第十九話 忘れた約束
シグナは、自分の首に浮かんだ文字を読めなかった。
《家名の復興のためアーカに従う》
目では追える。
一字ずつ声にも出せる。
だが、意味を考えようとすると頭痛が起きた。
「アーカとは誰ですか」
レクスが聞く。
「知らない」
シグナは両手でこめかみを押さえた。
「その名前を口にすると、何か思い出しませんか」
「白い部屋」
「ほかには?」
「分からない。見ようとすると、白く塗り潰される」
ティルダがシグナの手を握る。
「嘘はついてない。でも、言えないんじゃない。思い出せないようにされてる」
捕らえた白紙会の男にも同じ契約印があった。
ただし文面は違う。
《記録保全のためアーカに従う》
男はアーカのことを聞かれると、口を開いたまま動かなくなった。
記憶そのものが封じられている。
「契約を消せないか」
ロマンが尋ねた。
レクスはシグナの首へ手を近づける。
文字は見える。
だが、指先が意味へ届かない。
文章が皮膚に刻まれているのではない。
もっと深い。
シグナ本人の記憶に埋まっている。
「今のままでは無理です」
「どうすれば読めるの」
ティルダが聞く。
「契約が結ばれたときの意味を、シグナ自身が思い出す必要があります」
シグナは青ざめた顔を上げた。
「私が、アーカに従うと約束した?」
「契約が本物なら」
「覚えていない」
「だから探します」
コーデクス家は十年前に没落した。
当時、シグナは八歳。
父親が王国の古代記録を改ざんした罪に問われ、家名と領地を失った。
両親は投獄後、流行病で死亡。
シグナだけが遠縁の家へ預けられた。
「父は無実だった」
王立学院の資料室で、シグナは古い裁判記録を広げた。
「そう信じて研究者になった。改ざんされたという古代記録を、自分で確かめるために」
「裁判記録には何と?」
「父が禁架から三枚の文書を持ち出し、一枚を書き換えた。証拠は父の署名と、書き換えに使った羽根ペン」
「白紙会の印は?」
「ないわ。十年前の記録に、その名前は一度も出てこない」
ティルダが署名を見た。
「この署名、本物?」
「父の字よ」
「そうじゃなくて、父親が自分で書いた?」
シグナは答えられない。
署名が本人の筆跡でも、記憶や文字を操る者なら作れる。
「家が没落した夜、誰かに会いませんでしたか」
レクスはシグナの父親の顔を見た。
「覚えていない」
「白い部屋は?」
「実家に白い部屋なんて――」
シグナの声が止まった。
「地下書庫」
「白かった?」
「壁は石よ。でも、父が最後に研究していた本は白い表紙だった」
コーデクス家の屋敷は、王都西区に残っている。
没収後も買い手がつかず、十年間放置されていた。
四人は王から立入許可を得て、夕方に屋敷へ入った。
窓は割れ、庭は草に埋まっている。
玄関の上には、削られた家紋。
シグナが足を止めた。
「帰ってもいい」
ロマンは崩れた玄関の前で待った。
「いいえ」
シグナは扉を押した。
「私の記憶でしょう。私が見なければ、レクスも読めない」
地下書庫への階段は崩れていた。
ロマンが瓦礫をどける。
ティルダが細い隙間から先へ入り、内側の扉を開けた。
書庫には何もない。
本棚も机も運び出され、四方の石壁だけが残っている。
正面の壁に、四角い白い跡があった。
大きな本を長く置いていた跡。
シグナがそこへ触れる。
首の契約印が光った。
部屋が白くなる。
レクスたちの姿が消える。
八歳のシグナが立っていた。
記憶の再現だ。
父親は床へ倒れている。
白い表紙の本が宙に浮かぶ。
ページの上に、人の形をした光があった。
顔はない。
声だけが響く。
「父の罪を消したいか」
幼いシグナがうなずく。
「家の名を取り戻したいか」
「戻して」
「ならば、私に従いなさい」
白い手が差し出される。
「私はアーカ。すべての文字を記録する者」
幼い手が重なる。
契約文が首へ入る。
《家名の復興のためアーカに従う》
その直後、記憶全体が白く塗り潰された。
現実の地下書庫へ戻る。
シグナは床に膝をついていた。
「私が約束した」
