第一話 ゴミスキル《文字喰らい》
レクス・リテラは、細かいことが気になる。
冒険者ギルドの受付台に傷が七本あることも。
依頼書の端が一枚だけ折れていることも。
壁に貼られた注意書きの「火気厳禁」という文字から、「厳」の下半分が剥がれかけていることも。
どれも今は関係ない。
分かっている。
それでも目に入ってしまう。
「次の方、どうぞ」
受付嬢に呼ばれ、レクスは前へ出た。
背後には十人ほどの列ができている。皆、レクスと同じ新人だった。
屈強な男。弓を背負った少女。高そうな杖を抱えた少年。
装備だけ見れば、レクスが一番弱そうだった。
革の胸当て。安物の短剣。使い込んだ背負い袋。
村を出るときに用意できたのは、それだけだ。
「お名前をお願いします」
「レクス・リテラ。十七歳です」
「読み書きは?」
「できます」
「計算は?」
「簡単なものなら」
受付嬢の羽根ペンが止まった。
「魔物との戦闘経験はありますか?」
「畑に入った角ウサギを追い払ったことなら」
「それは戦闘経験には入りませんね」
「ですよね」
受付嬢は小さく笑い、登録用紙の空欄を埋めた。
「最後に能力鑑定を行います。手をこちらへ」
台の上には、透明な板が置かれていた。
鑑定板。触れた者の名や適性、固有能力を文字として映し出す魔道具だ。
どんな能力を持っているか。それによって、冒険者としての扱いは大きく変わる。
強力な能力なら、最初から有力な一団に誘われることもある。逆に使い道のない能力なら、一生荷物持ちで終わる者もいる。
レクスは手のひらを板に置いた。
冷たい。
鑑定板の奥に白い光が灯った。細い光の筋が集まり、文字を作っていく。
最初に名前。次に年齢。
その下に、固有能力が現れた。
受付嬢が読み上げる。
「固有能力――《文字喰らい》」
聞き慣れない名前だった。
レクスは板をのぞき込んだ。
能力名の下に説明が続いている。
対象に刻まれた「意味を持つ文字」から、一文字だけ削除する。
「……一文字?」
思わず声が漏れた。
受付嬢も困った顔をしていた。
「一文字、ですね」
「何のために?」
「少々お待ちください。過去の記録を調べます」
受付嬢は分厚い能力目録を取り出した。
ページをめくる。何度も行き来する。
やがて彼女は申し訳なさそうに首を振った。
「《文字喰らい》という能力は登録されていません」
「珍しい能力ということですか?」
「そうとも言えます」
受付嬢は言葉を選んだ。
「能力目録に載っていないだけで、強いとは限りません」
後ろから笑い声が聞こえた。
「一文字消してどうするんだ?」
「看板の書き間違いでも直すんじゃないか」
「冒険者より書記官になったほうがいいだろ」
レクスは振り返らなかった。
言われて当然だと思ったからだ。
炎を出す。傷を治す。身体を鋼のように変える。
そういう能力なら使い道が分かる。
一文字だけ消す。
それで魔物を倒せるとは思えない。
「能力の詳しい条件は、使いながら調べるしかありません」
受付嬢が木製の札を差し出した。
「レクス・リテラさん。冒険者ギルドへの登録を認めます。階級は銅級からです」
「ありがとうございます」
札を受け取る。
表面には名前と階級が刻まれていた。
これでレクスも冒険者だ。
胸が躍る――はずだった。
実際には、先ほどの笑い声が耳に残っていた。
何年も前から冒険者になると決めていた。剣を振る練習もした。文字を覚えた。村を出て、三日かけて王都まで来た。
その結果が《文字喰らい》。ひどい名前だ。もう少し格好のいい呼び方はなかったのか。
「おい、どけよ。登録が終わったなら次だ」
後ろの男に言われ、レクスは受付台を離れた。
そのとき、ギルドの奥が騒がしくなった。
「危ないから離れて!」
二人の職員が一本の剣を運んできた。
片方は柄を持ち、もう片方は厚い布で刃を包んでいる。
剣身は赤黒く変色していた。刃の中央に大きな亀裂が走っている。
職員たちはそれをレクスの近くにあった木箱へ置いた。
「地下倉庫へ運ぶんじゃなかったのか?」
