第三話 読めない文字は喰えない
毒蜘蛛の巣は、古代水路まで続いていた。
王都の外壁より古い地下道だ。
入口は薬草畑の井戸の底にあり、巣を焼くだけなら放置してもよかった。
問題は、水路の壁に開いた穴だった。
蜘蛛が掘ったものではない。
四角く切り出された石の縁に、細かな文字が並んでいた。
穴の先には遺跡がある。
その報告を受けたギルドは、調査依頼を出した。
レクスとロマンが選ばれた理由は分かりやすい。
最初の発見者だったからだ。
「勝手に奥へ入らない。遺物に触らない。魔物が出たら俺の後ろへ下がる」
井戸を下りながら、ロマンは三度目の確認をした。
「分かっています」
「毒を弱くしたから平気だ、などと言わない」
「それも分かっています」
「解毒薬は一本で銀貨一枚だ」
「何度言うんですか」
「お前が銀貨一枚分、反省するまでだ」
レクスは返事をせず、梯子を下りた。
足が地面へ着く。
水路には膝下ほどの水が流れていた。壁に掛けられた魔灯が、白い石肌を青く照らしている。
穴の前には、先客がいた。
若い女だった。
年はレクスより一つか二つ上だろう。
淡い金髪を後ろで束ね、地面に座り込んでいる。周囲には紙が散らばり、膝の上には分厚い本が開かれていた。
壁の文字を紙へ写すのに夢中で、二人が近づいても顔を上げない。
「調査員か?」
ロマンが声をかけた。
「今、話しかけないで」
女は壁を見たまま答えた。
「この字だけ形が違う。王朝後期の省略ではなく、北方書体が混ざっているのかも……だとしたら、建造年代が百年ずれる」
「ギルドから来たのかと聞いている」
「来たわ。調査員よ。シグナ・コーデクス」
そこでようやく振り返る。
青い目がレクスの腰の剣で止まった。
「あなたが文字を消した人?」
「剣の『不』を消した人、なら俺です」
シグナは立ち上がった。
距離が一気に縮まる。
「どう見えたの? 触れた感覚は? 削除前と削除後で魔力の組成は変わった? 消えた字の残響は追った?」
「一つずつ聞いてください」
「では、消えた文字はどこへ行ったの?」
「知りません」
シグナの眉がつり上がった。
「知らない?」
「見えなくなりました」
「世界を構成していた情報が、見えなくなっただけで消滅したと思ったの?」
「昨日、能力が分かったばかりです」
シグナは何か言いかけたが、ロマンが二人の間へ腕を入れた。
「研究発表は地上でやれ。まず中を調べる」
石壁の穴を抜ける。
先には短い通路があり、その突き当たりを黒い石扉が塞いでいた。
扉には銀色の文字が四つ浮かんでいる。
レクスには読めなかった。
見たことのない形だ。
文字だとは分かる。
だが、意味が頭へ入ってこない。
「古代レム語よ」
シグナが横から言った。
「意味は?」
「『いまだ開かれぬ門』。短く訳すなら《未開門》ね」
「なら、『未』を消せば《開門》になる」
レクスは扉へ触れた。
何も起きない。
銀色の文字は揺れもしなかった。
「発動しません」
「当然でしょう」
「訳は聞きました」
「聞いただけよ」
シグナは一番上の文字を指した。
「これが『未』に当たると思った?」
「違うんですか」
「それは『門』。古代レム語は下から上へ読むの」
レクスは手を離した。
危なかった。
もし能力が形だけを見て発動するものなら、「門」を消していた。
残る言葉は《未開》。門の状態として意味が成立するかは分からない。
「翻訳を知ることと、文章を読むことは違うわ」
シグナが紙へ四つの文字を書き写す。
「古代レム語には、独立した『未』という語がない。否定と未完了を示す接頭字が、動詞の形を変える。この二文字で『まだ開いていない』を表すの」
「二文字なら、一度では消せない」
「最後まで聞いて」
シグナは三番目の文字に丸をつけた。
「この字が動作の未完了を示している。これだけを除けば、否定の働きは失われる。残った接頭字は、動作を命じる形になる」
「つまり?」
「扉に刻まれている意味は、《未開門》から《開門》へ変わる。現代語ではそう読める」
説明を聞きながら、レクスは紙の文字を追った。
下から上へ読む。
門。
開く。
動作がまだ完了していないことを示す字。
その状態を固定する接頭字。
四つの形が、ばらばらの記号ではなくなっていく。
どの字が何を指すのか。
なぜ一字を取ると命令へ変わるのか。
レクスは自分の言葉で繰り返した。
「この文字は『未』そのものじゃない。開くという動作を、まだ終わっていない状態にする。それを消すと、残った字が開門の命令になる」
「ええ」
シグナがうなずく。
「今度は読めているわ」
レクスは石扉に向き直った。
銀色の文字へ触れる。
先ほどとは違った。
指先に、文字の意味が返ってくる。
閉ざされた門。
開く動作は始まっていない。
その状態を保つ命令。
消すべき一字が黒く浮かび上がった。
「これだ」
レクスは指を押し込む。
古代文字が黒い粒へ崩れた。
粒は指先から腕へ入り、喉の奥を通った。
飲み込む感覚。
これで三度目だ。
扉に残った文字が、銀から青へ変わる。
《開門》
低い音が響いた。
石扉の中央に隙間が生まれる。
積もっていた砂を押しのけ、左右へ開いていった。
冷たい空気が流れ出す。
「開いたな」
ロマンが魔灯を掲げた。
扉の向こうには、下へ続く階段がある。
壁にも床にも、びっしりと古代文字が刻まれていた。
レクスには一つも読めない。
今の扉を開けられたのも、シグナが意味を教えたからだ。
「知っていれば使える、じゃない」
レクスはつぶやいた。
「理解しないと使えない」
「それがあなたの能力の条件みたいね」
シグナは開いた扉よりも、レクスを見ていた。
怖いほど楽しそうな顔だった。
「決めたわ」
「何をですか」
「私も奥へ行く」
「調査員なら最初から行く予定では?」
「そうではなく、あなたと組むの」
シグナは胸を張った。
「あなたには私の知識が要る。私には、文字が現実を変える瞬間を見る機会が要る。完璧な取り引きでしょう」
「俺の安全が条件に入っていません」
「善処するわ」
「その言い方は信用できない」
ロマンがため息をついた。
「話は帰ってからにしろ。ここから先は未調査だ」
三人は扉の前に並んだ。
階段の奥には、青い光が点々と続いている。
シグナが最初の一段へ足を置いた。
床の文字が赤く光った。
「待て!」
ロマンがシグナの襟をつかみ、後ろへ引いた。
次の瞬間、階段の両壁から槍が飛び出した。
シグナの鼻先をかすめる。
三人とも固まった。
壁に新しい表示が浮かぶ。
今度は現代語だった。
《関係者以外使用不可》
レクスは読んだ。
読めてしまった。
七文字の中に、見覚えのある一字がある。
ロマンがレクスの肩をつかんだ。
「まだ消すな」
「分かっています」
「本当だな?」
レクスは《使用不可》の四文字を見た。
昨日なら迷わず「不」を消していた。
だが今は、その前に考えることがある。
この文章は誰を関係者と呼ぶのか。
使用とは何を指すのか。
何が使えるようになるのか。
答えを知らずに文字を消せば、開くのは道とは限らない。
「まず、全部調べます」
レクスが言うと、ロマンはようやく手を離した。
シグナだけが、満足そうに笑っていた。




