ダミーの理由
電話の音で目を覚ました。目を開けると、外の明るさが室内にまで広がっていた。スーツの上着はハンガーに引っ掛けておいたが、ズボンはそのまま、おかしな皺が入っている。
「はい、丹波です」
「お前どこに居るんだ? 夜、執務室には顔を出していないって聞いたが」
「一階の……男子用仮眠室が空いていたので、そこに潜り込ませてもらいました。他にも屍累々ですけどね」
少なくとも、他の男たちが寝転がっているところに、さすがに女は入って来られるないだろう。
「ああ、ちょっと上がってこい」
「判りました」
時計を見ればまだ八時前。課長はすでに出勤しているようだ。
「ひとまず顔だけ洗って行きます」
仮眠室には使い捨ての歯ブラシやひげそりも置いている。緊急でそこを使うようになった場合、それらの用意すら無い場合が多いからだ。後ほど、課に請求が送られる。それを課で支払うか自分で支払うかは、課長の裁量だ。今回は……春久の個人的理由なのできっちり自分で払う。けれど、庶務には言付けたくない。請求書は庶務に回ってくるのだけれど。
つい、重い溜息を吐いてしまった。
課長は自分の席に居た。庶務はまだ誰も出勤していない。安堵の溜息を吐いて、課長の下に。
「おはようございます」
「おはよう。ヨレヨレだな」
「そうですね。整髪料も無いので、一度家に戻りたいですけど」
「まあ、もう少し我慢しろ。後で誰か付けてやる。万一食ってかかられてもいなすことのできる……女子が良さそうだな」
「まさか自分の身にこんなことが起きるとは、です」
「ダミーの指輪付ければどうだ? あれだ、ペアリングって奴。そうすりゃお前が売約済みだと判るだろう」
「それで諦めてくれるなら」
「虫除けぐらいにはなるだろう? まあ、誤解されたくない奴にまで誤解されるかも知れないが」
少しにやついているのは、カイの事を示唆しているのか?
「で、だ。人事と交渉した。契約終了、普通は一月前通告だが、今回は相手の引責で即日解雇も可能だ。後は一月分の給与を払ってのお払い箱。ただし、人事に対しての理由付けが必要で、被害届を出していないので立件出来ない。お前が俺の事を気にして事を荒立てたくないと言ってくれていることも聞いた。被害届出して良いぞ。一月の猶予を取れるなら穏やかな方で、顔も見たくないって言うなら、キツい方で」
「俺は課長に頭を下げさせたくないんです。庶務の臨時職員なんて、課長の裁量じゃ無いのに」
春久がこの所轄に来たときも、春久の前任者の不祥事を鎮火させるためだった。これ以上、ここで不祥事案件が広がると、本当に課長の経歴に傷が付く。全体の士気にも関わってくる。
「当たり外れはある。それを併せ飲んでこその管理職だからな。お前のような大当たりを引いた付けだな」
課長はそれで笑う。春久は頭を下げ、自分の席に着いた。そこに、交番から上げられた今回の資料が置かれていた。交番も速攻で処理を回してくれたようだ。
「後は、公安にも通達してるからな。古い連中には、女じゃあるまいしと言うのもいるが……。そんな問題じゃない。むしろ女につきまとわれた方が危なかったりするんだ。連中には自分がつきまとわれたことが無いからと言って、被害者の心理も慮れないような奴に上司の役目は荷が勝ちすぎてるだろうと、言ってやって良いかもな」
課長、黒いものが滲んでいないか? ああ、悪意に曝されると悪意を返したくなるよな。その心理は判る。特にストーカー事案は生活安全課、春久たちが担当する分野だ。それに対してやいのやいのと言われたら……。
「課長がこれ以上矢面に立つことは無いですよ。俺も管区に知り合いも出来たので、そちらから突くことも覚えました」
「そうだったな。早急に被害届を出してくれ。資料はそこに有るのを使え。庶務の課長には、今日から出勤停止にしてくれと伝えている。万一来てもすぐに帰らせる」
「ありがとうございます」
ついでに春久は、昨日電話をしてきた相手に目をやった。まだ仕事は終わらないけれど、そわそわしている。春久は立ち上がり、課長に一言断って別室へと誘った。課長に断りを入れたのは、少なくとも他の係長の下、だからだ。
わざわざ訪ねて来た人への善意からの行動であるだろう事は判るし、勤務時間外の人間を中に入れたのは守衛だ。なのでそのことは不問にするが、春久たちは現場に出ていることも多々有る、今回の連絡は離席している相手に対して必要な内容だったのか。それらを問いかけていると、ドアがノックされて、すぐに開いた。
春久も目の前の男も立ち上がった。
目の前の男の上司だ、男は「おはようございます」と、きっちり挨拶をする。
「昨日はありがとうございました」
春久が頭を下げる。
「いえいえ。下の宿直室で寝たって聞きましたよ」
「はは。まあ」
