第八話 文字を滅ぼす者ではない
法務院の事情聴取は、その日の夕飯までに終わらなかった。
夜を越えた。
翌朝も、昼も過ぎた。
二日目の夕方になって、ようやく四人は石造りの庁舎から出られた。
「もう二度と契約書を見たくない」
ティルダが階段へ座り込む。
「事情聴取の調書も契約書ではありません」
レクスが言う。
「文字が多い紙は全部同じ」
「違うわ」
シグナは抱えていた書類を整えた。
「契約書は当事者の合意を記録する。調書は発言と事実を記録する。証拠目録は――」
「今は説明しないで」
ティルダは両手で耳を塞いだ。
ロマンが庁舎の扉を振り返る。
「結局、俺たちは無罪でいいんだな」
「正確には不起訴よ」
「同じじゃないのか」
「違うわ」
「説明はいい」
「皆、文字を嫌いになってない?」
シグナだけが元気だった。
法務院の判断は、こうだ。
レクスによる契約改変は事実。
ただし、依頼の履行も事実。
バルコが契約の判定権を悪用し、報酬を不正に免れようとしたことも記録水晶で確認された。
契約書自身が達成を認定した以上、改変後の意味にも不合理はない。
レクスたちは処罰されない。
代わりに、今後契約文へ能力を使った場合は、必ず法務院へ届け出ることになった。
「この一行が気に入りません」
レクスは許可証の末尾を指した。
《未届改変時、能力使用者を拘束する》
「『未』を消したら、届け出たときに拘束される文へ変わるね」
ティルダが言う。
「消しません」
「分かってる。言ってみただけ」
「そういう冗談を法務院の前でするな」
ロマンが二人を立たせた。
「帰るぞ」
「待って」
シグナが庁舎脇の道を指す。
「先に行きたい場所があるの」
「飯より大事か」
「《文字喰らい》の記録があるかもしれない」
レクスの足が止まった。
「ギルドの能力目録にはありませんでした」
「現代の目録にはね。法務官から、王立古文書庫の禁架目録に似た名前があると聞いたわ」
「先に言ってください」
「事情聴取中に聞いたのよ」
「今から行くの?」
ティルダが空を見た。
日は沈みかけている。
「書庫はもう閉まるよ」
シグナは胸元から銀色の鍵を出した。
「研究員は夜間も入れる」
「元貴族って便利だね」
「これは研究実績でもらった権限よ」
「便利なのは変わらない」
王立古文書庫は、法務院の裏手にあった。
窓のない四角い建物だ。
壁には防火と防湿の術式が何層も刻まれている。
正面扉で調査員証を見せると、老いた司書が四人を地下へ案内した。
「禁架の資料は持ち出し禁止。複写禁止。能力による改変も禁止です」
司書はレクスを見た。
「あなたには特に言っておきます」
「触れません」
「閲覧台からも動かさないこと」
「はい」
「唾を飛ばさないこと」
「そこまで信用されていませんか」
「本を守るためなら、国王にも同じことを言います」
シグナが小さく頭を下げた。
尊敬しているらしい。
地下三階。
鉄格子を二つ抜けた先に、禁架閲覧室がある。
司書は分厚い本を一冊運んできた。
表紙の半分が焼けている。
残った題名をシグナが読む。
「『失われた字術と世界改変者』」
書かれたのは約八百年前。
作者名は焼けていた。
シグナが薄い手袋をはめ、慎重にページを開く。
古代レム語より古い文字だった。
「読めますか」
「少し時間をちょうだい」
文字を写すことは禁止されている。
シグナは指で形を追い、声に出さず口だけを動かした。
ティルダは三分で机へ突っ伏した。
ロマンは入口の椅子へ座り、目を閉じる。
レクスは本に触れず、向かい側からページを見た。
読めない。
ただ、同じ形が何度も出てくる。
丸い輪の内側に、三本の線。
それだけは覚えた。
「あった」
シグナが声を上げた。
司書が扉の外から咳払いする。
シグナは声を落とした。
「能力名ではなく、呼び名として書かれている。《字喰らい》」
「同じものですか」
「断定はできない。でも、説明が似ているわ。世界に記された字を喰い、その意味を変える者」
レクスは身を乗り出した。
「続きは?」
シグナが次の行を読む。
ゆっくり現代語へ直す。
「文字喰らいは、文字を滅ぼす者ではない」
四人の間から眠気が消えた。
「では、何をする者なんですか」
レクスが聞く。
シグナはページの下へ目を動かした。
言葉が出てこない。
「どうしました」
「ない」
「読めない?」
「違う。続きがないの」
文章はそこで途切れていた。
