膝枕
家に戻ったソルトは、キャリーケースから出るとぱたぱたぱたと走って、キャリーケースと一緒に持ち帰り、定位置に置いたばかりのトイレに。戸野原のところに預けるときに、トイレは持って来いと言われて一緒に預けていたのだ。そのトイレを使っていたはずなのだが、やはり自分の家と自分の場所が安心なのだろう。
冷凍室を開け、ソルトのおやつと春久の朝食分を冷蔵室に移しておいた。カイの食事を見ると、ホッとする。ああ、家に戻ったのだと、実感もする。
冷蔵庫を閉めて振り返り、ソルトがまだトイレで頑張っているのを見て、まずは自分のスーツを脱いだ。それらを部屋に放り込む。ソルトがそわそわしているから、できるだけ見えるところに居てやろうと思う。翌日からまた日中は留守にするのだ。
ザガザガと砂を掻く音。トイレが終わったようだ。掃除をしてやる間にキャットタワーを駆け上り、一段目に置いている毛布の上で丸まる。
ようやくエアコンも効いて、少しずつ室内も暖まってきた。ソルトの様子を見つつ、トレーニング。すっかり体が鈍っている。一時間も続けていると、ソルトは完全に眠ったようだ。猫は部屋に付くと言うけれど、熟睡しているのはここが彼女の家だと完全に認識してくれていると言うこと。
あまり音を発てないように自分の部屋を開け、スーツを片付けシャツやズボンを脱いだ。クリーニングに出すもの、洗濯機で回すものと選り分け、洗濯機に入れるものと着替えを持って部屋を出た。ソルトがキャットタワーの上で寝ているのを確認して、部屋を閉じた。所在確認をしておかないと、部屋に閉じ込めてしまうと困るからだ。
洗濯物は洗濯カゴに。夜遅いので洗濯機を回せないのが少し辛い。一週間分の着替えも持ち帰ったのだ。仕方が無い。朝回して、昼間食事に戻ったときに干すか、夕方早めに戻ってきて洗濯するか。
洗面台の前で髪を乾かしていると、カリカリとガラスを引っ掻く音。ドアを開けてやればソルトが入ってきた。洗って貰う気満々なようだ。笑って洗って乾かしてと、そうやってソルトの相手をしていると、ようやく、管区の一週間が終わったのだと、実感した。
「来週からカイも大学の単位認定試験が有るから、来られるかどうか……」
「にゃあ」と返事をされて苦笑した。独り言に相づちを打ってくれる相手が居るだけでも和むものだ。
タオルで拭いてやっている時に、餌皿と水皿が空っぽだったことに気づいた。危ない危ない。夜は食べないのだろうが、念のため餌と水を入れてやった。春久が部屋のドアを閉じてソルトに入らないようにと命じているから、腹が減ったのどが渇いたと直接訴えることが出来ないのだ。その分は春久が気を配る必要が有る。念のためというのは当然、急な出動も含む。
皿にどっさり餌を載せたが、ソルトはそれを見ようとしない。むしろ水を飲み、自分の寝床と決めているキャットタワーの上だ。風呂上がりに水分が欲しくなるのは、人も猫も変わらないようだ。
月曜日に出勤。
その日が、課長にとって、生活安全課長として最後の出勤日だ。
「丹波」
「はい」
返事をすると、課長は係長たちの方を向き、
「俺と丹波は午前中、ほぼほぼ席に居ないからな。何か有れば携帯に連絡を入れてくれ」
と口にした。
「了解しました」
係長たちの了承を受け、飲み物を持って二人で会議室に。本当に課長と膝を突き合わせるのがこれが最後になるのかと、もの悲しい。けれど、いつまでも感傷に浸っているわけにもいかない。
まずは一週間の管区での事を話した。野沢の事をプッシュしておいたことについては、それで良いのだと褒めてくれた。この年で褒められるとさすがに照れくさい。けれど、そうやって後進を褒めたり宥めたり、時にはきっちり叱って育てて行けと、諭された。
副課長と言っても、係長兼任だから現場にも出る。けれどそれは可能な限り他の係長に任せろと。待っている方が胃が痛くなることもあるが、それでも人を育てるために必要な痛みなのだと。
情報の経路を確認され、優先順位を間違えていないか、念押しもされた。今後どのようにやっていくのか、もちろん新しい課長が来れば課もその色になっていくのだろうが、それまでは春久は課長のやり方を踏襲しつつ、次の課長に引き継げるように取りまとめもしていかなくてはならない。
昼食の為に家に戻り、出迎えてくれたソルトに癒やされる。カイが抱きしめて頬ずりする気持が判る。やらないけれど。
カイから、一月いっぱいは行けないとメールが届いたときは心底がっかりした。長い間独り者だからそれなりに食事も作るし、いざとなれば店も食堂もある。それでも、カイの食事に代わる物は無い。
