人です」
「いや、それは」
課長が近くで聞いている。
「大塚君だったか、丹波の通い妻、知り合いなのか?」
大塚の声を耳にした課長が、大塚に話を振ってきた。当然そうなる。
「通い妻? へえ?」
「丹波のクッキーの主だ。マメに通って料理をしてくれてるお陰で、多少夜勤連勤が続こうが、やつれもしない」
「へえ。そうなんですね」
大塚の口元がニヨニヨしている。
「それは課長が勝手にそう言っているだけで、俺は否定している」
咳払いをしながら。確かにカイの料理に助けられているけれど、通い妻は止めてくれとさんざん頼んでいる。効果は無いが。
「良いじゃないですか、通い妻。とは言え俺は、三度ほど会って、初対面のときは妻がか……の女を泣かせてしまったんです」
彼から彼女に言い換えた。大塚は周囲の耳を気にしたのだろう。特に課長が「通い妻」と、性別を表すような言葉を口にしたから。ただ、課長にはカイが男だと知られているのだ。そのことを大塚には伝えていなかった。
「うちの妻と年はさほど変わらない、向こうが二つぐらい下なのかな? 純朴で、料理上手でよく気づく人ですし。丹波さんとは共通の趣味も有るし、勉強熱心なところも似てるってことで」
「大塚さん」
「会っただけじゃなく、よく知っているのか?」
「民間人も含んだ家族ぐるみのキャンプで、ご一緒させていただきましたから。前回はうちの妻がキャンプ料理のこと、道具のこと根掘り葉掘り聞くものだから、引き気味だったのも知ってます。妻が懐いてしまったようなので、慣れてもらうしか無いんですけど」
夏前のデイキャンプ、大塚の奥さんがカイにキャンプの時に必要なものはと、メモを片手に迫っていた。戸野原の息子たちが間に入ってくれたので、カイは少し及び腰ではあったけれど、話をしていた。
「止めてやってください。あの日はグロッキーで、片付け放棄してソファーに沈み込んでましたから。途中まで見送り兼用で夕食食わせて帰らせましたけど。あいつのキャンプ道具、全部うちに放置で部屋の隅に置きっ放しだったのを、先日来たときにようやく持ち帰りましたよ」
大塚の妻に迫られると、カイは半端なく体力を消耗する。デイキャンプでたいした荷物が無くて、本当に良かった。
「そこまでだったんですね。それは悪いことをしました。了解です。もう少し押さえさせます」
「押さえられるか?」と、ぽつりと口にしたのは聞かなかったことにする。
「で、先日来たというのは? お前からクッキーの差し入れが無いと、来たのかどうかが判らんからなぁ」
課長がニヤッと笑う。いや、わざと持っていかなかった。
「有りますよ。ただし今回は少量なので、家に置いてます」
タマゴ一個分だけ、味はプレーン一択。なので春久が全部食べる。
「いつもは料理で残ったタマゴやら小麦粉やらを、次回いつ来るか不明だから使ってしまうと言うのが口実で、大量に作ってたんですが、今回は……明日また来るので」
なんだこれは。羞恥心を試されているのか? 友人が来るというだけなのに、隠していた本が見つかったような、そんな気恥ずかしさが沸き上がる。もう、そんな年でも無いのだが。
「ああ、大学か」
課長があっさりと。春久の頭が冷えた。そうだ。大学の事は課長も知っている。冷やかされる事は無いのだと、安心した。
「そうです。前泊で、明後日と明明後日の大学に、ツーリング兼ねて一緒に走ります。その後は、大塚さんも含めての夏山キャンプまでは足が遠のきます」
最近、戸野原といい、大塚の先ほどの言い方といい、なんとなく外堀を埋められているような、そんな空気がひしひしと感じられていたから、邪心は無いのだと知れて肩の力が抜けた気がする。
「うちもテント買うので、またお休みの時にでも相談に乗ってください」
そう言って大塚は離れていった。女に掴まっている。ちらっと春久の方を見て何か話しているようだから、先ほどカイの事を話して良いかと言ってきた件かと想像が着く。話して良いとは言っていないが、どう判断するかは大塚に任せるしかない。
