第二話 消しても毒は消えない
壊れた剣を直した翌朝、レクスは薬草畑に立っていた。
剣は腰にある。
廃棄予定だったため、能力検証への協力報酬としてギルドが譲ってくれた。
昨日まで廃棄品だったとは思えないほど、鞘の中で静かに収まっている。
だが、剣が立派になっても使い手まで強くなるわけではない。
「そこで止まれ」
前を歩く大男が片手を上げた。
ロマン。三十歳。元兵士。
今朝、ギルドの受付嬢が紹介してくれた銅級冒険者だ。
短く刈った黒髪。古傷の走る顎。背中には、レクスの胴ほども幅のある盾を背負っている。
「糸がある」
言われて目を凝らす。
薬草の葉と葉の間に、白い糸が一本張られていた。
朝露がなければ見落としていた。
「毒蜘蛛ですか」
「たぶんな。依頼書では三匹。畑の持ち主は、昨日一匹見たと言っている」
レクスは依頼書を開いた。
討伐対象――畑荒らしの毒蜘蛛、三匹。
報酬――銅貨二十枚。
備考――巣を発見した場合は手を出さず、ギルドへ報告すること。
「数が合いません」
「まだ一匹も見てないぞ」
「糸の張り方です。一本だけなら獲物を捕るには足りない。ここは巣へ戻る道だと思います」
ロマンがレクスを見た。
「細かいな」
聞き慣れた言葉だった。
「よく言われます」
「褒めたんだ」
ロマンは盾を下ろした。
「依頼書には従う。巣なら戦わず戻るぞ」
「はい」
二人は糸を避け、畑の奥へ進んだ。
土には小さな穴がいくつも空いている。
薬草の茎が途中からなくなっていた。切られたのではない。溶けている。
レクスは剣の柄へ手を添えた。
足元の土が盛り上がった。
「下だ!」
ロマンが盾を振り下ろす。
土を破って現れた毒蜘蛛が、盾の裏にぶつかった。
犬ほどの大きさだった。
八本の脚。濡れた黒い腹。口元の牙から紫の液が垂れている。
ロマンが盾で押さえ込む。
「首を狙え!」
レクスは剣を抜いた。
一歩踏み込む。
剣を振る。
硬い殻に刃が食い込んだ。
浅い。
毒蜘蛛が体をねじった。前脚がレクスの手首をかすめる。
「離れろ!」
ロマンの盾が横から突き出された。
毒蜘蛛が地面を転がる。
その隙に、レクスは剣を両手で握った。
今度は首の付け根へ振り下ろす。
刃が殻を割った。
毒蜘蛛は脚を縮め、動かなくなった。
「一匹」
息を吐いた直後、薬草の陰が動いた。
二匹目。
三匹目。
四匹目。
依頼書どおりの数だ。
ただし、最初の一匹を含めれば四匹になる。
「報告より多い!」
「見れば分かる!」
ロマンが盾で二匹を押しとどめる。
もう一匹が横へ回った。
レクスは剣を構えた。
敵の牙を見る。
脚の動きを見る。
跳ぶ直前、腹がわずかに沈んだ。
来る。
レクスは横へ転がった。
毒蜘蛛が頭上を越える。
避けた。
そう思った。
左のふくらはぎに熱が走った。
着地した毒蜘蛛の後脚。その先端が革靴の上から刺さっている。
レクスは剣で脚を払った。
足がしびれる。
視界の端に紫の文字が浮かんだ。
《猛毒》
息が詰まった。
心臓が速くなる。
指先から力が抜けていく。
「レクス!」
ロマンが叫んでいる。
遠く聞こえた。
毒蜘蛛が迫る。
レクスは剣を持ち上げようとした。
腕が動かない。
文字だけが、はっきり見える。
《猛毒》
二文字。
消せるのは一文字だけ。
「毒」を消せば《猛》になる。
猛。
激しい。荒々しい。
何が猛なのか分からない。一つの状態名として成立しない。
なら、消せない。
なら、消す候補として残るのは「猛」だ。
レクスは紫の文字へ手を伸ばした。
「喰え」
指が「猛」に触れる。
文字が黒く染まった。
一瞬だけ迷う。
消したあとに残るのは《毒》。
毒は消えない。
それでも、猛毒よりはましなはずだ。
「『猛』を消す」
黒い粒が指先へ吸い込まれた。
喉が鳴る。
昨日と同じだ。
何かを飲み込んだ感触。
状態表示が変わる。
《毒》
胸を締めつけていた痛みが薄れた。
止まりかけていた指が動く。
だが、しびれは残っている。
吐き気も消えない。
毒蜘蛛が跳んだ。
レクスは動けなかった。
大盾が目の前へ滑り込む。
鈍い音。
毒蜘蛛が盾に弾かれた。
ロマンは盾の縁で敵を地面へ押しつけ、剣を突き立てた。
「あとで説教だ」
「助かりました」
「まだだ」
もう一匹が背後からロマンへ迫る。
レクスには、その動きが見えた。
足は動かない。
剣も届かない。
「後ろ!」
ロマンが振り返る。
盾を投げた。
大盾の角が毒蜘蛛の頭を打つ。
体勢が崩れたところへ、ロマンの剣が入った。
二匹目も沈む。
残る一匹は逃げた。
薬草をかき分け、畑の外へ走っていく。
ロマンは追わなかった。
腰の袋から小瓶を出し、レクスの隣へ膝をつく。
「飲め」
「毒は弱くしました」
「消えてはいない」
瓶の栓を歯で抜き、レクスの口へ押し込む。
苦い液体が舌に広がった。
レクスはむせた。
「高かったんだぞ、その解毒薬」
「あとで払います」
「銅貨二十枚の依頼で、銀貨一枚の薬を使った」
「赤字ですね」
「お前は計算ができると言っていたな」
ロマンの声は低い。
本気で怒っている。
レクスは地面に座ったまま頭を下げた。
「すみません」
「謝るところが違う。能力を使う前に、何が残るか考えろ」
「考えました」
「なら、使ったあとも戦えると思ったのか」
答えられなかった。
猛毒を毒へ変えた。
成功だと思った。
実際、死なずに済んだ。
だが、それだけだ。
毒は残った。
体は動かなかった。
ロマンがいなければ、弱くなった毒を抱えたまま蜘蛛に食われていた。
「消せば解決するわけじゃない」
レクスは口に出した。
「そうだ」
ロマンは空になった小瓶をしまう。
「お前の力が何をできるか、俺には分からん。だが、できないことを知っている奴のほうが長生きする」
畑の奥から、草の揺れる音がした。
逃げた一匹ではない。
もっと多い。
一か所ではなかった。
薬草の間で、いくつもの黒い影が動いている。
ロマンが立ち上がり、盾を拾った。
「依頼書の備考は覚えているな」
「巣を発見した場合は手を出さず、ギルドへ報告する」
「走れるか」
レクスは足に力を入れた。
まだしびれている。それでも立つことはできた。
「走ります」
「よし。初仕事の最後に、一つだけ教えてやる」
ロマンはレクスの腕を肩へ回した。
「依頼書の注意書きは、命より重い」
二人は畑を離れた。
背後で無数の脚音が重なる。
レクスは振り返らなかった。
喉の奥には、また異物感が残っている。
昨日より少しだけ重かった。
飲み込んだ「猛」が、まだ自分の中にある。
そんなはずはない。
文字は消したのだ。
そう考えるほど、違和感ははっきりした。