結局トラブル発生で年末には一度しか出来なかった忘年会、課長が異動することになって到底手も回らなかった新年会。忘年会に参加出来なかった係長を中心に、課長が異動した後でわざわざ顔を出して貰い、送別会兼新年会を開いた。係長プラス班単位で食事に行ったり。
これからは春久もそうやって連れ出してコミュニケーションを取っていかなくてはならなくて、ソルトにも寂しい思いをさせていたが、それで一月を乗り切った。もちろんきちんと書類仕事をしていたし、課長の仕事をやる合間で巡回にも出た。さもないと煮詰まりそうだったし、課長からも時間に余裕があるときは現場を見ることもサボるなと言って貰っていたから。
一月往ぬる、二月逃げる、三月去る……。まだ一月が終わったばかりだが、早すぎだ。
「ソルトソルトソルト~~ん~~~~っ!」
玄関を開けてソルトが出迎えに来ないと思ったのだ。靴が有ったことは視界の隅に捉えてもいたけれど、それでも。
床の上に俯せに寝転がって、ソルトの前足を掴まえ、甘い声で会えなかった間の寂しさを訴えている。
「ただいま」
再度声を掛けると、カイはびくっと振り返り、急いでソルトを放し、その場に座った。
「お、お帰り!」
「にゃあ?」
自由になったソルトが春久の足にまとわりついてきた。
「帰ってきたの気づかなくて、ごめんね」
「いや。良いんだ。そうか、一月いっぱい来られないと言っていたが、もう大丈夫なのか?」
「もう二月だよ? 来週も来るよ。大きな仕事抱えていたんだけどようやく納品出来た」
そう言うと、座っているカイの膝に乗ってきたソルトの頭をそっと撫でる。春久もその隣に座って、同じくソルトの背中を撫でた。ソルトは幸せそうだ。春久も幸せだ。
「カイ」
「何?」
「膝貸してくれ。なんか、お前が来てくれて、張り詰めていたものが緩んだ気がする。少しだけで良い」
ダメか? ダメなのか? 断られたら抱きしめるかも。
「良いよ」
即答されて驚いた。それで急いでスーツの上着を脱いだ。ソルトが占領していた膝の上、頭を載せて横になった。
「ハルさんは。お昼なのに、時間大丈夫なの?」
「さっきまで仕事をしていた。これから月曜の朝まで待機込みの休みだ。課長から電話が掛かって来て、俺の半月間の勤務時間を確認したんだろうな。休めと、人手が足りないと言ったら、待機にしてでも、ともかく休めと叱られた」
説明しながら、伝わってくるカイの温もりにホッとする。それからカイに背中を向ける。カイの方を見るのも、上を向いてカイと顔を合わせるのも照れくさかったから。それでテーブルの向こうが見え、ソルトの水飲み場の様子が変わっていることに気づいた。
「ソルトの水皿替えたのか?」
「あ、うん。ペットボトルに水を入れておけば、下の水が減ったら自動給水。ペットボトルは市販の奴で大丈夫だから、たまに取り替えれば良いし。ソルト女の子だけど、バレンタインのプレゼント」
「あ……来週も来るんだよな?」
「来る。ソルト成分が足りない」
「だったら、チョコケーキ買っておく。悪い、今年はキャンプも行けそうに無い。少なくとも新しい課長が来るまでは」
「判った」
「大学の前期の面接授業も無理だな。新しい課長が来ても、確定での休みも取れない。土日休み取れたとしても、待機だ」
大きく溜息を吐いた。出世はありがたい。春久も人並みに出世欲は有る。目の前の相手に凄いと言わせたい。けれどそれで遊べなくなるのは本末転倒だ。
「ハルさんはすごい。頑張ってる。たまに息抜きしても良い」
そう、呟くように春久の肩を撫でてくれる。全身の力が抜ける。
カイは優しいのだ。春久が精神的に余裕が有るときなら「お断り!」そう断固として許さなかっただろう。けれど春久が疲れ切っていることを理解しているから、こうやって膝枕をしてくれ、甘やかせてくれる。
「ソルト、しー。ダメだよ。今はハルさん寝かせてあげてね」
気づいたとき、カイが足下に座っているソルトに、そうやって掛ける声が、聞こえてきた。ソルトは春久の目の前に座っていたから、その姿が目に入ったのだ。そして、もっと気づくと、人の温かさが頭に。ソルトの頭を撫でているように、カイの手が春久の頭を撫でている。
うずくまりたくなるほど幸せだ。
途端にソルトが春久の服で爪を研ぎ始めた。カイが爪を切ってくれているのだろう、小さく生地に引っかかった爪は、すぐに滑っていく。
「あ、こら、ソルト」
けれど春久は手を挙げてそれを止めた。