次のページが根元から破られている。
乱暴に裂いた跡ではない。
刃物で丁寧に切り取られていた。
「誰かが持っていった?」
ティルダが切り口を見る。
「かなり昔ね」
シグナは残った繊維へ目を寄せた。
「本が焼ける前。切り口にも煤がついている」
レクスは短い一文を見た。
文字喰らいは、文字を滅ぼす者ではない。
なら、今まで消した文字は滅びていない。
どこへ行った。
答えなら、体が知っている。
喉の奥。
胸の内側。
能力を使うたびに重くなる、形のない異物。
「数を調べましょう」
シグナが言った。
「数?」
「あなたの中にある魔力反応よ。前から気になっていた。古文書の記述と関係があるかもしれない」
閲覧室では術式を使えない。
四人は本を司書へ返し、一階の検査室を借りた。
シグナが棚から透明な水晶板を出す。
冒険者登録に使う鑑定板より小さい。
「本来は、体内に残った呪いを探す道具よ。手を置いて」
レクスは板へ触れた。
「最初の剣で一回。毒蜘蛛で一回。古代の石扉。管理階段。ドレグの剣。中央守護像。契約書」
シグナが指を折る。
「能力を使ったのは七回ね」
「はい」
水晶に光が灯った。
赤。
紫。
青。
色の違う小さな点が、レクスの手の下に浮かぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
最後まで数える。
七つあった。
誰も話さなかった。
「一致したね」
ティルダが言う。
「七回使って、七つ」
シグナは板の横にある目盛りを確認した。
「魔力の残りかすではないわ。一つずつ形が保たれている。互いに混ざっていない」
「文字の形が見えますか」
「そこまでは。ただ、性質が違うことは分かる。《無》を喰ったときの反応だけ、周囲の光を弱くしている」
レクスは手を離した。
七つの光が消える。
体の中からなくなったわけではない。
見えなくなっただけだ。
「削除した文字って、どこに行っているの?」
シグナが尋ねた。
古代水路で初めて会ったときにも、同じことを聞かれた。
あのときは何も知らなかった。
今も答えは分からない。
ただ、一つだけ違う。
「俺の中です」
レクスは言った。
「どんな形かは分かりません。でも、ここにある」
胸へ手を当てる。
「消したんじゃない。たぶん、本当に喰ったんだ」
ロマンが難しい顔をした。
「腹を壊さないのか」
「心配するところ、そこ?」
ティルダが笑う。
「冗談ではない。増え続けるなら限界がある」
笑いが止まった。
シグナも水晶板を見る。
「そうね。八個、九個と増えたときに何が起きるか分からない」
「使わないほうがいいですか」
「それを決めるには、情報が足りない」
シグナは古文書庫の地下へ続く階段を振り返った。
「破られたページを探しましょう。誰が、なぜ持ち去ったのかも」
検査室の扉が開いた。
老司書が立っている。
「閉館時間です」
「研究員は夜間も入れるのでは?」
「禁架の鍵を返していただきます。今夜から閲覧許可が停止されました」
シグナが立ち上がる。
「なぜですか」
「たった今、上から命令が届きました」
「誰の命令?」
司書は答えず、一枚の通知書を差し出した。
差出人の名はない。
署名の代わりに、白い紙を表す四角い印が押されていた。
その中央に、黒い一本線。
レクスは禁架の本で見た形を思い出した。
丸い輪の内側に三本の線。
同じではない。
だが、似ている。
「この印を知っていますか」
司書は首を横へ振った。
ティルダは通知書を見つめた。
「この人、知らないのは本当。でも、怖がってる」
老司書の手が、わずかに震えている。
「帰ってください」
今度は強い声だった。
「その本を調べるのは、もうやめなさい」
四人は古文書庫を出た。
外は完全に夜になっていた。
通りの向こうに、白い外套を着た男が立っている。
レクスが目を向けると、男は角を曲がった。
ティルダが追う。
すぐに戻ってきた。
「消えた」
「人通りは?」
「誰もいない。足音も途中で切れてる」
シグナは通知書の印を手帳へ写した。
「私たちより先に、《文字喰らい》の記録を探している者がいる」
「先ではない」
レクスは地下の本を思った。
八百年前に切り取られたページ。
「ずっと前から、知っていた者がいる」
胸の奥で七つの何かが脈打った。
一度だけ。
まるで、近くにいる誰かの呼びかけへ答えたように。