翌日、課長が春久に包装された箱を渡してきた、ずっしりと重い。
「なんですか?」
「調味料セットだ。お前の通い妻に、いつもクッキーの差し入れ貰っているんで早めの中元だ。もう少し早く来るのが判っていれば、菓子セットがあったんだが、そっちは賞味期限が短いから配ってしまったんだ。これなら大丈夫だろう」
「え? そんな、お世話になっているのはこちらですが」
「だから、お前じゃなくてお前の通い妻に、だ。お前の事を世話になっているからな。ちなみに、それは昨年末に貰った歳暮のお裾分けで、熨斗が入っているかも知れないが、目を瞑ってくれ。うちでも使わないんで、お前の通い妻なら使えるだろう」
「あ、では有りがたく」
「で、昨日聞きそびれたが、通い妻、年はいくつだ? お前より年下だと言っていたはずだな」
目が、泳ぐ。
「ご、五歳年下です」
「可愛い年頃だな」
視線が集まる。もちろんカイが可愛いのには賛成する。けれど、それをここで口になどできるはずがない。
「ノーコメントで」
「交通課の大塚班長、彼も口が硬いな、結局お前の許可を貰っていないからと、お前の通い妻については一言もしゃべらなかったと、交通課の連中が俺を突いてきやがった。警察官としてはかなり優秀だ。突いてきた連中には本人に聞けとは返したが。お前はしれっと流せるようになっておけ。それも修行だ」
「りょ、了解しました」
「ええ? 酒の席で丹波長の相手、話が出たんですか? 是非とも伺いたいな。どうです? 今夜でも一杯。待機無しですよね?」
「今日は勘弁。明日明後日と長距離移動が待っているので。ああ、月曜にも、今度は管区への移動が、ということで数日移動続きになりますので」
「それじゃあ、始業の会議始めろよ。丹波、それが終われば、こっちを頼む。俺は副署長のお着きで市役所に行く」
「了解しました」
中央エリアの班長は二人だから、話は早い。週末なので全体的な話も無い。すぐにそれぞれの担当に別れた。
「お疲れ。先に帰るな。丹波、お前今日人が来るんだろう? さっさと帰れよ」
課長に声を掛けられ、時計を見た。十七時……。春久は今日は十八時までの勤務だ。早めに出てきたからと言って、終わりは変わらない。
「後一時間でこの辺りを終わらせないと、月曜から管区なので」
「終わったら早めに帰れよ。外で待たせるのか?」
「あ、いえ。家の鍵は渡しているので。それに買い物も済ませているので、料理しているかと」
「へぇ」
他の係長たちがニヤニヤしている。
「今回は、早めに判っていたので。いつもは鍵を渡すようなことはしませんよ」
思わず言い返していた。
「それを流せるようになれと言っているんだ。お前も、そこは擦れてないからなぁ。だから、ストーカーに付け込まれるんだ。結婚する気が無いのはいい。ちゃんと良好な関係を築いているんなら。ただ、流せるようにしておかないと、いつまでもからかわれる元だぞ」
「気をつけます」
確かにそれは耳が痛い。
「ただいま」
返事が無い。その前に明かりが点いていない?
課長の言う通り、定時で上がった。なのでカイを待たせるようなことはしていないはずだ。荷物も無い。まだ、到着していない?
それで思い出した。カイも今日は仕事だ。仕事が終わって飛んできても、二時間は掛かる。むしろその距離だからこその前泊なのだ。
「抜かった」
仕事から帰ってきたら、暖かな湯気の立った料理の匂いと共に寄せられる「お帰り」の声なんて、独身男には夢のまた夢だ。……もっとも、カイが来てくれるようになって、時々味わえたからこそ余計思ってしまうのだろうけれど。あれが聞けると思って飛んで帰ってしまった春久は、まだまだ未熟だ。
仕方が無い。カイが来れば食事をするだろうから、何か作ろう。材料だけは買ってある。