「寝ていたみたいだ。ソルトに起こして貰った」
腕を上げ、そのままカイの頭を引き寄せる、とかも頭を過ぎったけれど、正面切って顔を見れば照れるだろう事もあり、カイに背中を向けたまま起き上がった。
さすがに床の上に寝転がっていたから、体も痛い。温もりが消えるのは寂しいが、そんなことも言っていられず、立ち上がってスーツを拾い上げた。
「着替えてくる」
「うん」
カイは両腕を前に置いて、前屈みになった。
「カイ?」
「ちょっと痺れが。直ったらご飯の支度する」
硬い床の上で春久の膝枕をしてくれていたから! 「悪い」と謝れば「大丈夫」と笑ってくれる。
少しだけ動けるようになったのか、それとも春久の目を気にしてか、片膝を立てて座り込んだ。それを確認して、春久も部屋に戻った。
「ハルさん、お昼遅いからうどんで良い? 代わりに夜は奮発するよ。水炊きにしようと思っている。締めはおじやかな」
部屋から出ると、すぐに声を掛けられた。そこまで言われると、一気に空腹を感じてきた。
「もちろん。ああそうだ。お好み焼き、たっぷりのソバが入っていた奴、また作って冷凍しておいて欲しい。市販の冷食買ったけれど、量が少ない」
「オッケー」
ソファーに座れば、ひょいとソルトが飛び上がってくる。一月の間は殆ど構ってやれなかったのに、それでもこうやって甘えてくれる。可愛い存在だ。貰ってきたときに比べて随分大きくなった。
それで何となく察して、トイレをチェック。ソルトを膝から下ろして、急いでトイレの掃除に取りかかった。カイが来たときに掃除してくれただろうし、きっと食事の支度をする前もチェックしてくれていると思う。ということは、トイレ使いたてほやほやだろう。もしかしてソルトは、掃除の催促に来たのか?
「ソルト」
カイに呼ばれて、春久の隣でうろうろしていたソルトが、急いで飛んでいく。「にゃあ」と返事をするのが可愛い。カイはソルトの餌皿に白っぽいものを置いた。途端にソルトがガツガツと食べる。一緒にカリカリ音もしている。
「ゆっくり食べて良いのに。誰も取らないよ。ハルさんもご飯」
「今行く」
立ち上がって洗面所で手を洗い、再びテーブルの前に戻った。
「お待たせ。おかわり有るよ」
そう言って出してくれたのは、天ぷらうどん! うどんとは別に、皿に色んな天ぷらが盛り上がっている。一人じゃ油ものはしないので、本当に久しぶりだ。
当然おかわりもする。さくさくの天ぷら。英気が養える。
「仕事、息抜きできる?」
「そうだなぁ。元々副課長なんて職務、無かったんだよ、うちの部署。課長補佐よりも権限が付くし待遇も良い条件だ。ほぼほぼ課長の独断で設定してくれていた。俺が管区に呼ばれることになったのも影響はしているんだが、そうやってあらかじめ課長の仕事にも関わっていたんで、その分は楽をさせて貰っている」
「ずっと課長の仕事もやってたって事?」
「少しずつ、係長の仕事を減らして、他の係長たちに割り振っていたからな。決断の重みが増えたし、実質一人減って、仕事も増えたんだが、それでも随分マシだと思っている」
その決断の重みが桁違いではあるが、それをカイに零すわけにはいかない。
「さすがハルさんだね」
「先ほど言ったように、少なくとも今年はキャンプも面接授業も無理だけどな」
「お土産持ってくるよ」
「まあ、授業資料は楽しみにしている」
キャンプに行くなとは言えない。それはカイの趣味であると共に、ストレス解消手段の一つなのだから。
「休日って全部待機?」
「そうじゃないときもある。新しい課長が来れば問題無いはずだ」
「だったら、日帰りツーリング行かないとね。それに日帰りならソルトも大人しく留守番できるし」
思わず立ち上がり、ソファーに座るカイを後ろから抱きしめていた。
「ハルさん!」
カイの悲鳴。それは判る。判るけれど、衝動だったのだ。
「お前が俺の癒やしだ。今はお前とソルトの、一人と一匹が」
「ハルさんっ」
カイの後頭部に春久の額を押し付けた。
「お前が居なければ俺は今までに潰れていた。お前の優しさに甘えている。お前が誰かと付き合う気になるまで、お前に甘えていても良いのか?」
あえて、「女」限定とはしなかった。今もって女のことは苦手にしているのを、知っている。けれど男なら? そんな思いが頭の隅を過ぎったから。
カイは何も言わなかった。
「お前の負担になったか? 悪い。けれど、俺の本心だ」
カイの頭にキスをして、離れた。これでカイが来なくなるかも知れないが、本当に自分の行動が制御出来なかったのだ。