「今回の事に限らず、なんでもほいほい請け負っていたら、自分だけでなく他の人の迷惑にもなるからな。特に我々は警察官だ。権力だって持っている。お前は、自分で判断して、断ることも覚えないとなぁ」
係長が男の肩を撫でて言うから、春久も頷いた。
「それが良い。係長が来てくれたので俺からの話は終わりだ。当直、ご苦労様」
「詳細、話して大丈夫ですか? こいつに」
「構いません。状況を知らなければ、どうして叱られるのかの判断も難しいでしょうし」
「判りました」
それで春久は二人を残して部屋を出た。他担当の係長に叱られるのでは彼の外聞も悪い。また係長も、自分の下が他の係長に叱られては体裁が取れない。
部屋に戻れば課長が
「丹波、俺が家に付き合ってやるから、戻って着替えろ。それでもってそのまま本庁に行け。詳細は歩きながら話す。下の車は押さえた」と。
何から何まで手早い。これが課長と呼ばれる人の手腕かと感心する。
「丹波警部補、五分」
庶務の係長が出てきた。ちらっと課長を見れば頷かれたので、春久も頷いた。五分なので、そばのソファーに向かい合って座った。
「申し訳ありません」
いきなり謝られた。
「うち(庶務課)の課長からの伝達を聞き、先ほど出勤停止を言い渡して、家に戻しました。どうしてだとごねられましたが、こっち(生活安全課)の課長からも、人事からの通達だと、それだけで良いと言われたので、その旨で。業務上知り得た個人情報を使って家に押しかけたと聞いて、本当に申し訳ありませんでした」
「まあ、それに関しては、他の人が止められる話でも無かったでしょうし。メモを取られて知らん顔されれば、気づくことも出来ないはずで」
「身元調査はきちんとしたはずなんですが。元警察官だというのが油断に繋がったのか」
「課長とも話をして、いったん警察の紐付きを外そうと、そうすれば被害届出してストーカー禁止法を使えるじゃないですか。まあ、いざとなったら引っ越しです」
「申し訳無いです。本当に」
「いえいえ。私も被害者の気持ちを知ることが出来たということにしておきます。課長も、今回の件、悪いのは人事だと言い切るつもりですし。庶務にはいろいろお世話になっていますからね。
二、三日もすれば、今回の件について少しオープンにできると思います。それで自浄作用も働くようになるかもしれません。ギスギスさせるつもりはないんですが、悪いことは止められるように」
「そうですね。なにせ新年度始まって早々なので尚のこと、今後のためにも」
春久が立ち上がると、相手も立ち上がり、それぞれの席に戻った。
「と、言うことがあったので」
春久が話す相手は戸野原。大塚たちと夏前のデイキャンプ中だ。
「で、それが指輪か? 秋津君に選んで貰った」
戸野原が、春久の右手薬指の指輪を示しながら聞くから、春久は頷いた。シルバーに、小さなルビーが一個、埋め込まれている。
「俺の趣味じゃ無いものが良いなと。おまけに男一人で宝石店に行くのもだし。人の奥さん借りるわけにもいかずで」
カイに、課長に早急に指輪を付けろと言われたのだと訴えた。かと言って春久にアクセサリーの趣味は無い。なので困っているのだと。案の定「俺に判るかどうか判らないけど、一緒に行こうか?」と聞いてくれ。後はいつもの郊外のショッピングモール。
男二人で立ち寄ったからだろう、店員が怪訝そうな顔をしていたのは気づかない振りで、
「あくまでも業務命令の一環、ダミーだから、高くなくて良いんだ。高くない方が懐には良い。その分キャンプ道具につぎ込める」
と口にした。
「さすがにストーカーは嫌だよね。指輪が付いていれば防げる?」
「少なくとも恋人が居る風を装えれば。実際に居なくても、指輪が付いていればそう解釈してくれるだろう?」
「そうだよねぇ」
二人のそんな会話を耳にして、店員も納得した顔でいくつかの指輪を見せてきたが。そんなに顔に出していたら接客失格だろう?
店員の態度はカイも気づいていたのか、持って来られた指輪には目もくれず、少し離れたショーケースに行ってしまった。
「ハルさん、こっち」
カイが示したのは銀コーナー。少し幅広で飾りも無いシンプルなわっかに、小さな宝石が埋め込まれている。そばに写真で、宝石の色が違うものも掲示されていた。
「これなら石の色で雰囲気選べるよ」
「そうだな」
その中で何となく選んだのが赤、だ。赤は春久にとってカイのイメージカラー。
「ハルさんは青の方が合う気がする」
「だったら尚更、他の色の方が、相手のカラーだと思われるだろう?」
「あ、そうかぁ。確かにね」
「サイズの他に幅も調整可能です」
「いや。幅はこのままで。中の宝石を赤で」
サイズ直しもしてもらって万札で釣りが来る。さすが銀。その代わり、プラチナと違って手入れを怠るとすぐに黒ずむようだ。まあ、そこは少しだけマメに磨く必要が有るのだが。逆に柔らかいので、経年劣化を装うこともできる。