声が震える。
「父を助けてほしくて。家を戻してほしくて」
「八歳だった」
ロマンはシグナの肩へ手を置いた。
「子供との契約が正当なはずはない」
「でも世界は契約として認めている」
シグナの首で文字が濃くなる。
記憶を取り戻したため、契約も完全に目を覚ました。
白い声が部屋に響く。
「シグナ・コーデクス」
アーカ。
「文字喰らいを記録神殿へ連れてきなさい」
シグナの体が立ち上がる。
自分の意志ではない。
腰の短剣を抜き、レクスへ向けた。
「逃げて」
口ではそう言う。
足はレクスへ近づく。
「私を止めて」
ロマンが間へ入る。
シグナの短剣を盾で受けた。
「契約を消せ!」
レクスは文字へ触れた。
今度は意味が返ってくる。
家名の復興。
コーデクス家の罪を消し、貴族の地位を戻す。
その目的が達成されるまで、アーカの命令に従う。
記憶と結びついた契約。
届く。
「『従』を消す?」
ティルダが言う。
《家名の復興のためアーカにう》
意味が成立しない。
能力は動かない。
「アーカを消す?」
文字ではなく名前だ。
どの一字を消しても別の人名として成立しない。
「家名を消したら?」
《復興のためアーカに従う》。何を復興するか不明になる。発動しない。
シグナの短剣がロマンの盾をすり抜けた。
彼女は戦闘が弱い。
それでも、契約が体を動かしている。
迷いがない分だけ速い。
刃がレクスの肩を切った。
「ごめんなさい」
シグナが泣いている。
「謝らなくていい」
レクスは目的の言葉を見た。
家名。
家の名。
コーデクスという貴族家の地位。
「家」を消せば、《名》。
《名の復興のためアーカに従う》
名誉を取り戻す。
失われた本人の名を、正しいものとして戻す。
意味は成立する。
「シグナの名誉は、戻っていますか」
レクスは返事を待った。
「何を――」
「王都を救った。古代水路を調べた。契約の不正を止めた。あなたの名前は、もう父親の罪だけで呼ばれていない」
ティルダがうなずく。
「私たちにとって、シグナはシグナだよ」
ロマンも言う。
「コーデクス家ではない。俺たちの仲間だ」
契約の目的を、家の復興から本人の名誉回復へ変える。
その目的なら、すでに果たされている。
契約は終わる。
レクスは「家」へ指を置いた。
「『家』を喰う」
文字が黒く崩れた。
喉へ落ちる。
《名の復興のためアーカに従う》
世界が契約の履行状況を確認する。
《対象名:シグナ・コーデクス》
《王都救済功績》
《王立学院研究員資格》
《冒険者ギルド登録》
《同行者三名による名誉承認》
文字が青く光った。
《目的達成》
《契約終了》
シグナの短剣が床へ落ちる。
体から力が抜けた。
レクスが受け止める。
首の印が割れ、白い粒へ変わった。
アーカの声が遠ざかる。
「意味を変えたか」
怒りはない。
むしろ満足しているように聞こえた。
「記憶へ届いた。次は歴史だ」
白い部屋が消える。
地下書庫は元の石壁へ戻った。
シグナはしばらく動かなかった。
「父の罪は、まだ消えていない」
やがて言った。
「家名も戻っていない。それでも契約は終わった」
「あなたの名は戻っていました」
レクスが答える。
「いつ?」
「少なくとも、俺が会ったときには」
シグナは目を伏せた。
「それ、もっと早く言って」
「聞かれませんでした」
「そういうところよ」
声には少しだけ笑いが戻っていた。
ティルダが二人の間へ入る。
「でも、アーカは最初から全部仕組んでた。シグナの父親の罪も」
「証拠はないわ」
「あの白い本が証拠」
ティルダは正面の壁を指した。
本が置かれていた白い跡。
そこに新しい文字が浮かんでいる。
《コーデクス家当主、禁書を盗み世界記録を改ざんした》
十年前の事件を示す一文。
その下に、白紙会の印。
「裁判記録と同じ文章」
シグナが触れる。
「でも、これは今書かれた」
文字は壁から広がり、王都の方角へ走っていく。
同じ一文が、あらゆる記録へ複写され始めた。
父親の罪だけではない。
レクスたちの冒険まで書き換える、歴史改変の始まりだった。