「先に廃棄申請が必要だ。勝手に捨てたら、また管理長に怒鳴られるぞ」
「あの人、壊れた剣一本でもうるさいからな」
職員たちは受付へ向かっていった。
レクスは木箱に残された剣を見た。
古びてはいるが、安物には見えない。柄には銀の装飾がある。刃に走る亀裂さえなければ、レクスの短剣よりずっと立派だ。
剣の上に、赤い文字が浮かんでいた。
鑑定札による状態表示だ。
《使用不可》
読めば分かる。
壊れているのだから、使えるはずがない。
レクスは通り過ぎようとした。
足が止まった。
《使用不可》
四文字。
そのうち一文字だけが、妙に気になった。
「まさかな」
自分でも馬鹿らしいと思った。
それでも鑑定板に表示された説明を思い出す。
対象に刻まれた「意味を持つ文字」から、一文字だけ削除する。
この表示は意味を持っている。剣の状態を示す情報だ。
なら、条件には当てはまるのではないか。
レクスは剣に手を伸ばした。
「ちょっと、触らないでください!」
受付嬢の声が飛んできた。
レクスの指先は、すでに赤い文字へ触れていた。
文字は宙に浮いている。実体はない。
なのに、指には紙を押したような感触があった。
四文字の意味が、頭の中へ流れ込んでくる。
使用できない。
壊れている。
武器として機能しない。
レクスは理解した。
同時に、消せる文字も分かった。
「使」を消せば、《用不可》。
「用」なら、《使不可》。
「可」なら、《使用不》。
どれも、剣の状態を示す言葉としては意味が通らない。
一文字だけ違う。
それを抜いても、言葉は残る。
「『不』」
レクスがつぶやいた瞬間、赤い文字が揺れた。
《使用不可》
四文字のうち、「不」だけが黒く染まる。
墨を水に落としたように輪郭が崩れた。文字が縮む。
小さな黒い粒になり、レクスの指先へ吸い込まれた。
「うっ」
喉の奥に、妙な感触が走った。
硬いものを飲み込んだような違和感。
咳き込むほどではない。
レクスが首を押さえている間に、剣の表示が変わった。
《使用可》
直後、乾いた音が鳴った。
刃に走っていた亀裂が閉じていく。赤黒い錆が剥がれ落ちた。曇っていた剣身に光が戻る。
巻き直したように柄の革が締まり、欠けていた鍔まで元の形を取り戻した。
誰も声を出さなかった。
笑っていた新人たちも。剣を運んできた職員も。受付に並んでいた冒険者たちも。
全員が、木箱の上で輝く剣を見ていた。
レクスは恐る恐る柄を握った。
軽く持ち上げる。
剣は折れなかった。それどころか、金属とは思えないほど手になじんだ。
「なあ」
背後で、誰かがかすれた声を出した。
「今、何をした?」
「一文字、消しました」
レクスは正直に答えた。
受付嬢が勢いよく鑑定板へ目を戻す。
表示を読み直し、剣を見る。もう一度、鑑定板を見る。
「そんな……」
彼女の手から羽根ペンが落ちた。
「文字を消しただけで、剣そのものが直った……?」
レクスにも理由は分からない。
分かるのは、目の前で起きたことだけだ。
《使用不可》から「不」を消した。
残った言葉は《使用可》。
剣は、その言葉どおりの状態になった。
レクスは自分の左手を見た。
何も変わっていない。
ただ、喉の奥にはまだ、小さな何かが引っかかっている。
飲み込んだはずのないものが、そこに残っている気がした。
受付嬢がこちらを見つめている。
先ほどまで浮かべていた穏やかな笑顔は消えていた。
「レクスさん」
「はい」
「その能力、本当に一文字を消すだけなんですか?」
レクスは答えられなかった。
鑑定板には、確かにそう書かれている。
だが、言葉が変われば現実まで変わるなど、どこにも書かれていなかった。
木箱の上では、壊れていたはずの剣が銀色の光を放っている。
レクスは、もう一度その表示を見た。
《使用可》
たった一文字。
それが消えただけだ。
それだけで、世界は壊れた剣を「使える」と認めた。
なら。
もし、もっと別の文字を消したら。
そのとき世界は、何を正しいものとして受け入れるのだろう。
レクスは剣を握ったまま、しばらく動けなかった。




